第三十話 雲上の洗礼

「……砂漠の夜は冷えるって、本当だったんだな」

 いつもの牢屋じゃなく客室のベッドで一夜を明かした後は、ジェシーと一緒に村の外でアカネたちを待っていた。日の出前の砂漠には凍り付くような夜の寒さが残っていて、息を吐くたびに白い息が煙のように上っていく。こんな時は、隣でうずくまって欠伸をしているジェシーの羽毛が羨ましい。

 成長したジェシーの背中は前よりもずっと広く見えた。少し前までは俺の身長と大して変わらなかったのに、今では思い切り見上げないと目が合わないくらいの大きさだ。黄色い砂漠と藍色の空の間から差し込み始めた金色の光に照らされて銀色の光を纏ったその姿に見とれていると、ジェシーは眩しそうにそっぽを向いた。

 ジェシーにつられて村の方に視線を向けると、いつものようにローブと三角帽を被ったユリがこっちに向かってくるところだった。

「ユリがこんな時間に起きてくるなんて珍しいな」

 眠そうに眼をこすりながら歩くユリに声をかけると、ユリは欠伸交じりに口を開いた。

「ほぼ寝ていませんけどね。皆さんを見送ったら仮眠をとるつもりでした」

「そういえば、アカネは?」

「まだ寝ているのではないでしょうか。昨日は遅くまで飲んでいましたからね」

 村長の家を出る時、毛布を一枚だけ被ったアカネがテーブルに突っ伏していたのを覚えてる。不思議と、飲みすぎてつぶれたアカネの肩に毛布を掛けるユリの姿が目に浮かぶようだった。

「付き合わされてたのか。大変だったな」

「よく師匠の愚痴に付き合わされていましたから、慣れてしまいました」

 俺の言葉に、ユリはそう言って肩をすくめた。口では悪態をついてるけど、不思議といやな気分ではなさそうだ。

「それで、どうしてこんな早くに? 出発までまだ時間はあるぞ?」

 てっきり、ユリは作業部屋の中からひっそり見送るもんだと思っていた。それがこんな時間に村の外でなんて、まるで何か用があるといわんばかりだった。ユリは思い出したように懐に手を入れる。

「出発の前に、これを渡しておこうと思いまして」

 懐から透き通るような光を放つ何かを取り出すと、地平線からさし始めた陽光を反射して銀色の光を空へと放つ。太陽の光に負けないくらい白く眩しい光に目を凝らすと、その正体は透明な意思に穴をあけて紐を通したアクセサリーだった。

「これはもしかして……ペンダント?」

「言ったじゃないですか。優勝者にはトロフィーが必要だと。このペンダントには魔除けのまじないが込められています。いざというとき、役に立つでしょう」

 準備があるって言ってたのは、これのことだったのか。なんて、ユリに聞いたら絶対に否定されるだろうけど。

 一緒にクジラに行きたいって言っていたのも、本当は師匠に会いに行くためだ。そして、一見非協力的な態度をとっていたのは、どこか焦っているアカネを引き止めるため。まじないの込められたネックレスだって、本当はついていけないなりに自分の代わりにみんなを守ろうとしてるんだと思う。

 ネックレスを見つめていると、銀色に透き通った宝石の中に赤い影が入り込む。顔を上げるとアカネが昇る太陽に目を細めながら歩いていた。

「待たせたな、レイン」

「やっと来たか。もうすぐ日が昇るぞ」

「全員集まっているようだな」

「ああ。出発できるか?」

 ジェシーは肯定するように体を震わせて姿勢を低くする。出発前の心の準備は、昨日の宴で済ませてきた。心と体は整った。本当の戦いはここからだ。

 白い羽毛に手をかけるようにして背中に上ると、いつもよりもずっと目線が高い。ジェシーが大人になったからだ。地面を見下ろすと、ユリが上目遣いでこっちを見上げてほほ笑んだ。

