姫は背後にいる
深山
僕は今、高揚している。
「……ふむ」
洗面台にて僕は僕と向き合っていた。
顎をクイと上へ傾け、鏡に映る姿を確認する僕の目線は意図せず流し目になる。
まぁ悪くない角度だ。あ、でもちょっとニヤけるのはいただけないな、こういうのは何でもないような意思を瞳に込めなければ。
しかしながら僕が注目するのは顔じゃない。Tシャツ、右肩から鎖骨へかけて斜めに破れた部分だ。
数時間前、僕は庭の草むしりをしていた。
今日は気温が高く重ね着は暑かった。
シャツを一枚脱いで物置の棚へ。その後は黙々と作業に没頭した。
すっかり綺麗になった庭に大満足で手を洗いに来た数分前。シャツを洗濯カゴに入れようとして、破れていることに気付いた。
そういえば棚の鋭利な角部分にかけてしまったかも、と落ち込む……ことはなかった。手に馴染み過ぎるそれがまるで輝いているように見えて。
着た。そして冒頭へ。
汚れてもいいと選んだ服だった。だいぶ着古して襟元が緩くなってきていたし。
だけどここにきてこの服への評価が爆上がりしている。
かっこいい。
なんか、斬られたみたいじゃない?
でも(当たり前だけど)僕は無傷。つまりは、
「ふう……、刃では僕に傷をつけられない、か」
あっこれ、下のシャツ脱いだ方がよりいいのでは。やはりこういうものは肌が見えていないと。せっかくの斬られた感が台無しだ!
やり直し……
「深山、首どーかしたの」
「!」
袖に腕を引っ込めようとした時だった。鏡に映る僕の右奥にひょっこり現れたのは姫川。あぁでも存在しているのは鏡の中の僕の世界じゃない。残念ながらこちらの世界……。ギギギと振り返る。
「え、首? え、いや……?」
「ずーっと鏡でこう、見てたでしょ?」
「……」
ずっと、だと? いつからいたんだ。
まさか決め台詞も聞かれ……いや。大丈夫だな。だって突っ込んでこないし。表情から察するに首の心配をしてくれてるだけっぽい?
ま、まあいい。ンンッ、あーあー、ごほん。大きめに咳をしてから腰に手を当てると、さりげなく右側を見せてやる。
「喉痛いの?」
「……あ、や……」
くそが。何でわかんないんだよ。ここは「それどうしたの?」だろ。
だが特に語ってやる気はないが? 「あ、まぁちょっと、やられちゃったかな」としか返してやらないし?
だから別にいいけど。……いいんだけど! それでもさぁ姫川よ。
ビッと綺麗に裂けているんだぞ、こんなん自然に起こる現象じゃない。なのにどうしてスルー?
はああああ、姫川はほんとに。はあああ。
いや、このかっこよさだ。デザインだと思っている可能性の方が高いか。やれやれ。これは人工的に生み出せる味ではないんだがな。やれやれ。
まあ、どちらにせよいいさ。『深山、実は陰で悪者と戦ってるのかも』とか妄想されちゃっても困るしな。僕の好感度をあげる必要は全くない。
「あ、こうちゃん。お庭ありがとうねぇ」
リビングに入るとキッチンからばあちゃんの声がした。みそ汁の匂いにぎゅるっと腹が鳴る。
僕は「ううん」と首を振って冷蔵庫へ。お茶をグラスに注いでごくごくと喉へ流した。
一気に飲み切ってぷはっと顔をあげると、
「あら、それ捨てようね」
さすがに目ざとい。すぐに気付かれた。
思わずグラスを握る手に力が入る。ばあちゃんが相手だとかっこいいとかの話じゃない。
まさに一刀両断。捨てられてしまう!
「え、いいよ。もったいないし」
「でももう着られないよ」
「やー……この服気に入ってるからなぁ」
ゆっくりフェードアウトしよう。「肌に馴染んできてるしなぁ」そう言いながら踵を返すと、道を塞ぐように姫川が立っていた。
「どうして捨てるの?」
「破れちゃってるの、ほらここ」
「あ、ほんとだ」
「い、いいよ。また庭掃除する時とか、着るし」
「深山、庭掃除してたんだ? えらいじゃん」
「こうちゃんはよく手伝ってくれるもんねぇ」
「へえ!」
う、うぐぐ……。ばあちゃんに言われるのはいいけど、同級生の女子に言われると、なんか、ちょっと反抗したくなる。
口の中でそんなんじゃねぇしと言いながら服を脱ぐと、下に着ていた黒シャツからほんのり草の匂いが漂った。
姫川がばあちゃんの隣に移動した隙にキッチンから出る。着替えた方がいいだろうか、くんくんとシャツの裾を捲って嗅いでみる。うーん?
先に風呂入ろう。「ご飯まだかかるよね?」そう聞こうと振り返って、
「ピャッ!」
僕の口から出たのは奇声だった。
ばあちゃんの隣にいたはずの姫川が、何故か僕の真後ろに立っていたから。
この短時間で三度も背後をとられたぞ……。気配消せるのか、こいつ。
「ねぇ、深山。気になってることがあるんだけど」
姫川は声を潜めて、じりと一歩詰め寄ってくる。
後退しても距離は変わらない。気が付けばリビングの中央まで移動してしまった。
ハァと吐いた息は観念の意を込めて。「なに?」と聞けば、姫川は立てた手の平を頬の横に添えて更に小声になる。
「刃ってどういう意味?」
瞬間、ヒュッと空気が喉を通った。
「まさか誰かにやられたの?」
「や、ややややられてないよ……」
「大丈夫、おばあちゃんには秘密にするよ。心配かけたくないよね、分かる」
いや! 全然分かってない!
「ねぇねぇ、深山」
「……」
「刃以外だったらヤバかったってこと?」
やめろおおおお……。なんだよ、なんでこんな時間差で食いついてきてんだよおおお……。
***
姫川のおかげで(?)すっかり冷静になり、あのシャツに心躍ることはなかった。
でも気に入っていると僕が言ったから、ばあちゃんは破れた部分を補修してくれていて。
この度、僕の部屋着が増えた。
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