第31話 【番外編】王妹と一夜の思い出
ユージェニーはあの夜の会話の夢を見ていた。
「―――今何と言いましたか?」
目の前の端正な顔立ちの男は、珍しくも眼を目一杯見開いた驚きの表情でこちらを凝視した。
「だから、私を抱いてくれと言った。……こんなこと、何度も言わせるな」
そういう問題か? いや違うだろう! そう、今にも怒鳴り散らしたい気持ちを胸の中に抑え込んで、マルゴワールはユージェニーを見据えた。暫く二人で凝視し合った後、ふいと先に目を逸らしたのは、ユージェニーの方だった。
「悪い、分かっているんだ」
今社交界で囁かれている噂がある。あの氷のような宰相補佐官が一人の女性に夢中になっているらしいと。そろそろ婚約が整い発表されるようだと。その噂が本当ならば、多くのご令嬢たちが涙することになるだろうと。
「お前には好いた女性がいるのだろう? 噂になっているぞ」
「……彼女となら良き家庭が作れると思ったのです。例え、……愛したわけでは無くとも、慈しむ気持ちがあるのなら」
「何だ、その微妙な言い方は。好いているのではないのか」
「……好き、というか、妥協したというか」
視線をユージェニーから外し、素知らぬ方を見ながらマルゴワールは答えた。そう、しかし彼は否定の言葉を口にしなかった。ということは本気で婚約しようとしているのだということは分かった。
だとしても。他に誰がいる? 触れられてもいいと思った相手はユージェニーにとってマルゴワールだけだったのだから。それは別に愛情とは違ったものだ。
官僚たちや大臣との協議、隣国との騙し合い、はたまた商人との折衝に追われる毎日を送り、神経を擦り減らしていたユージェニーにはいつもの冷静さがなくなっていたのだろう。下手をすると国王よりも目立つ王妹を表舞台から引きずり下ろしたい一心で、早く結婚して片付いてしまえと言わんばかりにあらゆる縁談を薦めてくる王妃の態度に腹を立て、だったら先に処女を棄ててやると決心したのは二十歳の祝いを受けたすぐ後のことだった。
結婚なんぞしたくないし、そんな暇もない。自分にはもう瑕疵がありますと断る理由を作りたい。しかしそれには相手がいる。誰にするかはさすがに慎重にならざるを得ない。王族の心得として閨教育を受けた彼女だが、教えられた閨事のあれやこれやを出来る相手がどうにも想像がつかなくて困っていた。
一応少女の頃には少女らしい淡い夢があった。麗しい騎士に跪いて求婚されるというものだ。だが自分は王女だ、結婚とは政治絡みの政略的なものだといつしか理解していた。しかし国の状態を思えば、ユージェニーが結婚して政治から離れる選択肢はない。だから一生独身で国を支える覚悟は出来ていた。
先日の舞踏会を思い出す。ダンスを踊る為に手を取られるだけで虫唾の走る男性もいた。そんな相手はさすがに嫌だ。少なくとも自分自身がある程度の好意を持てる相手が良いのだが。
ふと浮ぶのは、幼き頃より互いに研鑽し合った幼馴染みのレオポルド・マルゴワール公爵令息だ。今は宰相の補佐官の一人となっている。次期宰相は彼だろうと言われるほど、図抜けて優秀な男だった。家柄も容色も良く、実際ユージェニーの婚約者候補の一人とされていた。結婚したら臣籍降下して公爵夫人となり、政治世界からは引退を迫られるだろう。そんなことは出来ない。だから一夜限りの相手になってもらうのがいいんじゃないかと。
しかしユージェニーには断られることは分かっていた。彼にはお気に入りの令嬢がいる。身分差からまだ公にはしていないが、いずれその令嬢と結婚するのだろうと。
慕う相手の居る男性を奪いたいわけではない。だが、他に誰がいる?
何度目かの問いを自らに投げ掛けた。そうしてユージェニーは行動に移したのだった。
「レオポルド、お前を困らせたい訳じゃないんだ」
「だったら……! 冗談でも口にしていいことではありませんよ」
でも、他に頼める相手もないんだ。ユージェニーは口の中でそう小さく唱えた。
「……お前が駄目なら、ジャン=リュックに頼むしかないか」
「はっ? あいつはいけません」
もう一人の幼馴染みの名を出すと、マルゴワールは全力で否定してくる。だったらどうすれば処女を棄てられる?
