眼鏡

澄田ゆきこ

本編

 先輩は眼鏡をかけないのに、デスクに眼鏡ケースが置いてある。

 それに気がついた直後、先輩がベランダから戻ってきた。まとう空気はかすかに煙草のにおいがした。窓から吹き込んだ風が、開きっぱなしの独和辞書をぱらぱらとめくる。

「先輩って眼鏡もってたんですね」

 かまをかけてみた。

 先輩は椅子に座りながら、「ああ、これ」と困ったような微笑を浮かべた。女の影、という言葉があたしの脳裏をかすめた。でも普通、女の影って言ったら、アクセサリーとか長い髪とかじゃないのかな、でもそれが眼鏡だっていうのもなんだか先輩らしいな、なんて、一瞬のうちに随分と長い思考が頭を巡った。

「高校同期の形見なんだよね」と先輩は言った。

「形見?」

 あたしは無神経なふりをして尋ねる。

「うん、急病で。卒業してすぐだった」

 それきり、先輩の言葉が途切れる。ケースを開ける所作は慈しむように丁寧で、黙っている先輩の代わりに色んなことを物語っている気がした。

 あたしは眼鏡ケースをのぞき込む。フレームは黄色。耳にかける部分が黄色と白の縞模様になっている。随分と派手な眼鏡だ。ケースに入っている眼鏡拭きが水玉で、やっぱり女の子のだ、と思う。

「なんていうか……人を選びそうな眼鏡ですね」

「だよね。でも、彼女にはよく似合ってた」

「彼女?」

「言っておくけど、sheの方の彼女だよ」

 ふうん、という返事は、思わず不貞腐れたようになってしまう。

「どんな人だったんですか?」

 取り繕うように明るい声を出した。

「ぼくとは正反対の人だよ」と先輩は自虐的な笑みを作った。

「同じ文芸部だったけど、ぼくとはまるでタイプが違った。友達も多かったし、文才もあった」

「写真とか、ないんですか?」

「あったかな……待ってね」

 そう言ったわりに、写真はすぐに見つかった。

 まず目に留まったのは、制服の胸に花飾りをつけた、今より少しあどけない顔の先輩だった。

 その隣に、満面の笑みの女の子が立っている。先輩もそんなに背が高い方じゃないけれど、その子は先輩の肩くらいまでしか身長がなかった。もじゃもじゃした癖毛を高い位置で二つに結んでいる。にっと開けた口からのぞく、歯列矯正の金具。それと、例の眼鏡。

 ぱっと見ただけで強烈な個性を感じる。同時に、自信も。確かに先輩とは違うタイプだ。あんまり可愛くなかったことに安心している自分がいて、また一つ自分を嫌いになった。

「仲、よかったんですか?」

「心配しなくても、部活仲間以上の距離感ではなかったよ」

 先輩が薄く笑う。揶揄われた、と気づいたと同時に、頬がかっと熱くなる。

「でも……」と先輩が言いよどんで、あたしは「でも?」と続きを促した。

「一方的に、羨ましい、と思ってはいたかな」

 羨ましい、とあたしは復唱する。

「彼女の書く文は、明るくて鮮やかで、すごく魅力的だった。どんな風に世界が見えてたらこんな文が書けるんだろうって、ずっと不思議だった」

「……だから、眼鏡なんですか?」

 思い付きで口にしたそれは、正解だったらしい。「うん」と先輩が頷く。目はあたしではなく、窓の外の、どこか遠くを見ている。

「彼女の見えていた世界が見たかった。……そうは言っても、度が強すぎて、ぼくがかけたところで何も見えないんだけどね」

 この話は終わり、と言って、先輩が立ち上がる。華奢だけど大きな手が、窓のサッシを開ける。外からは生ぬるい春のにおいがした。

 先輩がベランダに出る。あたしもそれに続く。「狭いよ」「いいじゃないですか」「副流煙、吸うよ」「あたしにも一本ください」「きみ、煙草吸うんだっけ?」「吸ってみたくなったんです」そんな会話が風にさらわれる。

 先輩があの子の眼鏡をかけてみたように、あたしも先輩と同じ煙を吸って、同じ景色を見てみたかった。

 先輩は祈るようなしぐさで煙草に火を点けた。「ん」とこちらにライターを差し出してくる。顎をぐっと差し出して、煙草の先をライターの火に合わせる。思い切り吸うと、苦かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

眼鏡 澄田ゆきこ @lakesnow

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