第9話 海が割れた日
ドラゴンが、動く。
グゥォン………
実際には、無音であった。
聡い者であるならば奇妙に思ったかもしれない。
例え夜の狩人と名高い
物が動けば空気が揺れ、それは振動となり音となる、そのように
さらには、ドラゴンは夜見鳥など比較にならないほどの巨体だ。
動く空気の量も桁違いであり、もはや一挙一動に轟音が響いても不思議ではない。
しかし、違和感を覚えるものは居なかった。
それはこの場に居る者が、
ドラゴンの身体が。
赤銅色に輝く身体が。
大きく広げられた両の翼が。
鈍く輝く牙が。爪が。
そして眼下の者たちを睥睨する黄金の瞳が。
目の前でそれが動く度に、彼らはそれに相応しい音を幻聴してしまったのだ。
圧倒的な、生物としての格差。
その身体の末端に至るまで、発せられる威圧に、威風に。脳が、魂が屈してしまっている。
ドザァァァァ―――――!!
それにほんの僅かに遅れ、思い出したかのように大海魔が身を動かした。
大海魔は魔物である。
人間のような思考回路でモノを判断するわけではない。
例えばそこに、海の支配者としての自負や誇りがあるが故に衝き動かされているわけではない。
ただ目の前からバカ正直に、大きな獲物がコチラに突っ込んでくるのだから迎撃して絡め取ろうと思っただけに過ぎない。
大海魔にドラゴンの異様さなど判別できない。
翼の生えたトカゲとの差異すらも解らないだろう。
船を捕えている2本の足と船員を捕える2本の足を残し、ただ6本の足をドラゴンに向けて放ったのは、なるほど、確かにこの時、大海魔はドラゴンのことを舐めていたという証左であった。
グゥォンッ――!
大海魔の6本の足は風切る音を立て、ドラゴンへと殺到する。
それは人間が放つ弓矢などよりもさらに速く、そして足の1つ1つが巨大な船舶をも掴み取り繋ぎ止められるだけの剛力を持つ。
だが、まるで児戯とでも言わんばかりにドラゴンは身体を捻りそれを躱してみせる。鳥であれば、そのような姿勢をとればたちまちに墜落してしまうであろうというのに、舞踏を踊るようにひらりと避けて大海魔へと肉薄する。
ドォォォォォォォォォォン!!!!
まるで間近の落雷が如く轟音が鳴り響く。
少し遅れて大海魔が水辺に浮かんだ木片のように吹き飛び水面を転げる。
逃さぬよう掴んでいた船舶など放り捨て、海に潜めていたはずの巨体をゴロゴロと陽光の元に晒しながら。
大海魔は混乱の真っ最中であった。
いかに人とは違う思考を持つとはいえ、予想外のことが起きれば当然である。
何故何故何故?
確かに、自分はドラゴンに近寄られ、その腕で殴打された。
たったそれだけで、自身は吹き飛ばされたのだ。
ありえない信じられない、未だかつて、その様なことが起きたことなど、ただの一度だって無い!
ギュボッ――
大海魔の混乱はしかし長くは続かない。
冷静な思考が強制的に割り込んでくる。
自身を殴り飛ばせるような
ジィィィ――――――――!
この世界において、この瞬間まで決して発せられなかった、大海魔の悲鳴を吐く音と共に、大海魔の10本の足全てがドラゴンへと殺到する。
もはや驕ることも侮ることも舐めることもしない。
このドラゴンは、大海魔が全力を出して戦うに値する敵であることをもはや疑わない。
先程は6本だから負けたのだ、すべての足を用いれば、大海魔が負けるはずがない。
今までこの海で、負けたことなど無いのだから――!
バチィンッ!!
そんな希望的観測など知らぬとばかりに。
お前の事情など関係ないと言わんばかりに。
大海魔が放った渾身の攻撃は、今度はもはや避けることすらされず。
ドラゴンの身体に当たれば弾かれ、絡めとろうとした足は逆に引きちぎられんばかりに引っ張られ、捉えられない。
ガパッ、とドラゴンの口が開く。
鋭利な牙が並んだ口腔は、まるで幾億もの刃が犇めく拷問場にすら見える。
大海魔の胴体に食らいつかんと、ドラゴンが一息にその懐に飛び込む。
普段の大海魔ならば大して意にも介さなかっただろう。
足の包囲を潜り抜けたから何なのだ、と。
大海魔の巨体は自身ですら把握し切れてはいないが、しかし小島くらいの大きさはあるだろうと自認している。
自身よりも小さな小さな生き物が突撃しようと、それは島を動かそうとしているに等しい、意味もなく知性もなく何の成果も得られない愚行であるのだから。
だが。
だが、しかしだ。
迫るドラゴン。
大海魔は巨大な目でそれを捉え……そして、悟る。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ死ぬ死死死死死死死死死死死死死死死死死━━━━━━!
