第30話 【番外編】王妹は隣国の王弟と出逢う
麗らかな日差しが煌めいて湖面の輝きがいつもよりもいっそう増している。国境も安定し、不穏な輩も動きを近頃は身を顰めていた。暫く静養するという名目で地方の湖畔の離宮に滞在している。穏やかな日々が積み重なっていく。こういう日常がいつまでも続けばいいのに、とユージェニーはふうと息をついた。
「殿下、どうかしましたか? そんな大きなため息をついて」
「違うぞ、レオポルド、心配事なぞではない。気分がいいんだ」
久しぶりにレオポルドと名を呼ばれたこの国の宰相であるマルゴワールは、優美な手付きでポットからカップへとお茶を注いだ。
「どうぞ、貴女のお好きな銘柄のお茶です、殿下」
「他に誰もおらん。殿下は止めてくれ」
「そういう訳にはいきませんよ」
ふわりと笑んで、しかしけじめをつけるように背筋を正してカップをユージェニーに差し出した。シトラス系の香りの豊潤な逸品だ。趣味が高じてマルゴワールが手ずからユージェニーの為にブレンドした茶葉だった。その名も「レディジェニー」という。さっそくカップを持ち上げて、お茶を口に含んだ。砂糖を入れたわけではないのにどことなく甘みのある、しかしさっぱりとした味わいだ。同時に豊かな香りが鼻に抜け、ユージェニーの胸に満足感が広がった。
「相変わらずの美味しさだ。ありがとう、レオポルド」
にこやかなまま、実に食えない奴だと評判の宰相は右手を胸に当てて大仰な様子で騎士の礼を取る。
「どういたしまして、レディ」
そうして自身のカップにもお茶を注いで湖面を見ながら香りを楽しんでいる。その様子を眺め、ユージェニーは昔の出来事に想いを馳せた。
かなり昔に病弱の妃の為に建てられたというこの離宮は、王都から離れ過ぎて普段滅多に使われることは無い。こうして滞在するのも彼女自身も二十年ぶりとなる。誤魔化せないほどに膨らんだお腹を抱え、南の隣国の王弟で不治の病に冒されたサルバドールと引き籠って以来だ。ユージェニーはここで娘を産み、サルバドールを看取ったのだ。
◆
「口を開くことを許すぞ、隣国の王妹よ」
豪奢な王座で尊大にそっくり返った蛙のような小太りの男は、目を眇めてユージェニーを射貫いた。成人してまだ間がないとはいえ、外交力のない兄王の代わりにあちこちに働き掛けて国の安定に心を砕き続けていた彼女はもう、疲れ果てていた。顔色も悪く、眩暈をも感じてもいた。この国独特の薫物のせいか、吐き気も覚える。ようするにカーテシーを披露することも出来ず、無礼ではあるが殊更に背筋を伸ばして堂々と見えるようにすくと立って、この国の王を上から目線で見下ろしていたのだ。相手が気を悪くするだろうことも重々承知だったが、こちらも王族だ、不敬にはあたらないだろう。
「偉大なる隣国エルスールの王にご挨拶申し上げます。ルセントール王国ヴォルテーヌ王家が王女ユージェニー・ノエラ・ヴォルテーヌと申します」
「何やら具合の悪そうな貧相な顔だな。とにかくその不服そうな顔を止めよ。余は別に其方に縁談を強要したわけではないぞ」
「……この縁談は我が兄王が推し進めたものと承知しております故」
「そのようだな。まあこちらとしても利のある話だったからな。それに、……」
見た目こそそっくり返った蛙だが、この御仁はけっして愚かな方ではない。深呼吸をして吐き気を何とか抑え込み、ユージェニーは笑顔を作ろうと努力した。
南の国境線を分け合う隣国エルスールの王であるレオカディオは思わせ振りな様子で一旦言葉を切り、唇を舐めた。
「余の弟は其方を本気で気に入ったようだ。兄としては宜しく頼むと言うのが筋だろう」
軽くため息をつくのはレオカディオの望みではないからなのか。多分そうなのだろうが、本心は未だ見えてこない。何よりもこの場に婚約者となる予定の人物の姿が無かった。望まれているのならどうして出迎えてもらえないのか。ユージェニーには体の不調に加えて不安が募った。
ユージェニーのすぐ上の兄オーギュストは、王妃の言いなりだ。王としての資質は第一王子だったギュスターヴには備わっていたが、第二王子のオーギュストには少々足りなかった。ギュスターヴが病死した後、繰り上がりで王となったオーギュストは、良く言えば優しい気質だが、優柔不断で決断力に欠ける。父である前王の残した大臣や官僚たちが優秀だったので、即位当初はそこそこに上手く統治出来ていたのだが、自己顕示欲の高い王妃の意見に惑わされるようになると、これがいけなかった。外戚である王妃の父や祖父も出張ってきて、都合のいいように王の意向を操ろうと画策したのだ。元々はギュスターブの婚約者であった彼女を密かに好いていたオーギュストは、死んだ兄に対する後ろめたさもあったのか、どうしても王妃に対して強くは出られない。
