ヨセフによる『マリア』記-5
ドアを叩く音がする。あの男がやって来た。
アダムという男は理解ができない人間だった。しかし現実を受け入れなければならない。
この男こそ、エヴァともう一人の女性を身籠らせた始まりの雄。マリアの父親だった。だが僕は、僕こそがエヴァの夫でありマリアの父親だ。こんな男に彼女らを差し出してなるものか。
この家が抱える最も邪なる荷物はアダムのような存在だろう。僕は入り口のドアを開きこそしたが、決して中に入れることはしない。
ブランが歯を剥き出しにして唸っている。だが前に出ることはない。彼も中に入れる気がないのだ。
アダムはちらりと中を覗くとニヤリと笑みを浮かべてこう言った。
「可愛いお嬢さんがいるねぇ。ヨセフくん」
その視線の先にはナターシャが座っている。
僕はこの表情が大嫌いだった。人を舐め回すように気色の悪い笑み。それなのに、マリアと同じ色と形の目で僕を見る。アダムとマリアの間に血の繋がりがあるのだと、僕はその時思い知らされるんだ。そして、ヨセフとマリアの間にはそれがないのだとも。
アダムは父親としてマリアに会いに来たのではないか。そう考えたこともあった。しかし彼の娘のアリスを抱くアダムは父親ではなく雄の目をしている。
信じがたいことだが、アダムはアリスを一人の女性として見ている面があるのではないか。確証があるわけではない。ただ、そう感じるだけだ。そうあるべきではない、そうあってほしくない。だが、僕の見たあの目は確かに。
不安なんだ。マリアのことも、エヴァのことも。そして、あの大人になろうと健気に背伸びをしながら僕に笑いかけたアリスという少女のことが。
アダムという男は彼女らに何をするかわからない。あの下品な笑みでどんなことをしてきたのか知れない。
だからこそ入れてはいけないんだ。一度だってあれを彼女らに近づけてはならない。
神よ。どうかお守りください。
土を踏む音がする。庭をあの男が歩き回っている。
なんという執念だ。エヴァはもうお前の妻ではないのに。マリアはお前という父を知らない。お前はマリアの父親ではないんだ。
アダム、お前にはもう一人の妻とアリスという娘がいるだろう。これ以上何を望むというんだ。
「アタシ、アノコキライ」
神よ。この家をお守りください。
ああ、またあの赤ん坊の泣き声が聞こえるではないか。
一体どこから。
足の下から?
裏庭の茂みの中から?
鍵を失った何処かの部屋から?
助けなければ。救わなければ。
それが親となった責任だろう。次の命を望んだ者の責任だろう。
赤ん坊は何処にいる。
「ヨセフ。ヨセフ」
一体の人形が僕を呼んでいる。
いいや、あれはナターシャだ。何度も言葉を交わしてようやく僕は理解した。あれはナターシャという一人の人形だ。
彼女はずっとエヴァを心配していた。アダムから逃げ、この家に迷いこんだエヴァはナターシャと出会い友人となった。ナターシャは、エヴァがアダムの手で犯され人形のような扱いを受けたことを知っていた。
人形が口を開くことはない。真実を知っているのは当事者であるエヴァとアダムだけだ。
二人の間に何もなかったとでも? 現にエヴァはマリアを身籠りながら、アダムとの縁を切ろうとしたではないか。
これは愛し合う「アダムとイブ」の物語だったか? いいや、違う。世界の何処にもアダムとイブは存在しない。ここにあるのは「アダムとエヴァ」の歪んだ物語だけだ。
「イカナイデ、ヨセフ」
外から男が僕を呼ぶ。壁を叩き、引っ掻き、出てこいと僕の名前を囁く。
「ヨセフ、ヨセフ、ココカラデテイカナイデ」
ナターシャが心配している。
三人の少女たちを、僕が守らなければ。
僕は、ナターシャの頭を撫でてドアのノブに手をかけた。
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