姫は謎を残していった


 今朝は気分がいい。

 みそ汁の具が大根だったし近所の柴犬を撫でられたし信号は全部青だった。

 校舎に響く喧騒も気にならない。寧ろ、朝だなぁと心穏やか。

 ああ、空気が清々し――


「ヒメって休みの日何してるの」


 あああ、穢れたわ。爽やかな朝の空気にビッと亀裂が入った。珍しく朝からいい気分だったのに。

 階段をのぼり終え顔を上げれば、思いのほか離れていない距離にその背中があった。


 あぁ、やっぱり。「ヒメ」は姫川だったか。真っ直ぐ前を見ていて顔は分からないけどリュックの外ポケットに刺さっているヘアピンは見覚えがある。花が埋め込まれてるやつ。

 僕より数段先をのぼっていたんだろう、足元見てたから全く気付かなかった。


 その隣を歩く男子はたまに見かけたことがある。同じクラスになったことはないけど、賑やかな人間は目立つからな。


「今度遊ぼうよ」


 廊下は広い。どちらかの横を抜けるのは容易い。だけど歩幅は狭くなって速度も落ちていく。

 だってもし姫川が困っているのなら、さすがに素通りはできない。

 僕が乱入してどうにかできるとは思っていないけど、空気を壊すくらいなら。

 できる。……できそう。な気もしなくもない。


「あ、休みが無理なら放課後でもいいよ」

「……」

「お互いに友達呼んでさ」

「……」

「カラオケ好き?」


 割り込む心の準備を(勝手に)しながら様子を窺う僕をよそに、姫川は小さく頭を下げ(たように見えた)無言で左折。教室へスッと入っていった。


 お……。おお。完全無視。

 さすがだ、慣れているということか。


 思わず足を止めていると、くるり踵を返した彼と目が合ってしまい、慌てて顔を伏せる。

 僕の横を抜ける際「チッ」と舌打ちをかまされ、「へっ?」と振り返れば通り過ぎていたらしい自分の教室へ消えていった。


 ……いやいや、ハァ!?

 見られて恥ずかしかったのか知らないけど、それはないんじゃないの!? 僕ただの通行人!


 腹の底から長い長いため息を吐いて教室へ入る。

 なんて最悪な朝なのか。帰りたい。


「……」


 ムカムカしながら一歩二歩と席へ向かっていた足が止まる。今、扉んとこ、なんかいたな。

 僕はぐるんと振り返った。


「みやまぁぁ」


 姫川が扉を背にしゃがみ込んでいた。僕をじっと見るその顔はいつもと様子が違って、白い肌がほんのり赤い。

 僕の名を口にすると姫川は立ち上がる。

 絡まれる予感。僕は急いで着席した。

 だからって回避できるわけもなく。姫川は僕の真横に立ちじっと見下ろしてきた。ああ、視線ビシビシ感じる。頭突き破られそう。


「深山、後ろいたでしょ」

「……まぁ、はい」

「もぉぉ、何で来てくんないの」

「は?」

「めっちゃ気まずかったんだから。もう、すっごい恥ずかしくってさぁ……」


 まさか照れて何も発せなかったの?

 少し驚いて顔をあげる。姫川はパタパタと手で顔に風を送りながら青山くんの席に座り、「ああ緊張した」と息を吐いた。


 後ろから見てる分には全くそんな感じはしなかったが。あぁでも、あの彼はなっている姫川の表情からイケるとがんがんいっていたのかもしれないな、と思った。

 あんなあからさまに無視されても諦めないなんてすごいなぁと、彼の心の強さに拍手でも送ってやりたいまであったが。なるほど、僕には見えていなかっただけか。

 手応えあったのに報われなくて? それを後ろにいた見知らぬ男に目撃されていた。なるほどなるほど、そりゃあ舌打ちでもしたくなるか。


 いぃや! ならないな!

 またムカムカしてきた。『どこからでも切れます』が全然切れなくなればいいのに。

 頭の中で地味に苛立っている彼を想像して僕の心は落ち着いていく。フゥ。ちょっとだけスッキリ。


「てかさぁ、深山」


 すっかり妄想の世界に浸っていると姫川の声がして現実に戻る。


「学校だとちょっと距離あるよね。なんで?」


 僕がスッキリしている間に姫川の顔も通常に戻っていた。切り替えがはやい人だよ。


「なんかさぁ雰囲気も違うじゃんね。家の方がもう少し柔らかいよ~」

「……そんなの。誰でも外では多少違うだろ」

「やーまぁそうなんだけどー」

「ひ、姫川だって、違う」

「えぇ?」


 姫川は学校では若干おとなしめだ。グループの中ではきゃいきゃいしてるのかもしれないが。

 教室で見ている分には周りの印象に合わせて『ヒメ』を作っている。

 だが僕はそれを悪いとは思わない。

 安らげる場所と戦う場所で同じ振る舞いをすることもないだろう。

 表と裏、内と外。違って全然いい。


 でもこんな風に絡んでくるのであれば僕だって言ってやる。

 度合いで言えば僕より姫川の方が違うんだ。


「あ、明らかに、違う。見て分かる」


 首を捻る姫川だったが「えー? 見てわか……」僕の言葉を途中まで繰り返し、ピタと止まった。

 そしてまるで独り言のように呟く。


「……え。深山、気付いてたの」


 ふん、と鼻息を少し荒めに僕は頷いた。

 自覚がなかったんだな。僕に対しては『ヒメ』の仮面がちょいちょい外れているというのに。

 例えば給食だ。普段はご飯の量への不満を出さないが、僕が当番のときは無言の圧力をかけてくる。

 クラスのやつらは知らないだろう、姫川の食欲旺盛っぷりは運動部男子・部活後バージョンである。


 ……まぁそんなことは置いといて。


 姫川の様子がおかしい。口元に拳を当てたり、頬を両手で包んだり、天井を見上げたり……。

 数秒、そんな姫川を見ていると、じとりとした目が向けられた。

 そして僕を困惑させるようなことを言う。


「深山って意外と女の子の体見るんだね?」

「……。へっ!?」

「えっち」


 な、なに!? なにが!?


 姫川は立ち上がるとリュックの肩紐を両手でぎゅっと握り、「べっ」と舌を出してきた。

 困惑は解消されていないのに、姫川はササッと素早く自分の席へ向かってしまったのだった。




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