内政では平時であればそれでも何とかなったのかもしれない。この頃、外交的には北のエーデルシュタイン公国との鉱山を巡るいざこざや、海の向こうの神秘の国アジーラとの折衝など、国境線を接する国々とのやり取りには微妙なバランス感覚が必要で、兄王には荷が重く王妹のユージェニーが側近たちと協力して何とかやり過ごしている状態だ。
とかく派手に見えたユージェニーの活躍ばかりが持て囃されるのがどうにも気に食わなかったのだろう、王妃はオーギュストに強く迫り、隣国からの婚約の打診があった際、厄介払いが出来るとばかりにユージェニーの意向も何もないままに承諾する返事を送ってしまった。王妃に唆されたとはいえ、王の言葉には重みがある。ましてや国同士の約束だ、撤回など簡単には出来ない。
一緒に苦労を重ねてきた大臣や官僚たちには惜しまれたが、年頃の娘らしいことに見向きもせず政治に振り回されて過ごした数年の間に、ユージェニーはもう兄王の尻拭いをするのに疲れていた。体調も万全とは言えないが、とにかく会って話さねばどうにもならないと、わざわざ隣国エルスールまで来たというのに何故本人がこの場にいないのだ。
「レオカディオ国王陛下、わたくしとしては婚約を承知する前にご本人に会わせてもらいたいのですが」
迫り来る眩暈と戦う為に、腹に力を入れぐっと背筋を伸ばした。この頃のユージェニーは、長く伸ばした髪を美しく結い上げ、シンプルながらひと目で分かるほどの上質な布地に精緻な刺繍を施したドレスを着ていた。体調が悪いのでコルセットは緩めてあったが、元々騎士に憧れて剣を振るっていた少女時代を経て常態的に鍛えている彼女には、コルセットは必要ないほどに身体のラインも整っていた。ほうとため息がそこここで零れた。ユージェニーの立ち姿に護衛の近衛騎士たちが感心して目を見開いたのだった。
「もっともな要望だな。……誰か、サルバドールをこれへ」
王の一声に応じて王座の横手にあった大きな扉が音を立てて開いた。先触れが数人、その後から車いすに乗った青年が見えた。長めの黒髪を瞳と同じ藍のリボンでくくって一方に垂らし、整った顔立ちをしていたが、頬はこけたように見え、顔色もあまり良くない。しかも成人男性とは思えないほどに線が細い。ユージェニーの前に車いすで近づくと、後ろで押していた騎士に合図を送って停めさせた。そして穏やかに笑んで挨拶の言葉を口にした。
「見た通りの病身なので、このままで失礼する。私がサルバドール・デュ・エルスールだ」
嬉しげにユージェニーを目を細めて見つめている。
「ああ、来てくれたんだね。私の願いを叶えてくれてありがとう」
まさか、自分よりも具合の悪そうな男が婚姻相手だとは思っていなかったユージェニーは、とっさに返す言葉を失っていた。
◆
サルバドールの従僕がこちらへどうぞと案内してくれたのは、王宮奥の陽当たりが良く、眼下の庭園が見渡せる一室だった。傍らの本棚にはたくさんの書籍が並び、大きな机の上は雑然とものが置かれた状態だ。この様子を見るに、普段からここで過ごしているのだろう。開け放たれている扉の向こうには整えられた寝台も見える。サルバドールはいきなり私室へとユージェニーを誘ったのだった。
彼女が勧められたソファに腰を落とすと真向いにサルバドールは陣取った。
「この部屋の中なら私の自由が利くからね。それに立ちっぱなしで疲れたろう」
柔らかな声色で話す彼は、複数の従僕に車いすからソファに移して貰い、ひざ掛けを用意してもらったりとやたらと世話を焼かれていた。もういいから、と世話する手を払い除けようとしては失敗している。ここの使用人たちはきっと主人のことが心配でならないのだろう。微笑ましく思い、自然口角が上がったユージェニーを見て、困ったように目尻を下げた。
「皆、私が何も出来ないと思っているんだよ。そんなことは無いのに」
「殿下を心配しているのですね。良き主従関係と見ました」
そして、サルバドールの指示で出された冷たそうな飲み物を見て、ユージェニーは目を輝かせた。熱いお茶は懲り懲りだったのだ。
