第十六話    そして人知れず出会った

 生徒たちは正面ゲートを潜ってアスファルトで舗装された道路に出る。


「ほらほら、元気よく走れ!」


 一人だけスクーターに乗っている松崎。


 生徒たちは口にこそ出さなかったが、一人だけ楽しやがって、という憤怒の炎が瞳の中に宿っていた。


「先生はいいよね、ちゃっかりバイクになんて乗ってさ」


 集団の後列で走っていた渚は、その横に一緒になって走っている向日葵に小声で話しかけた。


「そうだけど、そこはほら教官だしね」


 まだ走り始めたばかりなので、二人とも互いの顔を横目で見て会話をすることも可能だった。


 地面も舗装されている平らなアスファルトなのでまだ走りやすい。


 けれども、こうして会話をできるのも今だけだと二人は思っていた。


 向日葵と渚は丸1ヶ月以上すでにこの四鳥島で暮らしており、島の元観光名所や市街地を巡ってこれから3年間を過ごす場所の下見に励んできた。


 だからこそ分かる。


 第168航空戦闘学校から海岸までは約10キロ。


 往復すれば20キロという途方もない長距離である。


 しかもゴール地点である海岸までは平らな地面ばかりではない。


 途中には起伏の激しい坂道や蛇行ぎみになっている道も存在し、ただ歩くだけでも体力を削られてしまう。


 どれぐらいの時間が経っただろうか。


 後列で走っていた向日葵は、徐々に荒くなってくる呼吸を必死に誤魔化しながら足を動かしていた。


 いつの間にか、周囲には渚を含めて数人の生徒しかいなくなっていた。


 体力に自信がある生徒はハイペースでゴールを目指し、今では目を凝らしても影も形も見えない。


 一人だけスクーターに乗って生徒たちを見守っていた松崎は、一定時間ごとに最前列の組から最後列の組まで往復している。


 これはおそらく、途中で抜け出してマラソンをサボろうとする生徒たちを監視するためだろう。


 もちろんサボろうと考える生徒はさすがにいなかったが、それでも体力は個人差により異なる。


 別にタイムを計っているわけではなかったので、松崎はゆっくりなペースで走っている生徒を叱咤するような真似はしなかった。


 ただ、「自分のペースでいいから完走しろよ」と激を飛ばすのである。


 最後列で走っていた向日葵たちに今しがたそう激を飛ばした松崎は、最前列に向かってスクーターを飛ばしていく。


 松崎の遠ざかる背中を見送りながら、向日葵は何とか完走しようと懸命に足を動かした。


 向日葵は、どちらかというと体力には自信があった。


 実家の手伝いをしているときには徹夜で怪我人や病人の看病をしたこともあり、往復20キロならば完走できるという自負もあった。

  

