三:俎板の上の鯉

 持て余す程の時間が与えられても、氏真は苦に思った事は一度も無かった。

 蹴鞠の練習をするなら鞠と靴があれば出来る。歌をむのであれば筆と墨・すずり、それに紙があれば済む。歌に限って言えば、別に物が無くても頭の中で詠めばいい。

 金が掛からない趣味を持っていた事は、氏真にとって救いだった。今置かれた状況や見通しの立たない将来の事から気をまぎらわしている間だけ、くさくさする気持ちが幾分和らぐから。

 元亀げんき二年〈一五七一年〉十月。掛川城を退去してから二年の歳月が過ぎたものの、氏真はままならない日々が続いていた。

 伊豆へ送られた氏真は駿河国境に近い大平城を任された。北条勢も武田家との同盟を破棄した上で駿河で抵抗する旧今川家臣の支援や東駿河へ侵攻するも、その中に氏真は含まれていなかった。一時は駿府を武田家から奪還するなど駿河国内で優位に立つも、次第に武田勢に押され駿河の東端周辺にある幾つかの拠点を保持する所で落ち着いた。そうした情勢もあり、氏真は大平城城主を解かれ、現在は小田原の近くにある早川ごうの屋敷で暮らしていた。

 伊豆へ着いて暫く経った永禄十二年五月二十三日、氏真は北条家当主・氏政うじまさの嫡男・国王丸(後の氏直うじなお)を猶子ゆうしに迎え、国王丸が成人した暁には駿河を譲る旨を約束させられた。これにより今川家は北条家へ事実上吸収され、先日取り交わした約定が履行されたとしても駿河国は北条のものになる事が確定された。永禄十一年当時の駿河侵攻で心ならずも武田家に屈したものの今川家再興の折には復帰する事を考えていた旧臣も少なくなかったが、時間の経過が進むにつれて望みが薄くなるにつれて武田家に降伏したり北条家や徳川家に臣従する者、他家へ仕官する者などが出始めた。氏真と行動を共にしていた家臣の中にも生活の為に側を離れる者も居たが、北条家に居候いそうろうさせてもらっている身で忠義に釣り合うだけの報酬を支払えないので致し方ないと氏真は考えていた。離れていく家臣に怒りを覚えるどころか、申し訳なく感じていたし自分の力不足を痛感していた。

 目標と現実の乖離かいりに身が焼かれる思いで無為むいの内に月日が過ぎていたが――氏真の元に局面が大きく変わる報せが届いた。

「そうか……岳父がくふ殿が亡くなられたか……」

 その報せを聞いた氏真は肩を落とす。

 氏真の妻の父で“相模の獅子”の異名で呼ばれた北条氏康が、去る十月三日に死去した。享年五十七。武田信玄や今川義元・上杉輝虎など戦国乱世の申し子達を相手に一歩も引かず、北条家悲願の関東制覇へ向けて大きく前進させた偉大な三代目だった。

 氏康の死去を受け、北条家は外交方針の転換を迫られた。駿河侵攻で手切れとなった武田家とは上野国の領有権もあり敵対関係にあったが、それはひとえに進言と互角に渡り合えるだけの器量を持つ氏康が居たからこそ出来た話。跡を継ぐ氏政は氏康よりも器量面で劣り、老獪で戦上手な信玄を相手に張り合うのは難しい。領土拡大の野心が衰えない信玄と対決するのではなく、協調する方向に舵を切らざるを得なくなった。

 北条家の外交方針転換は、氏真にも関係のある話だ。氏康から見れば婿むこに当たる氏真の旧領回復に出来得る限り協力してきたが、氏政にしてみればそこまで尽くす義理は無い。駿河へ侵攻する意義や利益よりも損が大きい以上、今川家再興の後押しは北条家から今後見込めないと考えていいだろう。

 今川家を滅ぼした仇敵と手を結ぼうとする氏政に、氏真は止むを得ないと思っていた。代替わりすれば家の方針も変わる、ただそれだけだ。身の丈に合わない運営をすれば御家を滅ぼす原因に繋がる。実際、氏真がそうだった。父が築いた版図や体制を何とか維持したい、その想いが強過ぎたが為にくしの歯が欠けていくように今川家は衰退していってしまった。食わせてもらっているだけでも有難いのだから、抗議など出来るものか。……ただ、寂しくは思う。

