1章 第24話

 その日初めてアルバイトとして働く経験をした佐々木鏡花ささききょうか。今までは勇気が出せず、踏み込め無かった領域に鏡花は居る。どうせ自分には、そんな風に考えて後ろに下がってしまう少女だった。しかしこの自虐的な面は、少しずつではあるが改善されて来ている。

 とは言ってもまだまだ小心者である事には変わりない。全校集会で皆の前に立てば、緊張して上手く話せないだろう。神田小春かんだこはるやその友人達の様に、堂々と立つ事は出来ないだろう。

 ただし、以前と違って前を向くぐらいは出来る。些細な進歩でしかないが、少しずつ前には進めている。

 いつも教室の隅に1人で居たハズの少女は、ほんの少しずつ変化している。その切っ掛けとなった少年との関係は、まだそれほど進展はしていないけれど。





 鏡花は初めてのアルバイト楽しんでいた。覚えなければいけない事も多く、簡単とは言えなかった。しかし作業自体は相変わらず地味で単調なものだった。

 お陰で料理以外に特に得意な事はない鏡花でも何とか出来ている。いや、料理が出来るだけ器用でもあるからこそ、と言う方が正しいかも知れない。


「そろそろ時間よ佐々木ちゃん」


「…………え? あ、ホントだ」


「今日はここまでにしておきましょう」


 鏡花は思っていた以上に時間が経過していた事に驚く。気が付けば結構な量のDMを捌いていた。数百通、いや千に届いたかも知れない。黙々とこなしていたので正確な数までは分からない。いずれにせよ、本日の労働はこれで終了。


「分かりました」


「帰る前に春子はるこさんの所へ寄ってね。用事があるって」


「はい! お疲れ様でした」


 鏡花は作業していた全員に向けて頭を下げる。なんだか、結構時間が経つの早かったな。集中してたからかな。3時間の労働はあっという間に終わった。この調子でやっていければ、何とか自分でも続けて行けそうだ。


(…………あれ? 今知ってる声がしたような?)




「今日一番の酷い弄られ方しましたよ!」


 やはり知っている声だった。というか何故彼がここに居るのだろうか。春子さん専用の机の近くに、真君まことくんが立っていた。


「あれ? 真君?」


「っ! あ、ああ鏡花お疲れ」


「う、うん。真君は、なんでここに?」


「ああ、その説明は後でしてやる。先に帰る支度をして来ると良い」


 春子さんにそう言われては仕方ない。何だか分からないけど、さっさと用意しよう。帰ったら夕飯の用意もしないといけない。あんまりゆっくりしていても、困るのは自分だ。


 会社内の配置はそれほど複雑ではない。荷物の行き来をスムーズにする為、室内は単純な作りになっている。

 会社とは言っても、広い倉庫を作業場として改装して使っているだけだ。部屋数も少ない。そのお陰で迷う事無くロッカールームに戻れる。のんびりしている理由もない、鏡花はスムーズに帰り支度を済ませる。

 思えばバイト先に自分のロッカーがあると言うのも、新鮮で良い気分だ。何だかちょっとだけ大人に近付けた気がした。



「お待たせしました」


「ああ」


 春子さんが普段使っている机は、出入口に近い位置にある。会社を出入りし易い方が良いからと、出入り口に極力近い位置に置いたそうだ。来客時に使う社長室は奥の方にあるけれど、あんまりそっちには居ないらしい。

 今回は用事があるらしいけれど、用事があろうが無かろうが、どっちにしろ帰るとなると必然的に目の前を通る事になる。人によっては嫌な配置かも知れない。帰る前に高い確率で社長に会う事になるのだから。


「先ずは、お前のタイムカードだ。作っておいた」


 そう言うと春子さんは、『佐々木鏡花』と私のフルネームが印字された縦長の厚紙を差し出した。年と月を記入する欄、出勤と退勤の枠ある。


「おおぉ! これが」


 働く様になると、ほぼ必ず使うと噂のタイムカード。こ、これがそうなんだ。私も遂に、社会の仲間入り! モブ社会人として生きていく為の、必須級のアイテムがこの手に!…………思ってたより普通! 地味! つまり私の仲間なわけ。よろしく私のタイムカードちゃん! これから一緒に労働の歴史を積み上げて行こう!


「今回は出勤時に用意出来ていなかったからな、そこは手書きで良い」


「17時で、良いんですか?」


「ああ。それで良い。書いたらそこの機械に通せ」


 春子さんが指さしたのは出入口の近く、小さな台が置かれた上。そこにはベージュ色の小さな機械が置いてある。


「このベージュのやつですか?」


「正面に出勤と退勤のボタンがあるだろ? 退勤を押してから差込口に入れろ。タイムカードの向きには注意しろよ」


「は、はい」


 言われた操作を行ってからタイムカードを差し込むと、『打刻君』と書かれた機械の僅かな駆動音と共に、カードが吸い込まれていく。数秒の後に再び差込口から出て来たタイムカードには、21:00と退勤側の列に印字されていた。


「おお! 出来ました!」


「使用後は横にあるカードラックに入れておけ」


「あ、これですね。……どこでも良いんですか?」


「空いてる所ならどこでも良い」


「分かりました」


 やった! 初めてのアルバイトが無事に終われた! 自分に出来る訳が無いと思っていた労働! それを今日、私はやり切ったんだ! 何だか今日は凄く良い気分で寝れそう!

 鏡花は喜びを嚙みしめつつ、カードラックの空いてる場所に、『佐々木鏡花』と書かれたタイムカードを収めた。


「あれ? そう言えば真君はどこへ?」


「トイレだな。もう戻って来るから待ってろ」


「……? 春子さんに会いに来たんじゃないんですか?」


「あ~まあそうとも言うが、アイツは鏡花の見送りに来たんだ」


「なんで!?」


 ど、どうして? そんな約束してないよね?……え、頼んでないよね? 何か私、紛らわしい事言った? うーん、そう言う会話はしてないと思うんだけど。


「時間を考えろ。この辺は静かで暗い場所も多い」


「へ? まあ、そうらしいのは、聞きましたけど…」


「女子高生を1人歩きさせる訳には行かんだろう」


 言いたい事は分かるけれど、それは小春ちゃんみたいな美人が気にする事だ。私の様な平凡で地味な女なんて、心配するだけ大げさとしか思わない。

 それに自信過剰みたいでちょっと気が引ける。誰もお前なんてお呼びじゃないんだが。そんな風に変質者に思われたら、もう立ち直れない。一生残る心の傷だ。


「私なんて狙う物好き、居ませんよ」


「居るじゃないか、お前のすぐ後ろにその物好きが」


「へ?」


「はぁ。やっぱり鏡花はそう考えてるのか」


 後ろを振り返ると、そこにはトイレから戻って来たらしい真君が立っていた。

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