「レモネードですね。喉が渇いてましたから有難いですわ」
「レモンも入っているけれど、レモネードではないよ。ハーブをブレンドしたお茶だ。安心して飲むがいい。貴女の顔色が良くないように思えたので、さっぱりとしたものを用意させたのだ。お気に召したかな」
はっとしてユージェニーがサルバドールを凝視する。殿下は先ほど何と言ったか。「立ちっぱなしで疲れたろう」と、「安心して飲むがいい」と。
サルバドールは合図を送って部屋にいた使用人たちを下がらせ、二人きりとなった。
「自分の身体がもう長いことこんな調子なので、他人の体調にも敏感になるんだよ」
そう言って真摯な顔つきでこう付け足した。妊娠しているのではないか、と。
暖かな色調の部屋で穏やかに見える主がさらりと言った言葉に、ユージェニーは珍しくも目を瞬かせて動揺した。
「……な、なぜ……」
「どうして分かったのか、かな。貴女の顔色の悪さにどうやら吐き気もありそうだと気付いたからですよ。そしてここに来る間の貴女の足取りと歩き方を見て、判断しました」
グラスを手にしたまま、ユージェニーは動けなくなった。国に置いてきた唯一信頼出来る乳母だけが知る事実だ。他の誰にも、腹の子の父親にさえ明かしていなかったのに。
何も言えないユージェニーの手の中のグラスを取り上げて、宥めるかのようにそのまま彼女の手を両手で包み込む。
「その子の父親の名を伺っても?」
「―――」
「言えませんか。まあ会ったばかりで、すぐには信用してもらえまい。何と言ってもこの縁談は政略結婚だと思っているのだろう」
「あ、あの、……」
「求婚されて、さて困ったのか。それとも渡りに船といったところか。お互い王族同士だから、政略結婚であることは承知の上だ。その際、女性側は処女性を求められるのは常識だ」
淡々と事実を述べているだけで嫌味は感じられない。昔も今も貴族同士の政略結婚では当然のように純潔であることが条件だ。ましてや王族レベルでは絶対条件ともいえる。
最前からの具合の悪さに加えてユージェニーの背中に冷たい汗が流れた。気付かれないうちにさっさと結婚出来たなら。結婚は先でもとりあえず身体の関係を先に持てば。今の月数だと誤魔化せると考えて、ここエルスールに来たのだ。彼女は追い詰められていた。よほどの相手でない限り求婚を受けようと思っていた。だが、妊娠していることが先にバレてしまうとは想定外だ。
彼女の浅はかな打算は泡と消えたのだ。知らず、身体が震える。サルバドールに取られた手も震えているだろう。現実逃避したくて俯きぎゅっと目を瞑った。いつもなら滔々と心にも無いことをいくらでも話せるというのに、何も言葉が出て来ない。
「……ユージェニー嬢、安心して」
柔らかなテノールが彼女の耳元に心地良く響いた。気付くとサルバドールは彼女の手を包み込んだまま、テーブルを回ってきてぴたりと寄り添った。手の甲を撫でられ、次いで愛おしいと言わんばかりに自分の頬に擦りつけると小さな音と共に指先に唇が触れた。
「安心してほしい。誰にも言わない」
「でも、……でも」
「これまで王族同士として幾度となく顔を合わせる機会があった。生気溢れる貴女はいつも輝いて見えた。それはもう一目惚れしたと思ってもらっていい。憧れの貴女と結婚出来るのなら、私は何事でも受け入れよう」
私はもう長くはないのだ。そう言いつつ骨ばった手でユージェニーの髪を撫でた。
「だから、どうぞ私を隠れ蓑として利用してほしい。喜んでその腹の子の父親となりましょう。……心から望んだとしても、私にはもう貴女と身体を繋げることなど出来そうにないのだから」
「……、それでは、わたくしの都合ばかりでサルバドール殿下にはちっとも利がありません」
「一番近くで貴女を見ていられるのだ。こんなに嬉しいことは無い」
顔を上げた彼女の頬に涙が零れ落ちた。今まで兄王の為、国の為に気を張ってきたユージェニーが初めて安心して甘えられる場所を見つけた瞬間だった。激しい恋情が無くてもこの方となら穏やかな日々を送れるに違いないと思った。
それまでの体調の悪さもあり気の抜けたユージェニーは、すうっと意識が遠のいていくのを感じた。いけないとも思ったが、頭を撫でるサルバドールの手のひらの温かさに安心して目を閉じたのだった。
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