「行ってらっしゃい。アカネさん、レインさん、ジェシーさん。絶対に帰ってきてくださいね」

「何言ってんだ?」

 ユリは面食らったように目を見開いたかと思えば、すぐに誤魔化すように咳ばらいした。

「……し、失礼ですね。私が素直に見送っているのに」

 短い付き合いだけど、ユリが素直なわけがない。本心は、クジラの上に行きたいにきまってる。だけど、全部飲み込んでクジラの上に行く俺たちを見送ろうとしているはずだ。

 ユリが村を離れられないのは知っている。だけど、ユリは十分村のために働いてきた。村のことを一番に考えるアカネの気持ちもわかるけど、最後くらいは自分のやりたいようにしても罰は当たらないはずだ。それに。

「少しの間だけど、もうわかってるんだ。これからの旅でユリの力は絶対必要だ」

「でも、アカネさんはダメだって」

「そんなことより、行きたいかどうかの方が百倍重要だろ?」

 戸惑っているユリに対し、アカネはあきれたようにため息を吐いた

「……この村には魔術師としての知識を持っている者もいなければ、医療も浸透していない。その上、私たちが雲の上に行けば、魔物に襲われたときに戦える人間もいなくなる。この村にはユリの力が必要なんだ」

 アカネは改まった表情でユリの方に向き直る。赤い瞳がまっすぐユリを捉えていた。

「だが……君もこの村の一員だ。君一人にすべてを背負わせるくらいなら、私は君のために戦おう」

 アカネの言葉に、ユリは意図を図りかねるように首をかしげた。

「慎重なアカネさんらしくないですね」

「私にとって、この村の人間は命を懸けて守るべき人間だということだ。もちろん、レインやユリも例外ではない」

 意図を図りかねるような顔を浮かべていたユリに対し、アカネは

「現実的な話をするなら、この集落は大魔導士アイランが施した結解によって外からは認識しづらくなっている。数日程度なら魔物に見つかることもない」

 ここに来る直前まで村が見えなかったのは蜃気楼のせいじゃなく、魔術のせいだったのか。

「実を言うと、私たちがいなくなればリンドウを抑える者がいなくなるという問題もあったのだが、もうその心配も無かろう。それに、上空では何が起こるか分からない。不測の事態があったときにユリの知識が必要になるかもしれないし、何より、君の魔術の腕は平時でも戦闘時でも頼りになる」

 アカネの言葉は、俺も同意見だ。クジラの中では洞窟探索が主になる。内部構造に詳しい人間がいれば、探索がずっと楽になるはずだ。それに、ユリがいればジェシーが怪我して何日も立ち往生なんてこともなくなる。今思えば、命の花を手に入れるにはユリの力が絶対に必要だ。

 アカネは芝居かかったしぐさで咳ばらいをしたかと思えば、「というわけで……君さえよければ、私たちと一緒に来てくれないか」と言って恥ずかしそうな笑みを浮かべた。

「本当に、いいのですか?」

「当たり前だ。だって……俺たちもう、仲間だろ?」

 たとえ雲の上に行きたくても、村の魔術師であるユリは何か合理的な理由がないと首を縦に触れないことはわかってる。体裁が必要なんだ。それはつまり、村長の一族であるアカネの言葉だった。もう誰も、ユリを村に縛り付けたりなんかしない。

「さあ、行こう」

 そういって手を差し出すと、ユリは恐る恐る足を踏み出し、手を取った。こっちの視線に気づいたのか、下から不審そうな目を向ける。

「……どうかしましたか?」

「そう言えば、初めて会った時は手を取ってくれなかったなと思って」

「いいから、早くしてください」

 ユリはあきれたよう肩をすくめた。少しは気が抜けたみたいだな。

 細くて白い手を引き上げると、驚くほど軽かった。

「おいおい、わざわざ前に座ることないだろ」

 言外に前が見えづらいと伝えると、ユリは三角帽を上に向けて振り返って笑った。

「外の世界を見たいんです。一番前で!」

 まるで、凍り付いていた蕾が開いたような。いつものすました顔よりも笑ってるときの方が魅力的に感じるのは、こっちまで嬉しくなるからかもしれないな。そんな顔をされたら、後ろに座れとか言えないじゃないか。

