第二話 始まりの朝日

「……さん? 兄さん?」

 聞き慣れた声に目を開けると、ヒマワリのような少女――シズクがこちらを覗き込んでいた。肩まで緩やかな波を描く金髪に、透き通った碧い瞳。怒ってる顔も母さんにそっくりだ。なんて呑気に思ってると、シズクは頬を膨らませる。

「聞いていますか?」

「ああ、悪い」

「まったく、しっかりしてください。これ、眠気覚ましのコーヒーです」

 シズクはあきれたようにため息を吐くと、椅子の上でボーっとしてる俺の前にコーヒーのカップを置いて隣に座った。湯気が立ったままのコーヒーを一気に飲み干すと頭の中がすっきりしていく感覚と同時に、徐々に思考が夢から現実に引き戻されていく。

 あれから十年、森の中のログハウスは昔より小さく見えるようになった。俺はもう今年で十八だ。シズクも十六になった。今では俺のことを金髪坊主なんて呼ぶ奴は昔馴染みの知り合いくらいだ。

 感慨に浸っていると、不思議そうな顔をしたシズクが俺の顔を覗き込んでいた。

「どうしたんですか?」

「ちょっと、昔のことを思い出してたんだ」

 本当は他にも理由はあるけど、まさか見とれてボーっとしてたなんて言えるはずないな。曖昧な答えに、シズクは不思議そうな顔を浮かべていた。

「昔の事?」

「十年前……ジェシーと初めて会った時のことだ」

「今日は大事なレースの日ですからね」

 俺の言葉に、シズクは納得したように頷いた。

 今日という日が楽しみであまり眠れなかったからか、食事を取ってから小一時間くらい夢の世界に行っていた。純白のドラゴンと初めて出会った時の記憶。世界一のドラゴンライダーになって、シズクに世界中の景色を見せると誓った日の思い出だ。

 世界一のドラゴンライダーになる決意は、十年たった今でも変わらない。変わったのは、強くてかっこいいドラゴンに乗れるようになったこと。目標まであと半分ってところだ。

「……そういえば、あの日から大きな雨が降ってないですね」

 ふと、シズクは思い出したようにつぶやいた。同じ日のことを思い出してたみたいだな。

 確かに、十年前のあの日は見たこともないほどの大雨だった。そして、あれ以来一度たりとも大きな雨が降ってない。この島は湧水が豊富で水には困らないけど、変と言えば変だな。

「ま、雨でレースが中止になんてなったら目も当てられないし、いいんじゃないか?」

「まったく、相変わらずレースの事しか考えてないんですから」

 いつもの冗談だと思ったのか、シズクは口に手を当てて可笑しそうに笑った。

 レースの事を考えるのは当然だ。何せ、俺はドラゴンに乗ってるときが一番自由になれるからな。いつか、シズクと一緒に空を飛べたらどれだけ素晴らしいだろう。

 いつもよりきつめに靴紐を締めると、一気に気が引き締まる。今日はなんだかいける気がする。

「……じゃ、行ってくる」

「待ってください」

 椅子から立ち上がって玄関に向かうと、思いの外強い声で引き留められる。振り返ると、玄関に出てきたシズクが俺の前髪に手を伸ばしているところだった。

「寝癖がついてますよ。たくさんの人の前に出るんですから、ちゃんとしないと」

「俺ももう大人なんだ。それくらい自分でやるよ」

 いろいろと気にしてくれるのはありがたいけど、俺はもう十八だ。何もかもシズクに任せっきりなのは、どこか気恥ずかしい。

 軽く髪を払う仕草をすると、シズクは名残惜しそうに伸ばした手を引っ込めた。

「いってらっしゃい、兄さん。今日の夕飯はご馳走を作りますからね」

「ああ、行ってくる」

 太陽のようなシズクの笑顔に見送られながら玄関の扉を開けて外に出た。

 木漏れ日の向きからして、現在時刻は正午前。もうレースが始まってる時間だ。俺の出番まではまだ時間があるけど、急がないと遅刻しそうだ。

 いつものように辺りを見渡すと、相棒・・の姿が見えないことに気が付いた。

「……さて、ジェシー・・・・は今頃何をやってるんだか」

 いつもならログハウスの裏手にある小屋で休んでいるところだけど、見に行っても相棒の姿は無かった。いつもの場所で待ち合わせってことか。

 ログハウスの裏手から伸びる獣道を少し行くと、小さいけどきれいな泉が顔を出す。あの日、純白のドラゴンと出会った場所。俺にとっては思い出の場所だ。覗き込むと、嵐で水面が波打っていたあの日とは違って曇り一つない水面に自分の顔が映り込んでいた。

 盛大に寝坊したからか、ところどころの髪の毛がはねてぼさぼさだ。思い切り水をかぶると、眠気が洗い流されるようで気分がいい。

 父さん譲りの明るい金髪は密かな自慢だ。まだ父さんみたいに男らしくないけど、十年前と比べて少しは大人になった……と思いたい。

 顔に着いた水気を払ってまだ濡れた指で指笛を吹くと、ゆっくり、高く跳ね返る。いつもより晴れやかで、空気も軽い。今日は良い日になりそうだ。

 そのまま空を見上げると、指笛の音が空高く木霊し、少し遅れて、大空に雫を落としたような影が落ちる。

「……おはよう、ジェシー。いい天気だな」

 高い空いっぱいに響く指笛に引き寄せられて、あの日と同じ泉にあの日と同じ、天使のような純白のドラゴンが舞い降りた。あの日とは違って怪我一つなく、白い体には泥一つついていない。それどころか、陽の光を反射して嫌味なくらい眩しかった。こっちに気が付くと、純白のドラゴン――ジェシーは細長い口を大きく開けて、くあ、と欠伸した。

