二:虎に睨まれた鯉
永禄九年四月末、夜。駿府の今川館の中庭に、氏真の姿はあった。
政務から解き放たれた氏真が熱中していたのは、
氏真がこんな時間に蹴鞠の練習をしていたのは訓練を怠れば感覚が鈍り技術が落ちるのもあるが、何かに熱中して気を紛らわしたい思いが強かった。
(
思い出しただけでも腹が立ったのか、眉根を寄せる氏真。
去る二十一日、氏真は
この造反は長年に渡り
今回の一件で遠江国内の不満分子を一掃し今川家の統治をより強固なものにしたと好意的に受け止められる。そう考えれば決して無駄だったとは言えない。しかしながら、決して楽観的に捉えられない事情があった。
(元康ならまだ分かる。それより気になるのは、やはりあの入道よ)
敵となった家康よりも
その人物とは――同盟を結ぶ甲斐国・武田家の当主であり、氏真の妹の舅でもある武田“徳栄軒”信玄。通称“甲斐の虎”。父の義元と同じく、名門守護大名から戦国大名へ変貌を遂げた傑物である。
武田信玄。
武田家は
天文十年〈一五六一年〉六月、義元に嫁いだ娘へ会いに行き甲斐へ帰って来た信虎を、国境を封鎖。
晴信も信虎の領土拡大方針を継承。中小勢力が
信濃国内で勢力圏を北上し続ける武田家を脅威と捉えていた景虎は、信濃の国人衆からの要請を受けて秘かに支援。しかし、進軍を食い止めるに至らず景虎自ら出陣する事を決断した。同年八月には川中島の地で両雄が相対すも、衝突は起きずお互いに兵を
こうした状況の中、水面下である計画が進行していた。甲斐・武田、相模・北条、駿河・今川の三者による同盟だ。
前述したように信濃から越後へ勢力を伸ばしたい信玄、関東制覇の実現へ邁進したい氏康、悲願の上洛へ向け三河掌握に注力したい義元。この三者の思惑は奇しくも重複しておらず、叶うならば敵に回したくないのが偽らざる本音だった。そして、力関係もほぼ互角で均衡が取れていた事も好材料だった。三者の利害が一致していた事を受け、信玄の軍師・山本“勘助”
条件は二つ。第一に、お互いの不可侵と誰か
尚、同盟を結ぶに際し“三名が駿河・善徳寺(若しくは興国寺)で顔を揃えて会談した”という逸話があるが、それを裏付ける史料は現在のところ発見されてない。
後顧の憂いを絶った信玄(永禄二年〈一五五九年〉に出家)は信濃全土掌握を目標に何度も出兵、永禄七年までに上杉
その信玄。上杉輝虎との死闘もあり信濃全土の掌握は断念せざるを得なかったが、別の方面への勢力拡大を目論んだ。信濃の西・飛騨へ介入したり、上杉勢の関東侵攻で敵の手に落ちていた西
永禄六年に起きた遠州忩劇の折、反旗を翻した一部の遠江国人に武田家から内々に支援を匂わす密書が送られた、とされる。物証は押さえておらず武田家へ抗議の申し入れこそ出来ないが、明らかな背信行為だった。氏真が何より口惜しく思っているのは、父存命時は今川家の勢力圏を掻き乱す事は一切無かった信玄が、代替わりした途端に手を伸ばしてきた事である。表では手を取り合っていても裏では激しい
信玄の今川軽視の姿勢はさらに強めていく。永禄八年〈一五六五年〉十月、跡継ぎで嫡男・義信の
(あの飢えた獣のような入道にとって、駿遠はさぞかし美味そうに映っているに違いない。
自分が舐められていると思うと怒りが込み上げてくる。無意識の内に力が入ってしまい、僅かに捉え損ねた鞠は真上ではなく斜め前へ飛んで行く。放物線を描いた鞠を、氏真は追いかけようとはしなかった。当主としても、蹴鞠の技術にしても、まだまだ自分は未熟だ。しかし、鞠を蹴る回数を重ねていけば技術は上達していく。自分はまだまだ発展途上、
強い決意を胸に誓い、地面に転がった鞠を拾いに踏み出す。その足取りは見た目以上に荒々しかった。
武田家と今川家の関係は表面上穏やかに見えたものの、水面下では日を追う毎に冷却していった。両家はお互いに家臣を通じて『疑う事や疑わしい事はしませんように』と申し入れているが、それも相手への牽制にしかならなかった。。
そして――永禄十年〈一五六七年〉六月、氏真は遂に決定的な行動に打って出る。北条家へ内々に協力を仰いだ上で、甲斐国へ食塩や海産物の搬入禁止措置を執ったのだ!! 武田家は領有する国全てが内陸部にあり、海に面していないが故に塩は他国からの輸入に依存していた。塩は生活に欠かせない必需品、無いからといって摂取しなければ健康を害する恐れがある。当然ながら戦に出る際も携行するので、このままでは戦も出来ない。唯一の泣き所を攻められ、流石の信玄も頭を抱えた程だった。
しかし、思わぬ方面から救いの手が差し伸べられる。越後から国境を越えて塩商人が入ってきたのだ。これにより塩を入手する方法が確保され、一先ずは危地から脱する事が出来た。この逸話から『敵に塩を送る』の
思わぬ救世主の登場で武田家を締め上げる事に失敗した氏真。この一事をキッカケに、義信廃嫡に端を発した関係悪化は、いよいよ修復不可能なところまで来ていた。
永禄十年十月、東光寺に幽閉されていた義信が病死。享年三十。義信の正室で氏真の妹・
氏真も悪化していく状況を座視していた訳ではない。迫り来る脅威に備え、出来る限りの事はしようと動いていた。盟約を結ぶ北条家との関係強化を図るのと平行し、強力な勢力に接触を試みていた。――越後の上杉輝虎である。輝虎は関東
結果が見えないまま月日だけが過ぎていき――永禄十一年〈一五六八年〉十二月六日、信玄は一万を超える軍勢を率いて駿河国を越境。今川領へ侵攻してきたのだ!!