 今川家再興の夢に唯一の寄るだった氏康の死で完全についえ、厳しい現実を突き付けられて失意に沈む氏真であった。


 氏康の死後も追い出される事なく北条家の庇護ひごの下で暮らしていた氏真だったが、天正てんしょう元年〈一五七三年〉に転機が訪れる。

 大いなる後ろ盾を失い北条家中で宙に浮いた存在の氏真を引き取ろうと申し出てくれた人物が現れたのだ。

 その人物とは――徳川家康。

 武田家と結託して遠江へ侵攻し、今川家滅亡のトドメを刺した張本人である。

 氏真にとって仇も同然の相手であるだけに、周囲はざわついた。それでも、徳川家から書状が届いたと北条家の者から伝えられた際、氏真は感情をあらわにする事もなく平然と受け取った。

 中をひらいてみれば、家康自ら筆を執ってしたためられていた。内容は、『浜松へお招きしたい』旨を丁寧な文面で記されていた。

 目を通し終わった氏真は静かに書状を畳むと、周囲の者に落ち着いた口調で告げた。

「我等、徳川の招きに応じて浜松へ移る」


 徳川家が用意した船で小田原から浜松最寄りの港まで海路を移動。港から浜松まで陸路を進むのだが、妻の早川殿や今川家旧臣など少ない人数にも関わらず警護の兵がかなり多かったのが氏真は印象に残った。

 天正元年八月。浜松に到着した氏真は家康が本拠を構える城へ案内された。大広間で面会の手筈が整えられていたが、氏真が通されたのは当然ながら下座。その扱いを氏真は不思議なくらい自然に受け入れられた。

 高座こうざは空席のまま。そこへ座る人物の到着を、板敷の床や竹や松など武骨に植えられている庭などを眺めながら待つ。

 そして……廊下から足音が近付いてきた。氏真はスッと頭を下げる。

「お待たせ致し、申し訳ない」

 開口一番に待たせた事を詫びる相手。相手の着座を確認し、ゆっくりと頭を上げる氏真。

「こうして顔を合わせるのは何時いつ振りになりますかな?」

「永禄三年に駿府でお会いして以来でしょうから……かれこれ十三年になりましょうか」

 訊ねられた氏真は穏やかな口調で答える。へりくだった言い方は自分でも出来るか会見前は不安だったが、思いの外に抵抗なくスルリと出てくれた。

 顔を上げた先に座っていたのは、家康。十三年前は常に緊張しおびえていた若武者は、英気が滲み自信が浮かんでいた。それどころか、三遠の二ヶ国を治める大名に相応しい貫禄を漂わせている。

 ただ、今日こんにちに至る道のりは決して平坦とは言えなかった。

 一向一揆で家中を二分する内乱を鎮圧した末に三河統一を成し遂げ、武田家と結託して遠江の大部分を手中に収めたまでは良かった。しかし、武田家は事前の取り決めに反して境界線を越えるなど隙あらば掠め取らん勢いに徳川家は将来的な衝突は避けられないものと想定した。そして……元亀三年〈一五七二年〉十月、足利義昭の要請に応じる大義名分を掲げ、武田信玄は大軍を率いて上洛戦を開始。美濃や奥三河へ別動隊を派遣しながら信玄率いる本隊は遠江へと侵攻してきた。武田家の強さを知る遠江・奥三河の国人達は次々と降伏。同盟を結ぶ織田家へ救援を求めるもその織田家も四方を敵に囲まれ援軍を出せる余裕が無く、三千を送るに留まった。

 武田勢が本拠・浜松城へ迫り、危機感を募らせる家康。だが、武田勢は浜松城を素通りする構えを見せられ「舐められてる!」と激昂した家康は出撃し決戦に臨む事を決定した。斯くして始まった徳川・織田連合軍と武田軍の戦いは――惨敗。多くの将兵を失い、家康はう這うのていで浜松城へ辛くも逃げ込んだ。

