魅惑の指先

伊藤沃雪

魅惑の指先

 まあ、なんて綺麗な指なの。

 貴方の手ってお人形さんみたいね。



 生まれつき美しい指を持っていた私は、手先についてしょっちゅう賞賛されて育った。そうして『手先が美しいと愛される』と信じ込んだ。




 大人になってからも、手先はとくに大切に保護している。仕事中は使い捨てのポリエチレン手袋を装着し、手洗いの回数は最低限にし、ハンドクリームは三十分に一回は塗布する。まんべんなく爪の間まで。重い荷物を持つと血管が浮き出てしまうので持たないようにし、携帯電話やマグカップなども負担を考えて指は使わない。色素がつく食べ物には触れない。


 帰宅後に手洗いをしたら、すぐに手全体のケアに入る。ぬるま湯に両手全体を漬けて数分待ち、柔らかくなった甘皮を押し上げてから除去していく。


 しかしこの瞬間、私にとって一番の誘惑が現れる。あれだけ丹精込めたケアをして、保湿を心がけているにもかかわらず、爪と指の肉のあいだに浮き上がる薄皮。まるで『お前ごときに自然の摂理を制することが出来ると思うな』と主張されているように、凛前とした佇まいで。


 何でだろう。私はこの薄皮が憎かった。そして愛情を傾けてもいる。儚く完璧で美しい、ガラス細工のごとき作品を無秩序に陥れる権化。それでいて、一片の欠けもない完成された世界観を乱し微笑んでいるようにも感じる。憎悪の対象でありながら蠱惑的な香りを放つ、小悪魔のようにも。


 私はこの悪魔と対峙するために、ピンセットを取り出した。本来ならば許されることではない。力の加減を少しでも誤れば、皮が根元まで裂けて大きな炎症となってしまう。そうと知っていて、私は抑えきれない興奮で口元を緩めている。ピンセットの先で慎重に薄皮を摘み、ゆっくりと引っ張っていく。鼓動が早まって頭の中にまで響いてくる。少しでも集中を逸してしまった瞬間、日々の努力が無駄になる。数日間は人前で手先を晒すことが出来なくなるだろう。


 蝸牛の如き速度で、ぴりぴり、と薄皮を剥いていく。ああ、何て緊張感。背筋を駆け巡る興奮。ゾクゾクと体内に満ちていく喜悦。この悪魔を排除できたら、私の作品は完璧となるのだ。誰しもが魅了される指の形、爪の美しさによって広告を彩り、商品達が売れていく。ファンタジー作品で剣を持った勇者のような気分に浸って、私はこのピンセットを握っている。


 しかし選ばれし者の剣は、悪魔だけでなく自身をも傷つける結果を招いた。


「……ああっ!」


 私は思わず叫んだ。一日一回の危険な愉しみは失敗に終わり、皮は大きく裂けて根本の指の肉を傷つけたのだ。私は猛烈な後悔に襲われた。これまで大丈夫だったからという油断で、むざむざと自傷してしまうなんて。これでは仕事にならない、すぐにキャンセルの連絡を入れなければ。


「……」


 傷ついた左の小指をじっと凝視する。確かに赤く腫れたけど、それでも美しい。彫刻みたいだ。手モデルの撮影でも、色々な映像を撮るけど十本全部が余すところなく映ることはまれだ。小指なんかは根本部分しか映っていないことも多い。残り九本だって、他と比較できないほどの完璧さを誇っている。少しくらい傷があったって構わないのではないか?


 赤い傷口をひたすら見ていたせいか、段々と愛着が無くなっていく。淡く優しい色合いの乳子のような肌色に、明らかに不釣り合いな痛々しい朱色。なんだこれ、汚いな。他が美しいだけに目障りに思える。まあ説明すれば分かってもらえるだろう。私は立ち上がり、ふらふらとキッチンヘと向かった。





 翌日、撮影現場に出勤する。ADスタッフに言われて手袋を外して見せると、スタッフが私の手を凝視して固まった。何が起きたか分からない、という顔だったので、笑顔で説明した。要らないかなと思って、と。スタッフの子が恐れ慄いて悲鳴をあげ、現場は騒然となった。様々なスタッフが入れ替わり立ち替わりにやってきて、口元を抑えて走っていったり、どこかへ電話をかけ始めたりする。何故だろうか、どうしたんだろう。と驚くばかりだった。






 それ以降、手モデルの仕事は何故か入らなくなってしまい、私の収入は減った。何とか別の仕事で食い繋ぎつつ、相変わらず手先は大事に大事に扱っている。どうして私の作品の完璧さを理解できないのか、不思議で仕方ない。いずれ誰かが必要とするだろうと私は確信していて、一日のほとんどをケアに費やしている。これから一日一回の愉しみを味わうため、ピンセットを手に取る。手指の数は、六本まで減っていた。

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魅惑の指先 伊藤沃雪 @yousetsu

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