第38話 最後の石版

「え?」

「相手は魔猫、精霊だ。闇の魔法を使ってる」

 そんなものがあるなんて知らなかった。しかし人間には使えないだけかもしれない。

「この暗闇では見えない。猫の姿だとますます見えない」

「もしかして……いや、彼らこそがウンズィヒバー!?」

 やはり先日逮捕されたのは偽物だったのだ! 本物の不可視ウンズィヒバーは目の前にいる。

「アロイス、世話をかける」

「死ぬまで付き合うよ」

 と、ベルナルトさんへ治癒魔法をかけながらアロイスさんが返した。

 オレは先生の後ろに移って石版を鞄ごと強く胸に抱く。

 ヘルマンさんが相手をしているが、ウルリヒは一向に姿を見せない。人数はこちらの方が多いのに、明らかに不利だった。

「光があれば……」

 と、立ち上がるのはジークさんだ。

「闇は死、光は生。光の魔法があれば相殺そうさいできるはずよ」

 そう言われても光属性なんて知らない。オレは無論だが、先生だって使えないものだ。

 ベルナルトさんも立ち上がり、またみんながオレの前へ出る。アロイスさんだけが隣に立ち、言った。

「ハインツ、治癒魔法はハイルングだ」

「え?」

「オレがダメになったらみんなを頼む」

 まるで今後の展開を予想しているかのような物言いに、胸の中で不安が大きくなる。ハイルング・ヴァッサー、覚えておかないと。

 先生が深呼吸を一つしてから言った。

「ヘルマンさん、焼いてもいいですか?」

「やめろ! この家建てるのにいくらかかったと思ってる!?」

「ですよね。となれば……」

 両手を前へ突き出して先生が唱える。

「ヴェルフェン・ヴィント!」

 音を立てて強風が巻き起こり、草や木が揺れ動く。中でも動くまいとしている黒い物体を見つけ、すかさず二つ目の呪文を。

「ミッシュン・ラント!」

 風に乗った地面の砂や石がウルリヒを襲う。混成魔法だ!

「シュルケン・ドゥンケルハイト!」

 だが、一瞬にして先生の魔法は消されてしまった。

「なんて魔法だ……」

 驚く間もなくウルリヒが再び動き出す。目で追おうとしても、闇に紛れられてしまってはどうしようもない。

 にわかに敷地の外が騒がしくなり、ヘルマンさんが叫んだ。

「周辺住民を避難させてくれ! ここは戦場になる!!」

 見回りをしていた警察か兵士か分からないが、すぐに指示を受け取った人たちが行動を開始する。

 さすがは大佐だ、的確な指示だった。しかし、彼を嘲笑あざわらうかのようにウルリヒの声がする。

「ヴェルフェン・ドゥンケルハイト」

 とっさにヘルマンさんと先生が横へ避けるが、ダメージを受けてしまったようだ。アロイスさんが駆け出し、ベルナルトさんは苦虫を噛み潰す。

「くそ、厄介だな」

「それでもやるしかない」

 ジークさんの頼もしい言葉にはっとして、オレは先生の元へ駆け寄った。

「先生っ」

 彼は左腕を押さえており、どうやら出血したらしかった。

 アロイスさんは先にヘルマンさんを治癒しており、オレはさっき教わった言葉を口にした。

「ハイルング・ヴァッサー」

 オレの手からあふれた水が先生の左腕の傷をふさいでいく。

「すごいな、ハインツは」

 と、先生がにこりと笑った直後、ベルナルトさんとジークさんの悲鳴が響く。

「うわあ!」

「きゃああっ!」

 振り返ると、二人とも吹き飛ばされて地面へ倒れていた。

 すぐにアロイスさんが向かうが、これでは彼の身がたない。だからオレに呪文を教えたのかと納得する暇もなかった。

「ドゥンケルハイト」

 隙だらけになったアロイスさんの背中が狙われた。ジークさんの元まであと少しというところで倒れ込む。

「うっ、ぐ……」

「行かなきゃ」

 と、駆け出そうとしたオレの腕を先生がつかんだ。

「ダメだ! やつらの狙いは君なんだぞ!」

「で、でも……っ」

 治癒できる人がいないと終わってしまう。

「僕から離れるな!」

 そ、そうだった。離れたらダメだ。先生がオレを守ってくれるんだから。

 しかし納得が行かず、石版をぎゅっと胸に抱く。もう嫌だ、どうしてこんな――。

「大人しく石版を渡してくれたらいいんだよ」

 後ろから声がして振り返ると、あの少年が少し離れたところからオレを見ていた。

「そうでなきゃ、お兄ちゃんの大事な人たち、みんなウルリヒが殺しちゃうよ?」

 ヘルマンさんと先生は再び戦闘へ復帰し、ウルリヒの姿を目で探している。

 ベルナルトさんがかろうじて起き上がり、よろけつつアロイスさんの治癒へと向かう。

 ジークさんは気を失ってしまっているらしく、ぴくりとも動かなかった。

「そ、んな……何で、どうしてこんなひどいことを」

 悲しみで胸が張り裂けそうだ。

 オレよりいくつか年下のはずなのに、少年は不似合いな冷たい声をして言った。

「この世界がどんな風に終わるのか、見てから死にたいんだ」

 オレの背後でヘルマンさんが、先生がやられて地面へ膝をつく。

「くそっ、まだだ……」

「まだやられるわけには……っ」

 圧倒的に不利な状況でベルナルトさんが叫ぶ。

「軍医少将! しっかりしてください、軍医少将!!」

 ああ、間に合わないんだ。ここでみんなが負けるのは、最初から決まっていたんだ。それならせめて、先生とヘルマンさんだけでも助けなきゃ。

「分かった……石版を渡すから、どうかこれ以上は」

 鞄から石版を取り出して少年へ差し出そうとしたら、先生の声がした。

「ハインツ!」

 止めようと腕を伸ばした彼が目の前で崩れ落ちた。

「先生……?」

 振り返るとヘルマンさんもいつの間にか倒れていた。立っているのはオレだけだ。

「あっ」

 手から石版が奪われ、人の姿になったウルリヒが主人のそばへと戻る。

「坊ちゃま、これが最後の石版です。これですべて終わりになります」

「ふふっ、楽しみだね」

「ええ」

 世界の終わりを前にして微笑み合う二人が怖かった。どうして世界を終わらせようとするのか、微塵みじんも理解できなかった。

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