 後に“三方ヶ原の戦い”と呼ばれる戦で徳川家は甚大な損失を受け、滅亡間近……徳川本貫の地である三河も武田家に侵食され、岡崎城も目前に迫られ絶体絶命の状況で、誰もが驚く出来事が起きる。年が明けた元亀四年〈一五七三年、同年八月に“天正”へ改元〉一月、信玄率いる武田本隊は突如進路を北へ変え、甲斐へ帰る動きを見せたのだ。少し後に分かった事だが、この時信玄は重い病を患っていて甲斐へ戻る途上で死去したという。存亡の瀬戸際まで追い詰められた徳川家は危地から脱し、武田の手に落ちた領地の奪還に動き出した。信玄死去後の混乱に乗じて三河全土と遠江の大部分を取り返し、駿河へも侵攻。逆境を乗り越えて一回り成長した家康は戦国大名として自他認める存在になっていた。

「……正直、恨み言の一つや二つ言われるかと覚悟しておりました」

 氏真の表情を確認し、ホッとしたように打ち明ける家康。嘗ての主君筋に当たる人物を迎え入れるのは相当神経を使っているのだと伝わってくる。

「いえ。三河守みかわのかみ(家康の官名)様には行き場のない私をこうして招いて下された事に感謝こそすれど、恨むなんてとてもとても」

 家康の言葉に氏康は首を振って否定する。その様はおもねりや卑屈さは微塵みじんも感じられず、純粋に思っている事を口にしている風に捉えられた。実際、氏真も嘘偽りや誇張など一切しておらず、本心だった。

 主君だった立場の者が過去家臣だった者と立場が逆転する例は、戦国の世において少なからず存在する。摂津の池田知正ともまさは家臣の荒木村重が下剋上で知正を追放し、荒木家の家臣になり名前を荒木“久左衛門きゅうざえもん”と変えている。

 掛川城を明け渡し今川家が滅亡した四年前の氏真だったら、かつての家臣だった家康へ皮肉や呪詛じゅそを投げつけたであろう。足利将軍家の継承権を有する名門の矜持もあったし、その昔は今川家の支えが無ければ戦国乱世の荒波に呑まれ海の藻屑と消えていたであろう従属的な扱いの家の者に“頭を下げられるか”と反発する心もあった。けれど……全てを失い、御家再興も絶望的な状況で、全てを受け容れる精神が氏真に備わった。それは矜持や尊厳をかなぐり捨てた自暴自棄なものではなく、今川家の看板と血筋を保ちながら余計なものを取捨選択して辿り着いた境地と表現すればいいだろうか。

 家康が氏康を浜松へ迎え入れた狙いは分かっている。今後駿府へ勢力を伸ばしていく徳川家にとって、旧主・氏真を味方にしている事はとても重要だった。徳川家から内応を持ちかけても門前払いする国人であっても、氏真が駿河にある今川家旧臣へ「徳川に味方しなさい」と促せば応じる者が少なからず存在する。それくらい氏真には利用価値があったのだ。

 氏真の方も、「利用したければお好きにどうぞ」という姿勢だった。掛川城明け渡しの折に交わした『駿河返還』の約束が履行されるとは思っていないが、家康が旧主に対して好意的な態度を見せている以上は氏真の方も応えなければならないと考えていた。

「暫く、こちらの方でお世話になります。よろしくお願い致します」

 そう言い、深々と頭を下げる氏真。徹底した臣下の態度を示す氏真に、家康は逆に恐縮しきりであった。


 浜松に与えられた氏真の屋敷は、なかなかに立派なものだった。質素倹約を家風に掲げる家康には珍しく、京から庭師を招いて凝った造りにするなど配慮が至る所で感じられた。

 晩秋の澄んだ青空を眺めながら、歌を詠みたい気分になる氏真。小田原に居た頃からの習慣で頭の中でつづろうとするも、なかなか良い語句が浮かばない。

 モヤモヤした気分にはなるものの、ささくれ立つ事は無かった。人生思うが儘にいかないものだ、寧ろ思い通りの人生など逆に退屈だ。達観した境地に氏真は辿り着いていた。

 これから自分は、どういう道を歩むのだろうか。俎板まないたの上の鯉のような心境の氏真は、あるが儘に身を任せて和歌を詠む事に暫しふけるのだった。

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