第十七話 名前はミント
遊び場はいつも神社の裏手だった。
転校ばかりを繰り返し、一向に友達ができなかった小学生最後の年。
向日葵は学校が終るとすぐに帰宅途中にあった神社に立ち寄っていた。
その日も学校が終ると、脇目も振らずに神社へ向かった。
子どもの足ではきつい石段を上がり、境内を通って社殿の裏手に回る。
社殿の裏手に回ると、古びた大木の裏に小さなダンボール箱が隠されていた。
ダンボール箱の中を覗くと、そこには子猫が一匹寝そべっている。
「ミント、いい子にしてた?」
向日葵は優しい口調で子猫に声をかける。
子猫は向日葵の顔を見て小さく鳴いた。
子猫の名前はミント。
公園のベンチ下に捨てられていた際、入れられていたダンボール箱に可愛い丸文字で「ミント」と書かれていたのでそのまま受け入れることにした。
向日葵は背負っていたランドセルを地面に下ろし、中から給食で残した食パンを取り出した。細かく千切ってミントの目の前に置く。
ミントは置かれた食パンの匂いを嗅ぎ、安全と確認した上で食べ始めた。
「ごめんね、うちではミントは飼えないんだって」
向日葵はミントの頭を撫でながら呟いた。
家ではペットを飼うことはできない。
本当は分かっていたことだ。
転校のたびに住む家が変わり、アパートのときもあればマンションのときもあった。
だが、どちらもペットは不可であった。
もちろん、現在住んでいるアパートもペットは不可。
念のために親に相談してみたが、結果はやはり駄目という答えが返ってきた。
ならば、と向日葵は一人でミントを飼うことを決意した。
場所を人目につかない神社に移し、食べ物は給食の残り物を持ってくる。
それでミントを飼うことができると子ども心に本気で思っていた。
ろくに友達ができなかったあの頃、寂しさを紛らわす存在はミントだけだった。
自分以上の孤独な存在。
けれどミントの表情は驚くほど明るかった。
その笑顔を見るだけで、日々の寂しさが洗われていくような気がした。
だから毎日面倒を見た。
自宅から要らなくなったタオルを持ち出し、冷えないように寝床を作ってあげた。
土、日などは給食がないので、冷蔵庫の中から適当に猫の餌になるような物を持ち出してミントに食べさせた。
あのときは毎日が楽しかった。
たとえ学校で仲よくなった友達が出来たとしても、どうせすぐに転校して離れ離れになる。
だったら最初から友達を作らないほうが寂しくなることはない。
しかし、それでもやはり寂しくなることはある。
だからミントを飼い始めた。
ミントと自分は同じ一人ぼっち。
そうどこかで感じあったからこその判断だった気がする。
向日葵はミントをダンボール箱の中からそっと出し、優しく抱きかかえた。
温かな感触が両腕全体に感じられ、顔を摺り寄せるとピンと張った髭が肌をチクリと刺す。
それでも一向に構わず、向日葵はミントをぎゅっと抱き締めた。
「ミント……」
顔を摺り寄せながら囁いたとき、向日葵は地面を靴で擦る音を聞いた。
ミントを抱いたまま慌てて振り向く。
「あ」
思わず向日葵は声を上げた。
自分たちがいる社殿の裏手に回ってきたのは、自分と同じ年頃の少年だった。
黒のランドセルを背負い、右手にはビニールの袋を持っている。
互いの視線が交錯する。
向日葵は声を出すことはできなかったが、しばらくしてその少年の顔に見覚えがあったことを思い出す。
微妙な空気が漂う中、怯える向日葵に少年はくすりと笑った。
「そうか、その猫は君が飼ってたのか」
まだ一度も話したことはなかったが、その少年は同じクラスメイトだった。
寡黙で落ち着いた雰囲気を持ったその少年は、自分とは違いクラスでは頼りがいがあると周囲から慕われていた。
少年はビニール袋を持ったまま近寄ってきた。
反射的に後退する向日葵。そんな向日葵を見て少年は首を左右に振る。
「そんなに警戒しなくてもいい。ほら」
ビニール袋の中から少年は猫の餌を取り出した。
給食の残り物ではなく、きちんとした猫専用の缶詰や牛乳などが入っていた。
向日葵は欄と目を輝かす。
「すごい……でも、どうして?」
そう、それが分からなかった。
向日葵は一度も少年とは話したことはない。
ましてや猫のことは誰にも教えていなかった。
ビニール袋の中に入っていたプラスチック製の容器に牛乳を入れると、少年は「猫に飲ませてあげな」と微笑んだ。
向日葵ははっと気づき、ミントを地面に下ろした。
すると、ミントは容器に近づき満たされた牛乳を美味しそうに飲み始めた。
「ありがとう。ミントもこんなに喜んでる」
「哺乳動物の基本はミルクだからな。このぐらいの子猫ならなおさらだ」
少年は大人びた口調でそう言いながら、片膝を立ててミントの頭を撫でている。
そのときになり、向日葵はようやく気がついた。
「本当にありがとね……え~と」
少年は戸惑っている向日葵に顔を向けた。
そして怒るでも呆れるでもなく、ただ笑顔を作って口を開いた。
「天馬……白樺天馬だ」
向日葵ははっと目を覚まし、呆然とする意識のまま天井を見上げた。
灯りが点っていない蛍光灯がぼんやりと見える。
続いて顔を横に向けると、隣のベッドには小さく寝息を立てて眠っている渚の姿があった。
たっぷり5分ほどかけて意識を覚醒させた後、向日葵はむくりと身体を起こしてベッドから出る。
フローリング式の床には、食べかけのスナック菓子やキャップが空きっぱなしのペットボトルが散乱していた。
