第三十一話 グランドアビス

「……やっと抜けたな」

 まるで空全体に灰色のインクを垂らしたような雲の海を突き破ると、天井を青く塗ったような青い空が広がっていた。青い空って表現があるけど、空の色を青と呼んだっていうくらいの混ざり気のない澄んだ青色が広がっていた。

 目の前で、ユリは三角帽を押さえたまま空を見上げてため息を吐いた。

「吹き飛ばされそうなほどの乱気流。普通のドラゴンでは到達できないという意味が分かった気がします」

 ドラゴンたちは空を飛ぶ性質上、天候の変化に敏感だ。積乱雲がそこにあるだけで、本能的に避けようとする。だからこそ、ジェシーのように本能だけじゃなく知性も兼ね備えたドラゴンじゃないと雲の上までたどり着けないんだ。

『それよりも、見えてきたよ』

 頭上を覆う青い空。真下に広がる雲の海。そんな見慣れた光景の中で、灰色の雲海を引っ張るようにして浮かんだ黒い影。この距離じゃまだぼやけて見えるだけだけど、星の形が鮮明には見えないように、ぼやけた輪郭が却ってその大きさを物語る。

 近づくにつれて黒い影はその輪郭を現し、ついにはその背中が視界いっぱい、いや、空一杯に広がるほどに大きくなる。後ろからでも、どんなドラゴンの翼よりも大きく広げた尻尾の先端で空を漕ぐようにして泳ぐその威容はどんな物語よりも現実離れしていた。

「これがクジラ……」

 呆然としたような顔でクジラを見つめるアカネに対し、ユリは興味深そうな眼で目の前の一点を捉えていた。

「思っていたより何倍……いえ、何十倍も大きいです!」

「どうやって中に入るんだ?」

「クジラの防衛機構は、外敵の侵入を感知した瞬間に活発化します。当然、目や口、耳などの感覚器官から侵入するのは困難です」

「なら、一体どこから……」

 クジラが生き物だって言うなら、入るために目や口、耳なんかの感覚器官を通るのは避けられない。潮吹き山から入ればその下には命の花があるんだろうけど、守り神が守っているはずだ。準備もなく遭遇するのは危険すぎる。

 ユリはすました顔でクジラの下腹部に空いた穴を指差した。

「決まっているでしょう。肛門からですよ」

『ええ……本当にあそこから入るの? なんか嫌なんだけど、ボク』

「生き物としての定義からは外れていませんが、クジラと言えど島は島です。排泄物を出しているわけではありませんし。衛生観念は捨ててください」

『ええ……』

 一瞬だけがくっと高度が下がり、慌てて持ち直す。相当嫌がってるな。

 肛門とは言っても、体長数十キロはある巨大生物。尻尾の付け根に意味ありげに空いた比較的小さな穴でも、目測で直径百メートルはありそうだ。大きくなったジェシーが体内に入れるのかが心配だったけど、これなら余裕だろうな。

 肛門……もとい、巨大な洞窟の入り口に迫っていくにつれ、そのスケールに驚かされる。岩、岩、岩。まるで生き物の体内とは思えない。まあ、故郷が生き物の背中の上だっていうこともいまだに信じられないけどな。

 ジェシーに掴まり、大穴の中へ一気に上昇していった。

§

「……さっきから横穴だらけだけど、ちゃんと道はわかるのか?」

 十数分くらい洞窟を歩いたところで気になって尋ねると、ユリは懐から見取り図を取り出して立ち止まる。

 洞窟に入ってからは案内役のユリを先頭に、それぞれ周囲を警戒しながら奥へと向かっていた。どこを見渡しても岩だらけの洞窟内には目印になるものは何もない。その上、チーズみたいに無数の横穴が開いていて迷い込んだら元の道には戻れなさそうだ。そんな灰色の世界を見渡していたユリは見取り図を懐にしまって歩き始め、背中越しに口を開いた。

