第8話 絶命の海原
ラ・メール海沖 カリュプソー号――
「お前ら!気ぃ張れ!!絶対に手ぇ離すんじゃねぇぞ!!」
カリュプソー号の船長ダミアンは怒号をあげ、船員たちに指示を飛ばす。平時ならば「アイアイサー!」と景気よく返事がくるはずだが、しかし今、声を上げるものはおらず……いや、返事をしたところでダミアンの耳にまで届かなかったのだろう。
あるいはそもそも、ダミアンの号令が聞こえていないのかもしれない。
ザザザザザァァ――――ッ!
「ちぃっ!糞がっ!!」
先程から、船の甲板はひっきりなしに海水をかぶっている。
常日頃から手入れをしているため、排水は問題なく機能しており、これくらいで沈没するような恐れはない。
では何故、ダミアンは悪態をつくのか。
何故船員たちはダミアンの号令に返事をしないのか。
いや、そもそも何故海水が、甲板に何度も流れ込んできているのか。
空は青く、まるで天から見渡せるほどに澄んでいるというのに。
ドバァァ――――ッ!!
その疑問に応えるように、海水が、大きく盛り上がる。
まるでその部分だけ小高い丘のように隆起し、海水が流れ落ちればその全容が明らかになる。
「
ダミアンの憎しみを隠さない呟きを聞いたのか、それとも偶然か。
大海魔は名前の通り、海に潜む魔物である。
その全長は今まで計測されたことはないが、恐らくは王国の所有するどの船舶よりも大きく……その身体だけでなく、自由自在に動かす吸盤がびっしり生えた10本の足の長さまで含めれば、きっと王城よりも大きいだろうと言われているほどの巨体を持つ。
王国は一度、討伐を試みたが失敗し、兵を失い国力を大きく削られたことから、もはや討ち取ることは諦め……この魔物に襲われないことを祈りつつ、海を超えた先にある西方の国との交易船を出しているのが現状である。
実際、巨大生物であるが故か、船舶が遭遇することは然程多くはなく……記録上では、運の悪い者が犠牲になる程度の被害規模でもあった。
大海魔保険という、大海魔に会った船乗りの遺族に見舞金が払われる掛け金制度や、ギャンブルの大穴として「大海魔に襲われる」という項目がある程度には。
船や船員を失うことがあろうとも、交易にて得られる利益を考えれば、ある程度の損耗はあろうとも許容範囲だと妥協して。
ダミアンも大海魔の存在は知っており、その凶悪さも口伝で聞いてはいた。
だが自分が襲われるとは、今日の今日まで思っていなかった。
一体何故だ、俺は今まで真面目に生きてきた。
ギャンブルや女で破滅して女房や
寄付こそ少額であるし僧に比べればお粗末だろうが、水曜神への祈りも欠かせたことはない。
何故、そんな俺が大海魔に襲われるんだ。
ダミアンは必死に船縁に捕まりながらも、取り留めのない思考を巡らせていた。
善人か悪人かどうかに関わらず人は死ぬし殺されるという、事実を直視するのは、あまりに唐突すぎた。
ブゥぅぅんっ!
ガシっ!!
「あああ?!」
ダミアンと同じように、必死に船縁にしがみついていた船員の一人が大海魔が海中から伸ばしてきた足に巻き上げられ、捕まってしまう。
船員は手足を必死にバタつかせてもがき、近くに居た別の船員の男が手にした
しかし大海魔の足は一本一本が、まるで大聖堂の柱のように太く硬く、それでいて弾力に富む皮膚に覆われている。
刃を立てようにも思うように行かず、ただただカラ滑りしてしまうだけであった。
バギっ!!
「がっ?!」
それでも舶刀を振るう船員を鬱陶しいと言わんばかりに、大海魔は別の足を放ち彼を殴打する。
本来曲がらない方向に腕と背を曲げた船員は悲鳴を上げるまもなく海へ落とされ、少しもがいた後に沈んでいった。
「いやだぁぁ!!たすっ?!助けぇ!!がぼぼぼゔぉっ……」
「くそがぁぁっ!!」
そして捕まった船員も、そのまま海の中に引きずり込まれる。
まざまざと見せつけられ、ダミアンは激情のあまり悪態をつくのを止められなかった。
そう、大海魔にとってこの船も、船に乗っている人間も等しく驚異などではなく……単に食料、あるいは嗜好品、それともあるいは……暇つぶしの玩具だろうか?