昨日は遅くまで騒いでいたからね。
向日葵は散らかっている部屋の中を見渡し、ふっと苦笑した。
確か言い出しっぺはいつも渚だった。
もう何度目か分からないが、適当な理由をつけて宴会を開く。
と言っても休みの前日にスナック菓子やジュースを部屋に持ち込み、夜遅くまで騒ぐ程度であった。
だが、それでも楽しい。
特に昨日はこの島で仲よくなった留美を呼び、三人で色々なことについて話し合った。
本当は同じクラスの男子生徒もこっそり呼んでいたらしいが、急遽怪我をしてこられなくなったという。
向日葵は勉強机の上に置かれていた目覚まし時計に視線を向ける。
現在の時刻は午前5時を少し回ったところ。
カーテンを少しだけ開けてみたが、まだ朝日は昇っておらず、夜の帳が下りたままの静けさと薄暗さがあった。
今日は第一週の土曜日。
航空戦闘学校は休校で授業はない。
向日葵は目覚まし時計を手に取り、目覚まし機能をOFFにした。
その後、向日葵は包帯が巻かれている右足首に手を触れた。
よかった、腫れはもう引いてる。
やはり捻挫は自己診断したとおり、症状は軽かったらしい。
それに医務室で受けた適切な処置と丸一日休めていたせいで、歩行自体にはもう問題はなさそうだった。
向日葵は寝巻き姿から桃色のジャージにさっと着替えた。
それから渚を起こさないように物音を殺し、勉強机の横に用意していたバッグを手に取る。
床に散乱しているお菓子の袋を踏まないように注意し、部屋から廊下に出た。
時間が時間なので廊下には人の気配は微塵もなかった。
肌寒い空気とピンと張り詰めた静寂が廊下全体を包んでいる。
向日葵は右足首を庇うような拙い足取りで一階に下りる。
木製の階段なので体重を預けるたびにギシギシと頼りない音が鳴るが、その音に反応する人間はいなかった。
好都合である。
向日葵は女子寮専用の正面玄関には向かわず、男子寮と繋がっている渡り廊下へと向かった。
鍵を外して渡り廊下に出た向日葵は、そのまま外へと出た。
男子寮と女子寮を繋ぐ渡り廊下は、雨を凌ぐための天井しかない。
出ようと思えば渡り廊下からすぐそのまま外に出られるのである。
そして渡り廊下から外に出たのは、すぐ目の前に駐輪場があるからであった。
駐輪場に辿り着くと、向日葵は数台ある自転車のうちの一台に目を止めた。
昨日、食堂で働く従業員のオバさんに無理を言って借りたママチャリであった。
持っていたバッグをママチャリの籠に入れると、向日葵はサドルに跨った。
寒々しい風が吹く天気の中、向日葵はペダルを漕ぎ始める。
元は小学校だったという学生寮のグラウンドを進み、航空戦闘学校方面へ向かう。
ペダルを漕ぐ度に少しだけ足首が痛んだが、それでも歩くよりは大分マシであった。
これならば目的の場所まで難なく行ける。
24時間警備員が待機している正面ゲート前を通り、向日葵が漕ぐママチャリはどんどん進んでいく。
航空戦闘学校が背後に見えなくなってくると、次第に周囲の風景が緑になってきた。
澄み切った空気を吸い込む度に、気分が清々しく晴れ渡る。
元々、この四鳥島は自然が豊かな島である。
学校が始まる一ヶ月も前から島の各地を渚と見回ったのでよく覚えていた。
このまま進んでいくと、森林公園と海岸の二手に分かれる道が見えてくる。
だが、向日葵はそこまで進むつもりはなかった。
2、3キロほど進んだだろうか。
徐々に白ずんで明るくなってくる空と、ママチャリのライトを使って注意深く周囲の風景を眺めていく。
「見つけた」
声を上げた向日葵は、ブレーキをかけてママチャリを止めた。
絶対に誰もいないと分かっていたが、念のため周囲を見渡して誰もいないことを確認する。
誰もいないことを確認した向日葵は、ゆっくりとママチャリから降りた。
籠に入れていたバッグを取り出し、雑木林の中へと入っていく。
雑木林の中に入って少し進んでいくと、向日葵はそっと目線を上げた。
一本の樹木の枝には、水色のハンカチが目立つように結ばれていた。
間違いなくこの場所だと判断した向日葵は、地を這う木の根に注意しながらハンカチが結ばれている樹木の根元に辿り着いた。
「遅くなってごめんね」
向日葵はバッグの中から予め用意していたプラスチックの容器と、紙パックの牛乳二つを取り出した。
そして平らな地面に容器を置き、紙パックの牛乳を満たす。
すると、樹木の根元に蹲っていた黒いモノは容器に顔を埋めた。
その仕草は犬や猫と変わらない。
ピンク色の舌を伸ばして嬉しそうに牛乳を舐め始める。
その黒いモノは犬でも猫でもなかった。
硬い外皮に覆われ、鳥のような尖った嘴。
体重は5キロほどだろうか、四本あった手足は四足でも二足でも歩行は可能。
背中には薄い膜状の翼が二つ生えていた。
牛乳をペロペロと舐めていた黒いモノは、ふと向日葵に顔を向けてきた。
潤んだ二つの眼球は琥珀色に輝き、嬉しそうに鳴き声を上げる。
向日葵はそっと黒いモノの頭を撫でた。
まるで岩に触れたような硬い感触が伝わってきたが、黒いモノは嫌がる素振り一つせずに向日葵に頭を撫でられている。
黒いモノの頭を撫でながら、向日葵は顔をほこらばせて呟いた。
「今だけだから……今だけだからね、ミント」
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