そのささくれを君は引っ張るように

国見 紀行

優しくされることが、痛いこともある




「痛っ」


 ハンドルを強く握る手が痛い。

 しかし、確認する時間はない。俺は思い切ってペダルを踏みつける。学校に着く直前の長い坂は、そろそろ丸二年になろうというのに未だに慣れない。


 とはいえ、つい先日からかなり軽くなったのだが。


「……あいつはもう登校してるのかな?」


 昇降口に着くとつい目に行く、ある同級生の下駄箱。

 既に下靴が置かれているのを見て、ため息とも安堵の息ともしれないモノが口から漏れる。


 幼馴染の女の子、沢渡玲子の靴だ。


 ほんの二カ月前まで俺の自転車の荷台が彼女の定位置だった。

 だが、クリスマス前に彼氏ができたということで十年近く一緒に登校するという日課から解放されてしまったのだ。


 それからというもの、俺は一人でこの坂を上り続けている。

 女一人減ったところで変わらないだろうと思っていたペダルの重さは別のエネルギーがかかっているのか、むしろ重く感じる毎日に変わった。太ももにかかる力は減っているにもかかわらず、だ。


「あー…… 血が出てるな」


 教室について手袋を取ると、右手の中指にささくれができていた。

 冬場の乾燥もさることながら、去年誕生日にと玲子からもらった毛糸の手袋が中で引っかかり、壮大な剥け傷になっていた。


 まるで「あんたが早く告白しないからじゃない」って怒られているようだ。

 告白もしてないのに、失恋した気分。

 こういうヤローの事を言うんだろうな。女々しい、って。


 とりあえず軽くツバを垂らし、固まった血を濡らしてティッシュで拭きとる。


「手袋は…… 捨てるか」


 ささくれの惨状を考えると、もう使い物にならないだろう。

 色々な思い出も込めて、俺はそれを教室のゴミ箱に放り込んだ。


 だが、今日に限って俺は授業内容がほとんど入ってこなかった。

 なんせ今日はバレンタインデーだ。ほかの連中がそわそわしてたり突然カップルができたりと心に余裕がない俺にとって居心地が悪い。


 放課後、部活の将棋部室に着くまで俺のイライラは続いた。


「あっセンパイ、お疲れ様です!」

「お…… おう、曽山さん」


 部室には後輩の曽山未希みきさんがすでに将棋盤を出して準備をしていた。


「今日は負けませんよ! 勝ってお願いを聞いてもらうんです!」

「はは…… どうかな」


 今年入部してくれた後輩で、なぜかずっと俺に突っかかる。

 だが、将棋を打つ間はきっと忘れられるだろう。

 そう思って俺は早速彼女と一局指してみた。


「あ、センパイ中指から血が出てますよ?」

「うん、ささくれあるの気が付かなくて、手袋でヤっちゃった」

「何してるんですか!」


 そう言うと彼女はポーチから絆創膏を取り出すと、何を思ったか突然俺の中指を口に加えた。


「ちょ、何を!? っ? 痛!」


 もごもごと舌を動かし、ささくれを優しく舐める。

 口から離したとき微かに糸を引いたように見えたが、彼女はそれも気にせず絆創膏を貼り付けた。


「ダメですよ、ちゃんとしないと。帰ったら薬塗ってくださいね」


 ……そう言えば、朝方だけど俺もそこに唾塗ったっけ。


「センパイ?」

「あ、ああ。ありがとう」


 動揺からか、あるいはもうすぐ一年になる対局の成果か、今日に限って負けてしまった。


「マジか…… 上手くなったね、曽山さん」

「よし! それじゃあ」


 そういえばお願い事を、って言われてたっけ?


「きょ、今日はその、特別用意もしてきたので……」


 先ほど絆創膏を取り出したポーチから出てきたのは、明らかに既製品ではない包装紙に包まれた手のひらサイズの箱だった。


「にゅ、入部した時から好きでした。つつつ付き合ってください!」


 ああ、やっぱり俺は女々しいかもしれない。

 二カ月前から気になっていた心のささくれが、右手のささくれと一緒に癒されていくのが自分でもわかってしまったのだから。

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そのささくれを君は引っ張るように 国見 紀行 @nori_kunimi

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