 ただ、壊滅的に足が遅い。


 自分の体力を過大評価しない向日葵は、ペースと呼吸を乱さないように心がけながら走っていた。


 そうすると余計に走る速度は遅くなり、どんどん他の生徒たちから離されていってしまう。


 そして2、3キロを過ぎた時点ではついに最後尾になってしまい、周囲で走っている生徒は渚と他のクラスの人間が二、三人であった。


「はあ、はあ……渚ちゃん、いいんだよ別に……はあ、はあ、先に行っても」


 懸命に走りながら向日葵は、自分のペースに付き合ってくれている渚に声をかけた。


「かまわないよ。最後まで付き合うって」


 向日葵とは違ってあまり呼吸を乱していない渚は、清々しいほどの笑顔を浮かべた。


 渚は向日葵と違い、中学時代は陸上部で活躍していた健脚の持ち主だ。


 本来のペースで走れば余裕で最前列に加わることができるだろう。


 しかし渚は別にタイムを競ってるわけじゃないんだらゆっくり行こうよ、と言って最後尾で走っている。


 相変わらず渚は優しいな。


 向日葵は斜め前の位置で走っている渚の背中を見つめた。


 懐かしい思い出が向日葵の脳裏に蘇る。


 渚との出会いは中学一年生のときだった。


 それまで転校を繰り返したせいか中々友達が作れず、父親が病院を中部地方に移してからもそれは変わらないと思って憂鬱な気持ちに支配されていた幼少時代。


 どうせ今度の学校でも友達はできないだろう。


 父親にはもう引っ越すことはないと言われたが、それを簡単に信じられないほど小学生時代は辛かった。


 転校を繰り返していたせいで友達の作り方が分からず、生来の内気な性格も災いし、中学一年の半ばに編入した学校にも中々馴染めずにいた。


 そんなときに声をかけてくれたのが渚である。


 自分とは違い活発で明るく、太陽のような笑顔が印象的だったのをよく覚えている。


 もしもあのとき渚と同じクラスにならなかったら、現在の自分がここにいることはなかっただろう。


 少なくとも、戦闘学校に入学することはなかったと向日葵は思う。


 中学二年の進路相談の際に、渚が向日葵に相談した戦闘学校への入学。


 最先端の医療と看護を学ぶため、一緒に行こうと話してくれた渚の言葉は今でも忘れない。


 向日葵のように大勢の人たちの役に立ちたい。渚は面と向かってそう言ってくれた。


 嬉しかった。


 友達が作れない代わりに、実家の手伝いを繰り返していたときに覚えた拙い看護の技術。


 初めて渚を自宅に招いた際、渚は緊急の患者に対して処置をしていた自分を見て感動したという。


 そして中学三年生の正式な進路希望の折、向日葵は渚と一緒に決意し、新設されたばかりの第168航空戦闘学校のメディックコースを志望した。


「どうしたの? 何か面白いことでも思い出した?」


 ふと向日葵は顔を上げた。いつの間にか自分は含み笑いを漏らしていたらしく、渚は顔だけを振り向かせてくすくすと笑っていた。


「はあっはあっ……何でもないよ」


 と向日葵が答えた直後であった。


「あ――」


 急にバランスが大きく崩れ、向日葵はその場に転倒した。


「向日葵!」


 足を止めた渚は、前のめりに倒れた向日葵に急いで近寄った。


 くぐもった呻き声を上げる向日葵をそっと抱き起こす。


「大丈夫? 向日葵」


「う、うん……だ、大丈夫」


 向日葵は痛々しく顔を歪めた。


 右足首に鈍痛が走る。


 そっと手で触れてみると、やや腫れているようだ。


 多分、小石を踏んでしまったのだろう。


「待ってて、向日葵。すぐに先生を呼んでくるから」


「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、渚ちゃん。ちょっと足を挫いただけだから」

「だったらなおさらそんな足で完走はできないでしょ? いい? ここで大人しく待ってるのよ」


 渚は本気で向日葵を心配していた。


 それは表情一つ見ればすぐに分かる。


 向日葵が本当に大丈夫だよ、と言う前に渚は走り始めていた。


 中学時代に鍛えた脚力を駆使して最前列目掛けて加速していく。


 やはり相当ペースを落として走っていたのだろう。


 すぐに渚の身体は小さな点のようになっていった。 


「このぐらい別に平気なのに」


 そう思ったものの、捻挫は無理をすれば症状が悪化してしまう。


 自分で患部を触診して症状を自己診断してみると、どうやら靭帯や骨には異常はなかった。


 これならば弾性包帯やテープで足首を固定し、氷のうなどで患部を冷やせば直に治るだろう。


 そう思っていたときであった。



 キ……キキ……キキ……。



「え?」


 地べたにぺたんと座り、捻挫した足首を自己診断していた向日葵は周囲を見渡した。


 すでに一緒に走っていた生徒の姿は誰一人いなく、走っていた道路を木々に隔てられていた場所である。


 通る車もバイクもなく、通行人など一人もいない。


 しかし、確かに何か聞こえた。小動物の鳴き声のようなものが。


 向日葵は左足一本で立ち上がり、歩道脇の雑木林の中までけんけんで移動した。


 自分の耳が正常ならば、鳴き声のようなものは雑木林の中から聞こえた。


 まさか猪や熊ではないだろう。


 もしかすると、捨て犬か捨て猫かもしれない。


 小学生のときに亡くなった母親が獣医だったこともあり、向日葵は動物の世話や看病をすることにも慣れていた。


 だがそれ以上に向日葵は動物が大好きだった。


 もしあの鳴き声が捨て犬か捨て猫の呻き声だったのならば、聞いてしまった以上放っては置けない。


 向日葵は左足一本で雑木林の中に入っていく。


 あまり奥には行けないが、渚が松崎を連れて来てくれるまでの間ぐらい鳴き声の主を探してみようと向日葵は思った。


 しばらく近辺を探していた向日葵。


 すると――。


「…………」


 向日葵は呻き声の主を見つけた。


 けれど、咄嗟に言葉が出てこない。


 恐る恐る顔を近づけて間近で見てみると、呻き声の主が瀕死の状態だと分かった。


「……この子」


 ようやく向日葵が言葉を吐き出せたとき、遠くから徐々に近づいてくるスクーターのエンジン音が聞こえた。

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