ヨセフによる『マリア』記-3

僕は誰だっただろうか。

神よ。僕は変わってしまったのでしょうか。




どうしても町が好きになれない。早くあの山小屋にみんなで帰るのだと毎日夢を見る。朝起きればエヴァが僕に笑いかけてくれるだろう。

どうしても町の人が嫌いでならない。ナターシャのいるこの家で眠り続ければ、いつかは外へ解放されるのだろうか。マリアのためにもっとたくさんの物語を造りたい。

空には月だけでなく星が輝かなければ悪魔がやって来てしまう。どんなに神へと祈りを捧げても、大事なものが欠けていてはその声は届かない。




神様、ぼくは間違ってしまったのでしょうか。

僕は迷い、悩み、惑った。




そんな姿をエヴァとマリアに見せるわけにはいかない。父親として妻と子を守らなければいけないという責任が僕に逃げるという選択肢を選ばせなかった。

一度町から逃げたエヴァには二度目はない。マリアは小さすぎる。僕には二人の手を引いて町を出ることができないのだ。

エヴァの言うお役目が何なのか、結局のところ僕にはわからない。では彼女は知っているのか。彼女自身も知らなかった。

この家で許しを得るまで時間を過ごせ。町の人は僕らにそう言った。それ以上口を開くことなく、僕らを此処へ追いやった。

この家に一体何があるというのか。

此処にいたのはナターシャという人形だけだ。







僕は。


いつ。


あの人形が。


ナターシャという。


名前だと。


知ったのだろう。







エヴァは最初の日、玄関のドアを開いてすぐの場所に座る人形を見てとても驚いた。それは恐怖ではなく、喜びからの驚きだった。

古くかさついた肌を可哀想だと思ったエヴァは、マリアの時と同じようにオイルかクリームを馴染ませた。

マリアはいつの間にかナターシャを受け入れていた。其所にあるのが当然で、いつも人に対してのように話しかけている。

小麦色だっただろう人工の髪は枯れてくすんでいた。マリアはエヴァにしてもらったようにブラシで人形の髪を整えた。

女性というものはみんなそうなのだろうか。彼女らの心のどこかには共通した何かが飾られているのだろうか。


いいや、それでも人形の名前がナターシャだという証拠にはならない。誰かしらが人形を「ナターシャ」だと呼び、それを知らなければ人形は「ナターシャ」に成り得ないだろう。

エヴァが呼び始めたのだろうか。僕は彼女に訊いた。


「あの子が自分でそう言ったのよ」


マリアにも訊いたが、答えは同じだった。それに、マリアに関してはこの家のことさえ知らなかったのだ。人形の話など聞くはずがない。

だってエヴァはこの町を嫌っていた。娘に自分の幼少期の話をするはずがない。


僕は迷い、悩み、惑った。


エヴァとマリアのドアが閉じられる夜の時間、僕は一人で家の中を歩き回るようになった。月明かりが照らす廊下をゆっくりと歩く。外で何かが泣いている気がした。何かはわからなかった。


そうだ。

僕は毎夜歩いたんだ。

どんなに天気の悪い夜でも、月の消える新月の夜でも。

でも窓の外にはいつだって月が輝いていた。

誰かの足音が聞こえた。あいつだけは家の中に入れてはいけない。

妻と子を、エヴァとマリアを守らなければ。


「だって僕は父さんなんだから」


「エエ、ソウヨ。ヨセフ」


ナターシャは僕に話しかけた。


そうだ。

それは他に人がいない時間。

一人になると彼女は話しかけてくる。


人形は、話しかけてくる。




神よ。

あなたは僕らに奇跡を見せてくださるのですか。それとも、人に奇跡を求めるのですか。

今、起こっている現実はどこか不可思議だ。あなたは何を僕らに与えてくださっているのですか。




「アナタニナラワカルデショ? ヨセフ」




人形は話しかけてくる。

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