「ほら、アカネも」

「私はいい」

 アカネにも手を差し出そうとすると、アカネは後ろ足に手を掛けて軽く飛び上がる。相変わらず、人間離れした身体能力だな。

「なんだ、平気じゃないか」

 アカネはドラゴンに乗ることに抵抗感があると思っていたけど、そんな心配は杞憂だったらしい。俺の言葉に、アカネは悪戯っぽく片目を閉じた。

「君が教えてくれたんだ。ドラゴンは相棒で、親友で、家族なのだろう?」

「やめろよ恥ずかしい」

 そんなやり取りを続けていると、ジェシーは急かすように体を震わせた。これから一番大事な一日が始まるのに、少し気が緩みすぎてたな。

『準備は良い?』

「ああ。うんと高く飛べ」

 服を掴むアカネの力が強くなるのと同時、目を開けていられないほど強い風に包まれる。目をこすりながら開くと、地上に落ちてきた時よりもずっと早く昇っていた。大きな翼で力強く羽ばたくごとに、まるで上に落ちていると錯覚するほどの浮遊感に目が回りそうになる。全身で掴まっていないと振り落とされそうだ。

「すごいな! 一瞬で村がみえなくなった!」

 アカネの声に地上を見下ろすと、すでに小さな集落は見えなくなり、周りに広がる泉と中心にそびえる命の木が見えるだけだった。ユリも強風に帽子を押さえながら顔を上げた。

「ドラゴンに乗るのは初めてですが、いいものですね。世界が広がった気分です」

「高いところは遠くの景色までよく見えるんだ。それこそ、何倍も遠くまで」

「この世界が球体だからですね。半分疑っていましたが、実際に証拠を見ることができるとは思いませんでした」

 こんなに生き生きした表情のユリは初めて見た。やっぱり、ユリを連れ出してよかった。アカネも空からの景色を見下ろして歓声を上げた。

「ああ。飛竜に乗れる機会なんてめったにないぞ」

 身を乗り出すようにして真下の景色を眺めるアカネに対し、ユリは深刻そうな顔を浮かべていた。

「感動しているところ悪いですが、少し速度を落としてくれませんか」

「ちょっときついか」

 飛ぶのに慣れている俺でも前を向くのがやっとなくらいの速さだ。ドラゴンに乗るのが初めてならなおの事きついはずだ。ユリはふるりと首を横に振る。

「いえ。強力な魔力を感じます。おそらく魔物が近くにいる」

「本当か? 何も感じないけど」

『確かに……微かだけど魔物の気配がする』

 どこまでも広がる青空に目を凝らしていると、頭に声が響いた。

 俺は目を開けているのがやっとだったのに、ユリは周囲に危険がないか注意を凝らしていたのか。やっぱり、クジラの上に行くにはユリの力が必要だ。俺たちだけだったら、気づかないうちに撃ち落とされていたかもしれない。安心すると同時、鳩尾の辺りに寒気が走る。

「なんだか、嫌な予感がするな」

 どこまで行っても空は穏やかで、魔物が近くにいる気配なんて感じられなかった。だけど、嵐の前の静けさって言葉がある。物事が順調に進んでる時こそ気を付けないといけない。島を出てから散々思い知らされた。案の定、次の瞬間には辺りが暗くなる。雲じゃない。巨大な影。まるで太陽が覆い隠されてるみたいだ。この光景に、見覚えがあった。

「上だ!」

 アカネの声に空を見上げると、黒い鱗に包まれた巨大なドラゴンが空を覆い隠すように羽ばたいていた。黒い鱗に覆われた体。鳥のようなジェシーの翼とは違い、蝙蝠のような、悪魔のような黒い翼は空を覆いつくすほどに大きく、禍々しい。そんな、故郷じゃ見たことないはずの漆黒の竜は、何故だか痛いほど見覚えがあった。