『おはよう……って言っても、もうすぐ太陽が天頂に上るけどね』

 嵐の日に初めて出会ってから十年。ジェシーは今もこの島で暮らしている。一緒に狩りをしたり、レースに出たり、今ではすっかり俺の家族だ。

 ジェシーが伝説と呼ばれている飛竜の子供だって知ったのは、出会ってすぐの事だった。一般的なドラゴンは硬い鱗に鋭い爪牙を持ち、戦うことが得意な個体が多い。そんなドラゴンの中から、鳥のように白い翼を持ち、流線形の体つきで飛ぶことに特化した個体が現れた。音すら置き去りにして大空を駆け、嵐を自在に操るその姿は、人々にとって畏怖や信仰の対象らしい。

 そんな大層な存在だから、傷が治ったらどこか知らないところへ飛んでいくものだと思ってた。俺にとってドラゴンは自由の象徴みたいな存在で、伝説の飛竜となればなおの事。それなのに、気づけばジェシーはそばにいた。まだ子供だから、嵐を操ったり、雷を落とす力はないらしい。だけど、大空を駆けるその姿は御伽噺に出てくる伝説のドラゴンそのものだ。

 意外にも父さんはジェシーが住み着くことについて何も言わなかった。それどころか、父さんは家のそばにジェシーが休める小屋を作り、俺が面倒を見ることを条件にジェシーと暮らすことを許可してくれた。

 面倒を見るとは言っても、俺がジェシーの面倒を見ることなんて一度たりともなかった。サボってたわけじゃなく、面倒を見る必要なんてなかったんだ。飛竜は人間みたいに毎日食べ物を食べる必要がない上に、他の動物に襲われたりすることもない。父さんが言うには、生態系に収まらない存在らしい。だからこそ、どうしてジェシーがこんなところに居続けるのかわからなかった。

『どうしたの?』

「悪い、ちょっと考え事してた」

 俺がそう言うと、ジェシーは泉の畔に舞い降りて呆れたように身震いする。それがジェシーなりの愛嬌……というか、感情表現だってことは長い付き合いでわかってる。

『早くしないと遅れちゃうよ』

「……まったく、大事な日ってのはせっかちだ。ボーっとしてたらすぐに過ぎ去っちまう」

『レインが寝坊したからでしょ』

 マイペースなジェシーにそんなことを言われるとは思わなかった。普段は何回呼んでも来ないくらいなのに、妙に張り切ってるみたいだな。まあ、こっちとしてはジェシーがやる気なら願ったりだ。

『ほら、早く乗って』

 そう言って、ジェシーは姿勢を低くする。

 ジェシーの背中は柔らかい羽毛に覆われていて、触ると豪華なベッドみたいに深く沈み込む。そのまま絹のような手触りを感じていると、ジェシーは急かすように体を震わせた。

『ほら、早く』

「わかったわかった」

 思い切り白い背中に飛び乗って、木漏れ日が差す方向に指を差す。人差し指で面舵いっぱい。言葉がなくても通じ合える。ジェシーが純白の翼で大きく羽ばたくと同時、周りの木々が揺れるほどの風が吹いた。そのまま二度三度羽ばたき、風に乗って飛び上がる。

 勢いよく枝葉の天井を突き破ると、木々の合間から広い世界が姿を現した。真下には鬱蒼とした森が広がり、その周りに広がる果てしない草原。さらに遠くの方では山が連なり、その向こうには故郷の街がある。俺はジェシーの背中から見える世界が好きだ。いつか、シズクにもこの景色を見せてやりたかった。

 鳥や風を追い抜いてさらに加速すると、真正面からの強風と陽光に目がくらむ。このままじゃ振り落とされそうだ。

「調子がいいのは分かったから、もう少しゆっくり飛んでくれ」

『でも、もうとっくにレースの時間だよ』

 ジェシーは細長い首をこっちに向ける。そんな不満そうな顔しなくても、レースの舞台は逃げたりしない。

「だからだよ。今が一番賑わってる。つまり、会場に荷物を運ぶドラゴンも多いってわけだ」

 いくら直線距離で進めるからと言っても、これじゃ早すぎる。空は自由と言っても、流石にこの速度で他のドラゴンにぶつかったら大惨事じゃすまされない。

「まあ、ジェシーが急ごうとする気持ちもわかるけどな」

 今日は年に一度だけ開催される、この島で一番大きなレースの日だ。それも、今年で千五百年目。そんな節目に、島中の人間が集まってるはずだ。遅刻なんかしたら顰蹙ものだけど、俺にはある目的がある。

「本命は最後に登場するもんだ。一番最後に登場して、一番最初にゴールするのが一番かっこいいだろ」

『まったく、適当なんだから』

 ジェシーは呆れたように身震いした。

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