ここはユージェニーの私室の隣に用意されている応接室だった。先ほど侍女たちが二人の為に軽食とお酒を置いていった。常からこうしてマルゴワール宰相補佐官が王妹殿下の部屋を尋ねて内密の話をすることは良くあることだったから、さっさと二人きりにしてくれたのだった。
用意されていたグラスを思い切り呷った。思ったよりも酒精が強くて、途端ユージェニーはむせ込んだ。呆れたように見ていたマルゴワールが背中を擦ってくる。何度も何度も。背中が熱を持ったように熱くなってきた。やがて背中を擦っていた手が、下ろされたプラチナの髪に移り、優しく梳き落とされた。
いつしかマルゴワールがユージェニーを引き寄せていた。後頭部に大きな手のひらを感じ、頬が胸板に当てられる。とくとくと心臓の鼓動がする。それは普段よりも早いリズムを刻んでいた。
「殿下、……ユージェニー、貴女が願えばどんな男だってその願いを叶えてくれるでしょう。でもそれは危険極まりない行為です。お止め下さい」
「だが、本当に結婚したくないんだ。他国の王族と結婚させられたらこの国はどうなる? 自惚れでなく立ち行かなくなるだろう? なのに
「陛下にご相談をされては?」
「王妃の言いなりなんだぞ。女の幸せとやらを考えろと諸手を挙げて賛同するに違いないよ。兄上は分かってらっしゃらないのだ」
そうかもしれないとマルゴワールは思った。決して愚かな方ではないのだが、あの方は王妃の言いなりだ。どんなにユージェニーがこの国にどれほど貢献しているか、行く末を案じているのか、理解出来ないのだ。
「傷物の女を普通男は嫌がるだろう? ましてや王族相手だとそれは許されるものではない。だから……」
ユージェニーのつむじに柔い何かが当たった。
「それほどのお覚悟があるのなら。……私がお相手しましょう」
そう。他の男に触れさせない。触れさせたくない。
ユージェニーの願いはこの国の安定した平和だ。結婚せずにこの国の政治に関わり続けることだ。だから胸に抱くこの想いを彼女に告げることなく蓋をして、公爵家の為に他の女性を娶ろうとしているのに。
今までにも様々な彼女の願いを叶えてきた男は、それまでにも何度も自問自答を繰り返してきた。ユージェニーへの想いを告げるか否か。結婚は出来ない、何より彼女がそれを望んでいない。では自分はどうすればいいのか。
処女を捨て去りたい。これが彼女の願いだ、だったら自分が叶えてやればいい。そうして今宵一夜の夢を見ればいい。有らん限りの想いをぶつけて捨て去ろう。婚約が整う前だ、裏切りにはならない筈だと、頭の片隅で理屈を捏ねた。
マルゴワールはテーブルに置かれたもう一方のグラスを一気に呷ると、彼女を難無く抱き上げ、そのまま奥の扉を目指した。
◆
ユージェニーの意識が浮上してきた時、見えたのは心配気なサルバドールの顔だった。身体を起こそうとするが力が入らない。
「起きたかね? もう暫く横になっているといい」
するりと頬を撫でる手が優しい。ユージェニーは眼だけを動かして辺りを見渡した。ここは何処だろう。自分に与えられた客間では無さそうだが。
そんな思いを汲んでくれたのか、ここは私の寝室だとサルバドールは答えた。
「今は夕刻だ。貧血を起こしたようだな。ちゃんと食べていたか? つわりでも食べれそうなものを用意させようか」
「あ、あの、申し訳ありません」
病人であるサルバドールの寝台を横取りする訳にはいかないと再度起き上がろうとしたがやはり無理があった。恥ずかしくなって上掛けを引っ張り上げ顔を隠そうとしたものの、上手くいかなかった。手を押さえられ、頬に口付けを落とされたからだ。
「今晩はこのままここに泊まるといい。同衾したように見えてちょうど良いだろう」
「殿下、そんな訳には」
「今更縁談を断るつもりか? その腹の子をどうするんだ」
ユージェニーは黙り込んだ。サルバドールのいう通りだ。
「私がむりやり引き摺り込んだことにすればいい。兄上はお前にそんなこと出来るはずが無いと言いそうだが、周囲の目は誤魔化せるさ」
「……」
「貴女の侍女を呼んで、着替えを手伝ってもらおう。貴女が寝ている間に衣装を用意させたから。すまないが今夜の晩餐会には出席してもらうよ。そこで親族と大臣たちに婚約を発表する」
「……お気遣いありがとうございます」
素直な感謝の言葉を聞いて、サルバドールはにこりとした。
「これから一緒に過ごすんだ。遠慮はいらないよ」
一旦出て行ったサルバドールは今度は老医師を帯同して戻ってきた。信頼出来るという彼専属の医師にユージェニーの身体をつぶさに診て貰った。妊娠したことを知られたくなかったユージェニーは国で医師に掛かっていなかったので、これで大きな安心感を得た。
確かに妊娠しているということ、しかし身体の疲労が溜まりに溜まっているのでしばらく安静が必要だということを告げられた。
「安静に、か。では今夜の晩餐会は欠席だな」
「そんなわけには」
「医者の判断だよ。身重の貴女に無理をさせたくない。私が上手く話をつけてくるから安心して」
会ったばかりの彼は顔色がいいとは言えなかったのに、この数刻で頬には赤みが差し、目が輝いて、心底嬉しそうにしている。その様子を長く診てきたという老医師も驚いたようだった。
こうしてユージェニーとサルバドールの婚約が整った。ユージェニーの体調が思わしくないので、婚約式はもうしばらく後にすると話がまとまり、彼女はこのままエルスール国に留まることとなった。