(遂に、この日が来たか)
一報を聞いた氏真に、驚きは一切無かった。甲斐国内で戦の機運が高まっている兆候は事前に掴んでおり、その矛先もこちらに向けられると覚悟はしていた。そして、侵攻を想定した準備も内々に進めてきた。
「北条へ直ちに援軍の要請を。それと、
氏真は冷静沈着に命じる。
甲斐方面から今川家の本拠である駿府へ攻め入るには薩埵峠を通る経路しか存在しない上に、山が海にせり出す地形である為に東海道の三大難所に数えられる程の
事前の想定通り、武田勢は南下した後に進路を東へ転換。十二日には薩埵峠へ差し掛かった。ここに今川勢一万五千が待ち構え、攻防戦が開始。氏真も後詰で
しかし――ここで氏真に思いがけない報せが飛び込んでくる。
「……寝返り、だと?」
戦いが始まって暫くし、一部の将が手勢を率いて戦線から離脱。そのまま武田方の陣へ入っていったというのだ! 薩埵峠の今川勢は大混乱に陥り、防衛線を易々と突破されてしまった。薩埵峠を越えられては駿府まで
行き場を失った氏真は腹心が守る掛川城を目指したが、こちらにも敵の手が迫っていた。時を同じくして、三河の徳川家が遠江へ侵攻を開始。遠江方面でも事前に調略の手が伸びていたのか国人衆が次々と降伏し、今川方の城も成す術なく落とされていた。
氏真が上杉家へ接触したのと同じように、信玄もまた内々に準備を進めていた。徳川家との間で今川領を山分けしないかと持ち掛け、家康もこれを了承したのだ。それと平行して今川家内部へ調略を仕掛け、一定数の家臣達から内応の受諾を得ていたのだ。武田家と今川家の戦いは、駿河へ侵攻する前から既に決まっていたも同然だった。
掛川城へ落ち延びた氏真は朝比奈泰朝に迎え入れられ、徳川勢と対峙した。しかし、今川領は既に大部分が武田・徳川の手に落ち、助けが望めない孤立無援の状態にあった。半年以上の籠城戦の末、勝ち目は無いと判断した氏真は永禄十二年〈一五六九年〉五月十七日に将兵の助命を条件に徳川方に降伏した。これにより、今川家は全領土を喪失。
名門・今川家は滅亡の時を迎えた。
城を明け渡した氏真は、妻の実家である北条家の領地である伊豆へ船で送られる事となった。
東へ向かう途上、氏真は館から何とか持ち出した鞠を手に大海原を見つめていた。
(終わった……何もかも……)
一応、開城する折に『武田勢を駿河から追い払ったら、駿河国を氏真へ返還する』約束を氏真・家康に氏康を加えた三名の間で取り交わしている。しかし、それが履行されるとは思わない。命懸けで奪った土地を何の苦労もしていない他人に譲るなんて話、聞いた事がない。
自分は結局、父のようになれなかった。父のようになれなくても、今川家を守る事は出来ると思っていた。けれど、それも叶わなかった。脈々と受け継いできた土地を全て失い、父を始めとする先祖に顔向け出来ない。
今更こんな鞠を持っていたところで、何になるのか。腹を満たせる訳でもないし、金に換える事も出来ない。荷物になるくらいならいっそ捨ててしまおうか。そういう考えが一瞬
海へ
(……いや、終わってない。終わってないではないか)
直後、捨てようとしていた鞠を大事そうに抱え込む氏真。
命ある限り、挽回の余地はある。約束は履行されないかも知れないが、
叶うかどうか分からない大望の為に生きていくのは大変だし、苦しい筈だ。それを耐える為には何が必要か。……誇りである。名門・今川の血筋、磨いてきた技術、これまでの生涯で得てきた知識。何物にも替え難い
たった一度の失敗に、負けてたまるか。氏真は決意を燃やし、東の方角へ強い視線を送り続けるのだった。
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