ドブォ―――――――――――――ッ!!
大海魔は全身全霊の力をこめ、身体の動く場所全てを使って海中へと潜り込む。
寸で、大海魔の身体があった場所をドラゴンが噛み砕いた。
バギバギと、虚空に食らいついたにもかかわらず、まるで空間すら歪むような奇妙な音をたてているが、大海魔はそれを確認することも放棄して、とにかく海の奥へと、底の底へと向かって泳ぎ続ける。
自身はこの海の王であり逆らうものなどいなかったではないか、という思考は健在である。
それなのになぜ自身がこのような無様を演じているのか、大海魔には理解が出来ぬ。
だというのに、それなのに。
大海魔はとにかく、あの
どうして?ではない。
理由など知らない、何故など答えられない。
とにかく逃げなければならないのだ。
朝になれば太陽が昇り夜になれば月が昇ることに違和感を覚える者はいないし、庭に生えた木のリンゴが重力に従い地面に落ちることは当然であろう。
そうなのだ。
それと同じなのだ。
ドラゴンからはとにかく、逃げねばならない、逃げるのだ、海底まで――!!
そうして、水底まで進もうとした大海魔は……しかし突然、浮遊感に襲われる。
おかしい、なんだこの感覚は?今まで泳いでいてこんな感覚を覚えたことなどない。
そもそもかなりの距離を潜ったはずだ、先ほどまで周囲は暗くなっていたのに、なぜ今こんなにも明るいのだ?
大海魔は怪訝に思い全ての足で水をかこうと藻掻く。
だが、それらすべての足は空をきる。
そう。
空を切ったのだ。
大海魔は、見る。
人間の身体よりも遥かに大きい巨大な眼窩を見開き、空を見上げる。
ああ。
ああ。
そこに居るのは、ドラゴン。
大海魔は、知る由もない。
水中に逃げた大海魔を追うためにドラゴンが水面に尾を振るい。
そして、海面にできた切れ込みに、その両の腕を突き立てて。
海を左右に押しのけこじ開けたなど。
理解できるはずもない。理解が出来ない。理解したくない。
だが、変わらぬ。
海が左右に別れ、割れてしまったという事実は何一つ変わらぬ。
大海魔がどのような心境にあろうとも、現実は変わらぬ。
海を開き、ドラゴンの黄金色の眼はしっかりと大海魔の姿を捉える。
大海魔がどのように命乞いをしようとも、未来は変わらぬ。
海の中の空を飛び、ドラゴンは大海魔の身体に食らいつき、そして一息に空へと投げ飛ばす。
大海魔がどんなに後悔をしようとも、結末は変わらぬ。
海の中へ逃げた分と同じだけの高度まで投げ飛ばされた大海魔に向かい、ドラゴンは海面へと戻り口腔を広げる。
バチン、バチンと音が響く。
青白い光がドラゴンの口から洩れる。
ドラゴンの口腔内と言う限定的な区画の量子場が励起する。
虚数の質量を持つ存在が形成される。
この世界において、一度も存在し得なかった存在が顕現する。
━━━━━━━━━━━━━!!
光よりも高速で動く物体がドラゴンより放たれ。
そして刹那の時間すら遅く、大海魔に到達。
まるで産声を上げるように、轟音をあげ、大海魔の身体は粉々に砕け消し飛んだ。
ドラゴンは上空へと飛び立ち、満足げに首を揺らし……。
そして、ふと周囲を見渡す。
まあ、これだけのことをすれば当然と言うべきだろうが……。
ダミアンを始めとした人間たちを乗せていた船……カリュプソー号は、その残骸すら浮かんでおらず。
少し遅れて、ドラゴンの咆哮が周囲に轟いた。
それは、悲鳴にも似ていた。
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