「あれは、この間のドラゴン……しかも、でかい!」

黒炎竜フレイムドレイク。ドラゴンの中でも気性が荒く、その戦闘力は大型の魔物に匹敵する。無駄な戦闘は避けるべきですが……妙に怒っているようですね」

「おそらく地上に来る際にレインが遭遇した魔物の親だろう。この間の魔物は幼体だったということだ。戦闘は避けられなさそうだな」

「大丈夫なのか?」

「なに、村一番の戦士と魔術師がそろっているんだ。恐れることなど無い」

 アカネのその一言が頼もしい。ジェシーと二人きりだったときはただ逃げ回るしかなかったけど、今は違う。仲間がいれば、魔物だって怖くない。

 黒雲竜は大きく口を開け、火球を吐き出した。今までこんな状況は何度かあったけど、今回はその量が違う。一発、二発、三発。火球をまるで毛玉みたいに軽々と吐き出していく。大口を開けてから数秒で青空が赤い炎に染まっていく。

「おいおい、大丈夫なのか?」

「この規模の攻撃は、防御魔術でも防ぎきれそうにありませんね」

「斬るか?」

『背中の上で暴れると落ちるよ?』

 戦闘力に自信ありの三人はこの状況でも冷静だった。

『ボクに任せて』

 そういうと、ジェシーは降り注ぐ火球を掻い潜りながら上昇し、黒いドラゴンの眼前に迫る。自分の力を試したくてうずうずしているようだった。

 黒炎竜はしびれを切らしたように一際大きい火球を放つ。この距離じゃ、避けられない。

「ユリ!」

 そして、それを予測していたようにアカネが声を上げた。

「堅牢なる不可視の障壁!」

 大人になったジェシーのさらに何倍も大きい火球が、ジェシーの鼻先で動きを止める。すぐに目の前の空間にガラスに石をぶつけたみたいな蜘蛛の巣状の亀裂が走る。

「数秒が限界です……! アカネさん!」

「任せろ!」

 力強い返答とともに文字通り空高く飛び上がる。

 真っ二つに両断され、大爆発を引き起こす。爆煙に包まれた。ジェシーが大きく羽ばたくと、黒煙が晴れた先で黒炎竜は再び口を開けていた。口の中に火の粉が集まり、赤い渦を巻きながら膨張していく。

「防げるか、ユリ!」

「集中力が限界です。何とかやってみますが……」

『大丈夫。ボクに任せて』

 ジェシーが羽ばたくと同時。竜巻が発生し、暴風に煽られた火の玉はまるで蝋燭の火みたいに消え、黒炎竜の巨体はそれ以上の大きさの台風に包まれた。白銀の羽根が黒いドラゴンに降り注ぐ。文字通りの白羽の矢がドラゴンの鱗を突き破った。

「なんだ? 急に空が暗く……」

 見上げると、黒い雲が空を覆い隠していた。さっきまで空は穏やかだったのに、こんな唐突に。本当の意味での異常気象だけど、つい最近にもこの現象を見たことがある。ユリは片眼鏡の下の眼を細めて口を開いた。

「これは雨雲……ではなく、雷雲か!」

「なぜ飛竜が空の王者と言われているか。答えは簡単です。天候を操る存在と大空の下で戦う想像が付きますか? 飛竜が空の王者になったのではなく、空が飛竜を王者にしたのです」

「これはまさか……ジェシーの力」

「大人になった飛竜は別の姿へと変化し、嵐を呼び、竜巻を引き起こす伝説の竜と化す。神の力と恐れられていた災害を操るその姿を人は、畏れを籠めてこう呼びました。天を制する神の竜……天征竜と」

黒雲が竜巻の様に渦を巻く。まるで、空を吸いこもうとしているように。迸る電流。本来、天気ってのは気まぐれで、神様でもない限り操ることはできない。

 黒炎竜の身体がきらめいたかと思えば、幾百もの稲光が黒雲竜を覆う白羽の矢に向かって降り注ぐ。夥しい数の光の矢に貫かれた黒炎竜は全身から黒い煙を上げながら黄色い砂の海に沈んでいった。

「これが伝説のドラゴンである飛竜の力。敵に回すと恐ろしいのに、味方にするとこんなにも」

『そんなことよりも、みんな掴まって。積乱雲に衝突する』

 ジェシーの声に顔を上げると、灰色の塊が目の前に迫っていた。


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