「ここは生き物の体内です。広い道へ進むようにしていけば、自然と中枢にたどり着くでしょう」

 どこか不安になる返答だけど、そう信じて進むしかないか。それよりも、さっきから気になってることが一つ。

「……それにしても不思議だな。洞窟の中なのに、灯りがなくても周りが見える」

 外からの光は途切れたのにも関わらず、洞窟の中はまるで曇り空の夕方のような明るさで、目を凝らせば遠くの道もよく見える。松明なんかを焚いて探索するもんだと思ってたけど、これだけ明るいと必要なさそうだ。探索がしやすくなるのは好都合だけど、どこか奇妙な違和感があった。洞窟内を見渡してアカネも首をかしげた。

「確かに妙だな。陽が差しているわけでもなければ、光源があるようにも見えん」

「洞窟の鉱石が発光しているからですね。奥に行くほど明かりが強くなっています」

 確かに、ユリが指差した先をよく見ると壁や天井のところどころに青白い光を放つ結晶体が露出している。たくさんの鉱石がぼんやりと点滅しているのを見ているとどこか不思議な気持ちになるな。

「でも、なんで光ってるんだ?」

「所々に露出している発光体は魔水晶と言って、魔力に触れると発光する性質があります。強力な魔物の体表に露出している結晶と同じものですね。洞窟内の豊富な魔力に反応しているのでしょう」

 なるほど。確かに、砂漠で出くわしたドラゴンや狼の親玉、それに成長したジェシーの額にも似たような結晶でできた角が生えていた。あれは魔力の結晶だったのか。魔力を使うための器官みたいな物……と考えれば納得がいく気がする。

「理屈はわかったけど、そもそも魔力ってなんなんだ?」

 故郷を出てから知った不思議な力。結局、その正体が何なのかは今のところよくわかっていない。目の前の専門家に問いかけると、ユリはその疑問を予測していたように話し始める。

「魔物の力と書いて魔力ですが、要は力の根源です。力にはいろいろな種類がありますが、この洞窟内では魔水晶の光だけでなく、溢れ出る魔力が光の力となって辺りを照らしているようですね」

「じゃあ、魔力を他の力に変えるのが魔術ってことか」

 どこか難しい話だけど、分かりやすい説明のおかげでかろうじて理解できそうだ。

「厳密には魔力を集めたり変換したりして干渉するのが魔術です。魔術師の研究結果が記された書物には魔力とは任意の事象を現実に反映させる力だと記載されていることが多いですが、要は現実を変える力と言ったところでしょうか」

 現実を変える力か。なんかかっこいいな。そんな力が俺にもあったら、シズクにつらい思いをさせることもなかったのかもしれないな。とはいえ、俺に魔術が使えたらアカネやユリと出会うこともなかったわけだから、どうなるかわからないな。

「俺も勉強すれば魔術が使えるようになれるかな」

「簡単な話、あなたは魔力を感じ取れますか?」

「だけど、修行とかすれば感じ取れるようになるんじゃないか?」

「例えば、目隠しした状態で周囲の物を動かすのは困難ですし、何より危険が伴います。魔力も同じというわけです」

 つまり、魔力を感じ取れない俺は魔力の世界において目隠しをしてるのと同じってわけか。

「それに、魔力を感じ取るというのは本来あり得ない素質……いえ、異能です。何せ、魔物の力が使えるのですから。魔術師が人よりも魔物に近い扱いを受けるのはそれが理由です。必要に迫られない限りは魔術なんて覚える必要はありませんよ」

 言外に、魔術を覚えたらそれに見合う代償を払うと言っているように聞こえた。どこか厳しい物言いだけど、それはユリなりの忠告ってことか。ユリは皮肉気にため息を吐いた。

「現実に不満を持っていた私には、皮肉にも現実を変える力があったというわけです。現実に不満でもなければ、魔術なんて覚える必要もありません」

 ユリはこの話題は終わりだとばかりにそっぽを向いて洞窟の奥に浮かんだ暗がりへ歩いて行った。

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