第二十八話   最悪へのカウントダウン

 緊急警告のサイレンが鳴り響いたのは、午前6時12分であった。


 未だ夢現だった生徒たちは何事かとベッドから飛び起き、寮長の指示に従って不穏な空気に包まれた学生寮から一目散に第1体育館へと向かっていく。


 男子も女子も関係ない。


 寝巻き姿のまま飛び出した女子生徒もおり、男子に至っては上半身裸の生徒も複数いた。


 だが、そんな慌てふためく生徒たちの中でたった1人だけ事態を把握していなかった生徒がいた。


 時間は少しだけ遡る。




 午前5時28分。


 深夜のような澄んだ空気が充満し、日が昇っていない空が徐々に白み始めた時刻であった。


「よし……準備OK」


 桃色のジャージに着替えた向日葵は、身だしなみを整えて自室から廊下へと出た。


 他の生徒たちを起こさないように注意し、男子寮と繋がっている渡り廊下へと向かう。


 向日葵は渡り廊下に辿り着くと、そのまま外へ出て駐輪場へと歩を進めた。


 駐輪場には数台の自転車に混じり、真っ赤なママチャリが置かれていた。


 食堂で働くオバさんから借りた自転車である。


 借りたときは2、3日だけでいいからと頼み込んだが、食堂のオバさんはあまり使わないから返すのはいつでもいいとはにかんだ笑みとともに言ってくれた。


 向日葵はママチャリに乗り、駐輪場から出発した。


 学生寮の敷地から出て、ある場所に向けてペダルを漕いでいく。


 日課である早朝のサイクリングではない。


 向日葵は航空戦闘学校の正面ゲート前を通り、海岸方面へと進んでいった。


 目的地は海岸まで続いている道路の途中にある雑木林であった。


 厳密には雑木林の中で密かに世話をしていた翼竜の幼体――ミントの元へ向かっていた。


 10分ほどペダルを漕いだだろうか。


 向日葵はママチャリを道路脇に停車させた。


 道路脇には薄暗い雑木林が生え茂っており、濃密な朝靄に包まれていた。


 一歩足を踏み込めば迷ってしまいそうな印象があったが、それでも向日葵は軽快な足取りで雑木林の中に足を踏み入れていく。


 地面から露出している木の根に注意しながら奥へ奥へと進んでいくと、向日葵は目的の場所へと到着した。


 立派に育っている樹木の枝に巻きつけてある水色のハンカチ。


 その樹木の根元には、小さなダンボール箱がファンタジー世界の宝箱のように置かれている。


 向日葵はダンボール箱の中を真上から覗き込んだ。


「キキキ」


 ミントはすでに起きていたらしく、中を覗き込んだ人物が向日葵と認識するなり猿のように甲高く鳴いた。


 目をパチパチと瞬かせ、包帯が巻かれている翼を少しだが羽ばたかせた。


 改めて向日葵は翼竜の生命力に驚かされた。


 完治するには1週間、最低でも4日は必要だと自己診断したが、この調子だとあと2日ほどで完治しそうだ。


 向日葵はダンボール箱の中からミントを取り出した。


 そっと胸に抱いて頭を撫でる。


「キキキ~キキ~」


 嬉しそうな声でミントが鳴く。


 翼竜の幼体は人間よりも若干体温が高い。


 そのため、抱いていると心身まで温かくなってくる。


「さあ、ミント。場所を移動するよ」


 ミントを抱き締めたまま、向日葵は目印をつけていた樹木から踵を返した。


 早歩きで雑木林を抜け、道路脇に停車していたママチャリの元へ戻る。


 籠の中にミントをそっと入れ、サドルに跨ってペダルを漕ぎ始めた。


「キキ?」


 籠の中に入れられながらミントは、怪訝そうな表情を向日葵に向けてくる。


「大丈夫だよ。大丈夫だから」


 元より言葉が通じるはずはないが、それでも向日葵はミントを宥めながらペダルを漕いでいく。


 行き先は数キロメートル先にある海岸であった。


 昨日の夕方、ミントの世話をしているところを天馬に目撃された。


 記憶の片隅に眠っていた心優しい少年であり、現在ではクラスメイトになっていた。


 その天馬に目撃されたとき、向日葵は一瞬だが血の気が引いた。


 自分が翼竜を庇護していたという事実を目撃されたからではない。


 ミントを今すぐ殺せと言われたからだ。


 長い話し合いの結果、天馬は少しだけ様子を見るといってくれた。