サルバドールの兄であるレオカディオは、サルバドールの私室に居ついているユージェニーを見舞いに来ては、感謝の意を示し続けた。婚約を受けてサルバドールがどんなに元気になったかをひとしきり語っていくのだ。ついでにどんなに優秀な弟かと手放しで持ち上げるのだった。仲の良さそうな兄弟の様子にユージェニーも嬉しく思った。こんなに歓迎されるとは思ってもみなかったことだから。
婚約の誓約を教会で執り行った後、サルバドールの体調が悪くなった。それまで気が張っていたと思われ、寝付いてしまった彼をユージェニーは献身的に面倒をみた。
「我が国には亡くなった兄ギュスターヴの為に薬師たちが改良を重ねて作り上げた薬があります」
レオカディオにそう奏上したのは、サルバドールのことを本気で心配していたからもあるが、それよりも膨らみ始めた腹部を気にしてのことだった。
「優れた薬師もたくさん居りますし、何より環境の良い場所にその離宮は建てられています。サルバドール殿下をそこにお迎えしたい。ゆったりと静養なされては如何と思うのです」
ユージェニーは言葉を尽くして何とか自分の国の王家直轄地の外れたところにある離宮へと自分たちの居を移そうとしていた。レオカディオは無論反対したが、サルバドール本人が強く希望した為、ユージェニーの思惑通りに滅多と人の尋ねて来ない離宮へと引き籠ることが出来たのだった。
◆
二人が離宮へと移ってきてから月日が経ち。月満ちてユージェニーの待望の赤子が誕生する。知らせを受けて懐かしい人物が王家の使者として尋ねてきた。
「サルバドール王弟殿下、はじめてお目にかかります。……ユージェニー王妹殿下、お久しぶりでございます」
恭しく礼を取るマルゴワールを彼女は目を細めてじっくりと眺めた。補佐官筆頭となり、忙しくしていると聞いているのにわざわざ来てくれたのか。風の便りにあれから噂の令嬢と恙無く婚約したと聞いた。
あの夜。ユージェニーの名を何度も呼び、優しい手つきで抱き締めてくれた男は、別の女性のものとなる。レティシアーネと名付けられた赤子が自分の娘だと知らないままだ。それでいい。たった一度きりの閨で子を宿してしまったユージェニーは、自分の思惑を外れて結婚するに至った訳だが後悔はない。マルゴワールとの子を宿したこと、サルバドールと出会えたことは何物にも代えがたい喜びだったと感じるからだ。これが愛情なのかどうかは分からないのだが。
「君は妻の幼馴染みだそうだね。積もる話もあるだろう、ゆっくり滞在していってくれ」
暫く前までは短い距離なら確かに歩いていたのに、ここのところ寝付くことの多くなったサルバドールは、それでも優しい笑みを浮かべてマルゴワールに話し掛けた。そして車いすに乗ったまま、自室へと下がっていった。
様々な感情を押し殺した瞳でそれを見送ったユージェニーは、マルゴワールへと意識を戻した。
「元気だったか」
「はい。相変わらずやることは山積みですけどね。……貴女も元気そうで何よりです。お子様も恙無くお育ちですか」
「ああ。名をレティシアーネという。わたくしの祖母の名を戴いた」
暫くは二人でとりとめの無いことをお互いの報告がてら話した。開け放した窓からすいと心地よい風が通り抜けていく。侍女が淹れ直してくれた熱い紅茶を口にすると、そういえば、とユージェニーは言葉を繋いだ。
「婚約したそうだな。おめでとう」
「ありがとうございます、と言っておきましょう。……貴女があのままかの国からお戻りになりませんでしたから。私なりのけじめです」
微妙な言い回しにユージェニーは引っ掛かりを覚える。
「それは、……戻ってきたら何かが変わったということか」
「過ぎたことです。忘れて下さい」
今言った言葉をか。それともあの夜をか。
「貴女が政治に関与し続けたいという気持ちに応えたつもりでした。でも貴女は戻らなかった」
「それは、……すまないと思っている。全部お前たちに押し付けてしまった」
「お疲れのご様子でしたからね。それまで貴女は国の舵取りを実に良くやっていた。これ以上頑張れないということだったのでしょう。こうしてお子もお産みになられたのです。そろそろエルスールへと戻られては如何か」
マルゴワールはソファから立ち上がって冷徹な冷たい目でユージェニーを見下ろした。
彼は怒っている。処女を棄てて独身を貫くと言ったから覚悟を決めて閨を共にしたのに、唐突な縁談を受けてそのまま帰らず結婚し子まで成したのだから。――実際はサルバドールの子ではないのだけれど。
「―――本当に申し訳ないと思っているんだ。だが、……エルスールへ戻るのは無理だ」
「何故ですか。貴女はもうこの国の王女ではないのですよ」
先ほどの挨拶で王妹殿下と呼んだくせに、そう怒気を含んだ言葉を投げつけたマルゴワールにユージェニーはぽつりと呟いた。
「サルバドール様の具合が良くない。エルスールへの移動ももう難しい。わたくしの出産が終わるまではと頑張ってくれたのだが、あと幾ばくも無いと医師の見立てだ」
マルゴワールは絶句した。気が抜けたように悲しみに沈むユージェニーの隣へと腰を下ろすと、彼女の手を取り握り締めた。
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