いかに大海魔とはいえ、材木や金属で構成された船体そのものを食べるような食性があるとは思えず、実際に足を使って船員を一人一人捕えては捕食しているのだが、単に食事が目的ならばもっと食べごたえのあるだろう海洋生物などいくらでもいるであろう。
この巨体を人間くらいの小さな生き物を数十体食べたところで満足がいくとは思えない。
ならば食事は飽く迄もついでであり……人間が虫の羽や足を捥いで嗤うように、弄んで遊んで殺すことが目的ではないのだろうか?
そうとしか思えないと、ダミアンは歯を食いしばりながら大海魔を睨みつける。
しかし当の大海魔は、ダミアンの予想を知っているのか知らないのか、あるいはそんなことなど大して興味も知見もなく、人間とは全く異なる思考回路の元に暴れているのか、それを知る方法はここには存在しない。
「船長!!もうだめっす!逃げましょうよ?!」
「この馬鹿野郎が!!好き好んで誰がこんなバケモンと戦うんだよ?!逃げられるんならとっくにやってる!!」
情けない声を上げながら、生き残りの若い新人船員がダミアンに泣きつき、それに怒号を返すダミアンの言葉の反応するように、ミシミシ、と船体が悲鳴を上げるように軋んだ音を立てる。
当然だが、ダミアンは必死にこの場から逃げ出そうと手を尽くしていた。
が、しかし大海魔は逃がすまいと足をいくつも船に巻き付けているのだ。
剣も刺さらず、力づくで引き剥がそうとすれば近寄った船員を文字通り千切っては投げる怪物の足を船体から引き剥がすことなど不可能だ。
だからもう絶対に、この船は大海魔からは逃げられず、助かる見込みなど無い。
「そ、そんなぁ……!」
「あーもう、クソっ!クソクソクソっ!!何でもいい!!今、このクソ野郎をぶち殺せる方法はねえのかよ?!」
ダミアンは頭をかきむしり、癇癪を起こすが……ふと、大海魔の動きが止まる。
はっと、船長がそれに気が付き、突然降って湧いた出来事にしかし、生き残るためにすぐさま対応しようと、指示を飛ばそうとして……声をかけようとした、近くで喚いていた若い船員がポカン、と口を開けて空を見ているのを見つける。
流石に異常だ。
いや、大海魔に襲われている時点で異常も異常であるが……しかし何事かと、ダミアンも大海魔の様子を横目で見ながら空を一瞥し……すぐに2度、3度と見返して、そして同じように口を開く。
それは舶刀を握りしめ、必死に大海魔に抵抗している他の生き残りの船員らも同じであった。
彼らの視線の先。
大空に。
虚空に。
空と海の間の空間に存在するもの。
ドラゴン。
1体のドラゴンが、ただ空より、船舶を、大海魔を、そしてダミアンたちを、その黄金色の瞳より眺めていた。
あまりの出来事に、今まで必死に大海魔と戦っていた船員も、ダミアンも、そして大海魔ですらも思考が止まり動きが止まる。
ドラゴン。
空を飛ぶドラゴンは再度黄金色の瞳を持って、船や大海魔を睥睨し……そして大海魔に向けて牙と爪を向けた。
船が震えていることに、仮にも船長として長年この船に乗っていたダミアンは気がついていた。
大海魔が、ドラゴンを見て怯えて震えているのだ。
船を襲い船員を根こそぎ残さず食い殺す、そんな暴虐の限りを尽くす大海魔が。
まさか、そんなはずが。
グォォォォォォァァアァァ――――!!!!
ドラゴンがその目を見開き、空より咆哮をあげる……ビリビリとした衝撃がダミアンや船員を襲う。
そして大海魔が徐々に動く力を取り戻し始めた頃には……上空から船に向かい、ドラゴンが襲いかかってきたのだ。
ダミアンは、先程「何でもいいから助けてくれ」と言った自分を、深く呪った。
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