 そして二人して寮に帰ったのだが、今でも向日葵は覚えている。


 別れ際に一瞬だけ垣間見せた天馬の横顔。


 何か思いつめるような逼迫した緊張感がひしひしと肌に伝わってきた。


 そのとき、向日葵は何となく嫌な予感がした。


 だから昨日の今日で行動を起こした。


 もしも自分が感じた予感が現実のものとなる前に、今度こそ見つからないような安全な場所にミントを移すために。 


 ミントを籠に入れたまま向日葵が走らせるママチャリは、1台も車が通らない道路を進んでいく。


 やがてミントの鼻がひくひくと動き出した。


 潮の匂いが鼻腔の奥に漂ってくる。海が近くなってきた証だ。


 不意に向日葵の運転するママチャリが停車した。


 向日葵の視界には、幅百メートルほどの砂浜が広がっている。


 真夏ならば絶好の海水浴スポットだろう。


 今は早朝なので人間の姿など皆無だが、夏ともなれば市街地から家族連れなどが泳ぎに来るかもしれない。


 それほど綺麗な砂浜だった。


「キッキキキ~」


 籠の中でミントは騒ぎ立てた。


 荒波に揉まれて漂着したのだから、てっきり海を見て恐怖感を露にするかとも思ったが、どうやら翼竜にはそんな感情はないようである。


 返って好都合であった。


 それならば逃げられる心配はない。


 向日葵はママチャリから下りると、籠からミントを取り出して胸に抱いた。


 近くにあった石段を下って砂浜に降り立つ。


 向日葵は砂に足を取られながらも延々と歩き続け、やがて砂浜の端に辿り着いた。


 そこはごつごつとした岩場が密集していた磯浜であった。


 近くには足首ほどの深さがある浅瀬があり、うっかり足を踏み外せば怪我を負ってしまう。


 一度だけ向日葵は渚と一緒にこの場所へ来たことがある。


 砂浜を歩いていたら偶然渚が発見し、面白そうだからと探検した2人だけの秘密スポットであった。


 そして、そのときに見つけたのである。


 滑り気を帯びた岩の上を慎重に歩き、向日葵は磯浜の奥へと進んだ。


 あった。


 向日葵はミントとともにそれを見つめた。


 秘密スポットとはまさにこのような場所を言うのであろう。


 向日葵の数メートル先には、大人3人分くらいは余裕で入れる洞窟があった。


 砂浜からは完全に死角となっているため、地理に長けた人間か実際にここを訪れた人間しかこの場所は発見できないだろう。


「ミント、心細いでしょうけどしばらくここで過ごしてね」


 向日葵がそう言うと、ミントは首を柔軟に動かして顔を向けてきた。


「キキキ~、キキキ」


「ふふ、そうなの。君は偉いね」


 言葉は分からないが、別段嫌がっているような鳴き声ではなかった。


 向日葵は適当に相槌を打ち、ミントの頭を優しく撫でる。


 向日葵はミントの頭を撫でながら、沈痛な面持ちで洞窟を眺めた。


 天馬を信用しないわけではないが、よく考えれば前の場所は危なすぎた。


 以前は身体を動かせないほど深手を負っていたという事もあったが、今ではミントの怪我も順調に回復し、自力で翼を羽ばたかせるほどになった。


 そうなるとミントがうっかり道路に出て行かないとも限らない。


 前の隠し場所は道路からさほど離れていない樹木の根元にあった。


 ミントのたどたどしい足取りでも、ものの数分で辿り着ける距離である。


 だからこそ向日葵は決意した。


 天馬に内緒でこっそりと隠し場所を移そうと。


「2、3日の辛抱だからね」


 向日葵は洞窟に向かって歩き始めた。


 まさにそのときである。


「キキキキキキ――――ッ!」


 ミントが向日葵の胸の中から飛び出し、鼓膜を刺激するほどの叫声を上げた。


「どうしたの? ミント」


 向日葵はミントが鳴き叫んでいる方角に意識を向けた。


 水平線の彼方には、これから顔を覗かせる太陽の光が空を照らし始めている。 


 そして、このときの向日葵はまだ気づいていなかった。


 やがてその太陽の光を遮るような、巨大な飛行生物が四鳥島に向かって来ていることを――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る