第26話 聖地

 しかし、いまいちその気になれなくてうつむいた。

「でも、聖地って遠いですよね。たしか、ウェンベルンみたいに国境の方だったような」

「ああ、そうだね。馬車だと一日がかりになるだろう」

「遠くに行くのはなんて言うか……慣れてなくて」

 オレはイシュドルフに来てから、街の外へ出たことが数えるほどしかなかった。そのどれもが宝石の仕入れについて行っただけであり、日帰りだった。

 するとベルナルトさんは声をやや大きくして言った。

「それなら、なおさら行くべきだよ! ハインツは若いんだから、今のうちから外の世界を知っておくべきだ」

 そんな風に言われると思っていなかったオレは、思わず目をぱちくりさせてしまった。

「聖地に行けば一族のことが何か分かるかもしれない。僕と君にとって、何か有益な情報があるかもしれないよ」

「そ、そうですかね」

「いや、もちろん何もないかもしれない。でも、聖地には石版がある」

 はっとしてオレは顔を上げ、聞き返した。

「石版って、神話で精霊たちが世界の約束事を記したっていう、あれですか?」

 ベルナルトさんは力強くうなずいた。

「ああ、それだよ。おそらくは水の精霊が持っているはずの石版だ。言い換えると、聖地に行けば水の精霊と会えるかもしれないってことだよ」

 気持ちが揺らいできた。水の精霊に会えるのなら行ってみたい。

「どうだい? 僕たちの先祖である水の精霊と、会ってみたくはないか?」

「う、うぅん……」

 困ってしまって視線をそらす。

 会いたくないと言えば嘘になるが、会いたいと言えば聖地へ行くことが決まってしまう。アロイスさんやジークさんがそこまで許可してくれるかどうかは分からないし、リーゼルを置いていくのも不安だ。

 すると門が開く音がして、二人同時にそちらへ目を向けた。帰ってきたのは紙袋を一つ抱えたジークさんだ。

「あら、ベルナルト。来てたのね」

「ええ、昨日はハインツと話ができなかったので」

 と、ベルナルトさんがにこやかに返し、こちらへ来た彼女が問う。

「何の話をしていたの?」

 他愛もない世間話の質問だったが、ベルナルトさんは正直に返した。

「聖地へ行きたいという話を」

「えっ、聖地?」

「はい。できればハインツを連れて行きたいと思って――」

 がさがさと紙袋からジークさんが本を取り出し、オレたちへ表紙を向けて差し出した。

「ちょうど、あたしもそう思っていたの!」

 どうやら聖地に関するガイド本のようだ。

 ベルナルトさんが喜び勇み、立ち上がって彼女へ言う。

「ブリッツェ博士、ぜひ僕も連れて行ってくれませんか!?」

「もちろんよ! ハインツもぜひ行きましょう」

 と、ジークさん。目が爛々らんらんと輝いていて、これはもう決まりらしいなと悟る。

「詳しいことは中で話しましょう」

「はい」

 二人が玄関へ向かって歩き出し、オレはやれやれと息をついてから立ち上がった。ジークさんが一緒なら、きっとアロイスさんも許可してくれることだろう。


 夜、お酒を飲みながら話をしている二人から少し離れ、オレはリーゼルとリビングにいた。

 ソファに座ってジークさんから借りた本を読み、聖地に関する情報を頭に入れていく。

「聖地とは枯れることのない豊かな土地。その中心には古代の遺跡や塔が建っており、精霊の加護を受けた地として不思議な力により、遥か昔から守られている……だってさ。リーゼル、不思議な力って精霊の力とは違うのかな?」

 隣で丸まっている魔猫に話しかけるが、適当にしっぽを振られるだけだった。

 仕方なくオレは先を読み進める。

「かつてはどの国も聖地周辺に街を築き栄えていたが、幾度もの領土争いが起き、現在は国際条約で聖地周辺に人が住むことを禁じている。場所によっては、人が踏み入ることさえ許されない禁足地となっている」

 世界各地に聖地と呼ばれる場所があるのは知っていたが、禁足地にまでなっているのは知らなかった。

 ページをめくると目次があった。火の聖地、土の聖地、風の聖地、水の聖地、最後は光と闇の聖地の項目になっていた。

「光といえば、オレたちを生んだ万物の母だし、闇は万物の父だよな」

 彼らに関する聖地も存在したのか。いや、でもそれなら何で光と闇の聖地なんだ? 同じ場所なのだろうか?

「でも、光の精霊なら小さい光の方か。あれ、それなら闇の精霊も……?」

 妙な違和感を覚えるオレだったが、具体的に何が変なのかははっきりしない。

 もやもやしたまま、目下の目的地である水の聖地のページを開いた。

 見出しのそばに描かれた挿絵は塔だった。その形には見覚えがあり、思わずじっと見てしまった。

「……この塔、知ってる」

 聖地には行ったことがないはずだが、記憶が覚えているという。もしかしたら幼い頃、行ったことがあるのかもしれない。

「でもウェンベルンからは離れて……いや、違うな」

 さっきのページへ戻り「国際条約」の文字を確認する。聖地周辺に人が住むことを禁じたのは何年前だ? オレが生まれるより前であれば、一族が聖地を離れてウェンベルンに移り住んだのだと推測できる。

「そうか。やっぱりオレ、聖地に行ったことがあるんだ」

 と、確信めいたものを感じて口にした。

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