猫の小川
電磁幽体
「——だから俺は猫が嫌いなんだ」
「うん、知ってるよ——いただきっ」
昼休みの教室。
シーソーのように椅子を後ろに倒した藤野は、机に広がるコンビニおにぎりに手を伸ばした。
「っておい、シーチキン取るな」
俺は取り返すように手を伸ばしたが、これはあくまでもポーズだ。
さっそく包装紙を剥かれてはひったくるわけにもいかないし、それに……。
藤野はビニール袋から、自分で買ってきたつくね味を俺に差し出した。
「こーかんしよっ」
「……仕方ねーな」
「でね、猫トークの続きなんだけど」
始めたつもりはないが?
「実は魚よりも肉のほうが好きなんだよ。お魚ばっかり食べてるとビタミンEが取れないから病気になるって言われてるし。
あと、シーチキン、すき」
「いや、聞いてねえし」
だとすると、お魚くわえたどら猫という有名なフレーズは多大な誤解を与えることになり、代わりにお肉をくわえさせてやるべきだも思うが——そんなことよりも、
「猫は嫌いだって言ってるだろ」
藤野はすぐに答えなかった。
シーチキン味をもぐもぐと頬張りながら咀嚼し、ごくりと嚥下。
口の中をペットボトルのお茶で潤してから言葉を紡いだ。
「でもさ、きみ、取り出すぐらいはしてあげても良かったんじゃないかな?」
……事の発端は今朝のこと。
俺は登校途中にソレを見かけた。
「ああ、あの道の。人通りが多いし、選択肢としては悪くないかもね」
道路端の側溝に、捨て猫のダンボールが放置されていた。
『拾ってください』
申し訳程度に傘が差されていた。
「元飼い主の人もあんまり深く考えてなかったんじゃない」とは藤野の言だが、酷いものである。
ほんの小雨なら大丈夫かもしれない。
でも側溝に溢れ出すほどの大雨だったら?
暗い穴の中をダンボールごと流され、行き着く先は地面の底の下水道。
……なぜわざわざ溝の中に置いたのか。
それは捨てるという行為に後ろめたさを覚えたからだろう。
だから隠すように置いたんだ。
その短慮が猫を殺すとも気づかずに。
「——でもきみは気づいた」
「……今日はほぼ晴れだって、天気予報で言ってたから……」
思わず目線を逸らした。
俺は窓の外を見てしまう。
晴天だった天気が五パーセントの壁を超えてどんよりと曇りだし、今にも雨が降り出しそうな様相を呈していた。
……後ろめたいのは俺も同じで。
「あのさ、きみ——」
「……」
何も言えない。
続く言葉を恐る恐る待っていると、
「——世界一長いトンネルってなんだと思う?」
「は?」
藤野はすげーどうでもいいことを言ってきた。
「ニューヨーク市へと続く、全長一四七キロメートルの導水路」
藤野の口調は変わらない。
俺のシーチキンをふんだくったのと同じ調子で話を続ける。
「その名をキャッツキルアケダクトっていうんだ。
……なんだか不穏な名前だね?」
Catskill——猫殺し。
俺の心臓がバクンと跳ねる。
「……キャッツキルアケダクトには、その名の通り不吉な噂話がある。
迷い込んだ無数もの野良猫が、水に流されて溺れ死んで、その亡霊が声になって聴こえるっていうんだ。
蛇口から水を注ぐとき、
にゃ”あ〜、
にゃ”あ〜、
にゃ”あ〜!と」
「……何が言いたいんだよ」
口では強がりつつも、俺はビビっていた。
正直言ってこの手の話は苦手なんだ。
「もしかするとね、きみにもソレが聴こえるかもしれないんだ。
ふと蛇口を捻ると、あの時の捨て猫が…………にゃ”あ〜!」
「ば、ばからしいな!」
口ではそう言いつつも、俺は背筋に冷やりとしたものを感じていた。
——ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ……
「あ……」
ちょうどいいタイミングで、あるいは最悪のタイミングで、
「降ってきちゃったね」
俺の表情が固まり、背筋が凍り付いていく。
大したことのない小雨だったが、傘はダンボールに掛かっていたが……今やそんなことは関係ない。
俺はあの時、わざと見過ごした。
俺が側溝からダンボールを取り出さなかったばかりに、捨て猫は流されるかもしれない。
そして藤野の言う通り、俺は呪わ——
「——呪わせないよ、安心して」
藤野は昼食の後片付けを済ませると、カバン片手に立ち上がった。
「今なら間に合うから」
「俺も助けに行く!」
「きみはダメだよー。テスト、危ないんだから」
「ッ!」
成績優秀な藤野と違って、俺は色々とギリギリだった。
特に数学は前期赤点でリーチが掛かっている。
「きみと同じ学年でいたいんだから。ね、お願い」
強く念を押されて、俺は従う他なかった。
「いや、でも、助けてその後はどうすんだ。……藤野は喘息だろ?」
喘息とは気管支炎の病気だ。
藤野の場合は、動物の毛を吸い込んでしまうと、気管がアレルギー反応を起こして縮小し、息苦しくなってしまう。
つまるところ、藤野は猫を飼えない。
「飼えないのに助けるっていうのか?」
「猫を飼うことはできないよ。
でも、助けないことの理由にはならないでしょ?」
それを聞いて——俺は深い溜息を付くほかなかった。
ホームルームが終わると、俺は一目散に教室から飛び出した。
連絡は付かないが、俺には心当たりがあった。
藤野はこういう時、決まって駅にいる。
なぜなら人がたくさんいるから。
予想通り、駅の広場のど真ん中に藤野はいた。
ダンボールを覆うように傘を差し、自分はレインコートでびちゃびちゃになりながら、道行く人々に必死に声掛けしている。
「捨て猫を育ててくださる、心優しい方はいませんか?」
人々の、藤野に対する目つきは厳しい。
「なぜお前が育てないのか」
藤野は重度の喘息なのだから、それは無理な相談だった。
それならば、こう返すだろう。
「なぜ飼えもしないのに拾うのか」
同じことを何度も聞いた。
今日だってそうだ。
それに対して、藤野はいつだってこう答える。
——猫を飼うことはできないよ。
でも、助けないことの理由にはならないでしょ?
