第39話 世界秩序の崩壊

「ヴェルフェン・ヴァッサー!」

 とっさに魔法を唱えて激流を出現させたが、一瞬で闇に飲み込まれてしまった。

「シュンケル・ドゥンケルハイト――まったく、往生際が悪いですね」

 と、ウルリヒがこちらをにらみ、オレは震える声で言った。

「ど、どうしてだよ? どうして、世界を壊す必要が……」

 二人が呆れと怪訝けげんの混ざったような顔をする。

「どうして、とは愚問ですね」

「しょうがないよ、ウルリヒ。彼はボクたちとは違うんだ」

「そうでしたね、坊ちゃま。冥土の土産に教えてさしあげましょう」

「うん」

 ウルリヒが石版を頭上高く放り投げた。

「ボクはね、小さな頃から見えない子なんだ」

「ドゥンケルハイト」

 闇の魔法が石版を打ち砕く。

「パパとママはずっと小さい時に死んじゃった。もう顔も覚えてない」

 石片がぱらぱらと地面へ落ち、ウルリヒがふうと息をつく。

「ルーペルト坊ちゃまは親戚しんせき中をたらい回しにされ、どこにも居場所がなかったのです」

「ウルリヒだけがボクの味方だった。ウルリヒだけがずっとそばにいてくれた」

「理不尽と不公平にまみれた世界など、坊ちゃまにとっては苦痛でしかありません」

 怖いくらいに静かな夜だった。

「それじゃあ、お金は……」

「お金? ああ、愚民どもを買収したお金のことですか。いいでしょう、闇属性は死の力です。坊ちゃまのために、私が暗殺業で荒稼ぎさせていただきました」

「誰も猫に殺されるなんて思わないからね」

 最悪だ、最低最悪なやつらだ――!

「くそったれが……簡単に人を殺すんじゃねぇよ」

 小さな声でヘルマンさんが言い放ち、先生も口を開く。

「そんな風だから、居場所ができないんだよ……」

 ウルリヒが呆れたようにため息をついた。

「そんな風にしたのはこの世界です。これほど明確な因果関係をご理解いただけないなんて、実に残念ですね」

 ヘルマンさんと先生が低くうめいた。どうやら攻撃されたらしく、オレは慌てて地面へ膝をつく。

「先生っ」

 彼は体のあちこちから出血しているようだった。冷静に治癒できる余裕などもうなく、オレはただ彼を呼び続ける。

 気付けばベルナルトさんの声が聞こえなくなっていた。彼も意識を失ってしまったようだ。

「いいなぁ、できればボクも君たちみたいに生きたかったよ。でも、できないんだからしょうがないよね」

「坊ちゃまが幸福になれない世界など、私にとっても許しがたいのです。お分かりいただけましたか?」

 分からない、分かるわけない。

 顔を上げて彼らをにらむ。

「そんなこと言われても、知らないんだから、分かるわけないじゃないか!」

 怒っているつもりなのに涙声になってしまった。二人はおかしそうに笑った。

「あはは、そうだよね。誰もボクたちのことなんて知らない、見えてないんだ」

「見えないことは存在しないも同じ。私たちでなければ、世界秩序の崩壊は成し遂げられなかったでしょう」

 唐突に雷鳴が響き、オレはびくっとして空を見上げた。

「あ、ああ、空が……っ」

 夜の闇がいっそう濃くなって、遠くで雷が光る。空気が湿っぽくなり、いつ雨が降り出してもおかしくない。

「もう終わりだ、もう……全部」

 ――やっと先生のこと、父さんって呼べそうだったのに。

「みゃああああああー!」

 唐突に聞き慣れた鳴き声がし、辺りが強い光に照らされた。

「えっ、リーゼル!?」

 オレの目の前に立ったのは白い魔猫だ。

「リーゼルも純血みゃ! 光の精霊の純血みゃ!!」

「しゃべった!?」

 いやいや、それどころではない。リーゼルが光の精霊の純血だなんて知らなかった!

「待て、どういうことだよ!?」

「そのままの意味みゃ。あっちは闇の精霊の純血みゃ」

 はっとして視線を上げる。ウルリヒとルーペルトは苦い顔をしていたが、じわじわと光が弱まっていき、ついには消えてしまった。

「リーゼルはまだ子猫だから、力が弱くて勝てないみゃ」

「だったら出てくるなよ!」

 慌てて彼女を抱き上げるとリーゼルはオレを見上げながら言った。

「見ていられなかったみゃ。フロレンツも、ハインツも、リーゼルの大事な家族みゃ」

「っ、リーゼル!」

 そうだった、オレたちは家族だ。

「殺すまでもないようです。行きましょう、ルーペルト坊ちゃま」

「うん、そうだね」

 男が猫の姿へ戻り、少年とともに歩いていく。

「待てよ! 君たちも家族なんだろう!?」

 一人と一匹が立ち止まる。

「オレは君たちのことを知らないから、助けることもできなかった。だから否定はしない、それでいいよ。君たちはそれでいい」

 家族にはいろんな形がある。オレと先生とリーゼルのように、血がつながっていなくても。

「でもさ、オレにも家族がいるんだ。他の人たちにも家族がいて、みんなそれぞれに生きてるんだってこと、どうか軽んじないでくれよ」

 精一杯の泣き笑いで伝えるが、ルーペルトは冷めた声で言った。

「違うよ、お兄ちゃん。ボクは誰にも家族として見てもらえなかった」

「坊ちゃまと私は主従関係。家族などという曖昧あいまいな言葉でくくれるほど、薄っぺらいものではありません」

 ああ、彼らとは根本的に理解し合えないんだ。

「それにね、お兄ちゃん。ボクは死にたいんだよ」

「最期は決まっているのです。坊ちゃまを殺して私も死ぬ、これ以外の結末は存在しません」

「……そ、っか。ごめん、ごめんな」

 オレは幸せだった。今の今まで気づかなかったけど、オレは先生に引き取ってもらえてとても幸せだったんだ。――ああ、あの日々に戻りたい。何もなくとも穏やかで楽しかった日々に。

 こらえきれずに涙があふれ、天から雨粒がぽつぽつと降り出した。

「遅くなってごめんなさい、ハインツ」

 絶望するオレの前に現れたのは、水の精霊様だった。

「精霊様!」

 彼女は一人ではなかった。他にも見たことのない精霊たちが並んでいた。

「おいでなさい、闇よ。あなたが彼らをそそのかしたのでしょう?」

 と、一際強く光を放つ精霊が前へ出ると、ルーペルトたちの背後から闇の精霊が現れる。

「ああ、会いたかったぞ。光よ」

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