自分がどう思われても構わないし、目的のためならば手段を選ばない。
藤野はそういう人間だった。
「……やっぱり来てくれたんだ」
……やっぱりこうなるか。
藤野は俺に気づくと、たったったっと駆け寄って、お決まりの言葉を投げかける。
「捨て猫を育ててくださる心優しい方はいませんか?」
「分かったよ。俺の負けだ」
——だから俺は猫が嫌いなんだ。
家の玄関を開ける前に。
子猫の入ったダンボールを掲げる俺の横で、藤野は使い捨てのマスクを装着する。
N95規格をクリアした防塵性に優れたものらしい。
藤野は駅のトイレで学校指定ジャージに着替えている。
帰ったら服を洗い、風呂に入る。
それで、藤野の喘息は予防できる。
たとえ今から、猫屋敷に踏み入れるとしても。
「ただいまー」
「お邪魔しまーす」
玄関を開けると——鳴き声の大合唱が俺たちを出迎えてくれた。
——にゃあ〜、にゃあ〜、にゃあ〜、にゃあ〜、にゃあ〜、にゃあ〜、にゃあ〜。
俺の足元に駆け寄ってきた猫は七匹。
足元に群がる猫を引き連れて進むと、広いリビングには、更に倍ほどの猫がぐうたらとくつろいでいた。
——両親が猫バカで、生まれた時から猫どもに揉まれて生きてきた。
両親から与えられる愛情も、猫と仲良く等分されて何一〇分の一。
これで猫を嫌いにならない方がおかしいだろう。
……姉はなぜか、俺と違って両親と遜色ないほどの猫バカになったみたいだが。
「んあ、お帰りー。って、藤野ちゃんも一緒にいるんだ」
パソコンに向かっていた姉が、ぼりぼりと頭を掻いてこちらに振り返った。
両親は共働きだ。
他の誰かが居ない時は、在宅でデザイナー業をこなす姉が猫の面倒を見ている。
「あんた、また捨て猫拾ってきたの?」
姉が呆れたように、俺の携えるダンボールの中身を覗き込む。
「……ごめん」
「ま、いいんじゃない。パパとママも喜ぶだろうし、あたしも別に嫌いじゃないし。
……まだちっちゃいね。この種でこの年頃なら……これとこれね」
姉は猫用の食料棚を漁り、取り出した赤い缶を、俺ではなく藤野に突き出した。
「この脱脂粉乳を溶かして飲ませるのがベスト。あんたさじ加減下手くそだから、藤野ちゃん代わりにやったげて」
「まかされましたっ」
マスクを付けた藤野が、子猫にミルクを与えている。
くりっとした目つきが、母親を見るような上目遣いで藤野を見やる。
俺たちの周りには家の猫どもは、新入りを横から興味深そうに眺めている。
そう。
今日からこの子猫は、彼らの、そして俺の家族になる。
「……あのさ、藤野、健気っぽく振る舞うのは良いけど、駅の広場で声掛けしてる時、ちゃんとマスクつけとけよな。一応、俺も心配するし……」
「大丈夫。雨の日は湿気で動物の毛は舞わないから」
それも計算づくですか、と俺は再び深い溜息を付いた。
「——それにしても、今回もあっさりうまくいったね」
「ちっくしょう……!あの流れだと、受け入れざるを得ないだろうが……!」
途中から藤野の術中にハマっていることに気付いたが、もはや後の祭り。
訂正は不可能。
まんまと乗せられ、俺は藤野の代わりに、またもや捨て猫を飼うことになった。
ただでさえ猫屋敷での生活に辟易としてるのに、なぜ自分から頭数を増やしにいかねばならないのか。
「今回の勝因は……ずばり〈呪い〉で怖がらせたことだね」
まさしく藤野の言う通りだった。
抱かされた罪悪感を強く刺激され、身を粉にした藤野の行いを見せつけられた。
たとえそれがそういう振る舞いだったとしても、ああも外堀を埋められては——男として、首を横に振れなくなってしまう。
「キャッツキルのアケダクト——あれ、嘘だよ」
「は?」
「
藤野は、横にずらりと並んだ猫の群れを指して、マスク越しの笑みを浮かべた。
「だから、
〈了〉
猫の小川 電磁幽体 @dg404
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