三:俎板の上の鯉
持て余す程の時間が与えられても、氏真は苦に思った事は一度も無かった。
蹴鞠の練習をするなら鞠と靴があれば出来る。歌を
金が掛からない趣味を持っていた事は、氏真にとって救いだった。今置かれた状況や見通しの立たない将来の事から気を
伊豆へ送られた氏真は駿河国境に近い大平城を任された。北条勢も武田家との同盟を破棄した上で駿河で抵抗する旧今川家臣の支援や東駿河へ侵攻するも、その中に氏真は含まれていなかった。一時は駿府を武田家から奪還するなど駿河国内で優位に立つも、次第に武田勢に押され駿河の東端周辺にある幾つかの拠点を保持する所で落ち着いた。そうした情勢もあり、氏真は大平城城主を解かれ、現在は小田原の近くにある早川
伊豆へ着いて暫く経った永禄十二年五月二十三日、氏真は北条家当主・
目標と現実の
「そうか……
その報せを聞いた氏真は肩を落とす。
氏真の妻の父で“相模の獅子”の異名で呼ばれた北条氏康が、去る十月三日に死去した。享年五十七。武田信玄や今川義元・上杉輝虎など戦国乱世の申し子達を相手に一歩も引かず、北条家悲願の関東制覇へ向けて大きく前進させた偉大な三代目だった。
氏康の死去を受け、北条家は外交方針の転換を迫られた。駿河侵攻で手切れとなった武田家とは上野国の領有権もあり敵対関係にあったが、それは
北条家の外交方針転換は、氏真にも関係のある話だ。氏康から見れば
今川家を滅ぼした仇敵と手を結ぼうとする氏政に、氏真は止むを得ないと思っていた。代替わりすれば家の方針も変わる、ただそれだけだ。身の丈に合わない運営をすれば御家を滅ぼす原因に繋がる。実際、氏真がそうだった。父が築いた版図や体制を何とか維持したい、その想いが強過ぎたが為に
今川家再興の夢に唯一の寄る
氏康の死後も追い出される事なく北条家の
大いなる後ろ盾を失い北条家中で宙に浮いた存在の氏真を引き取ろうと申し出てくれた人物が現れたのだ。
その人物とは――徳川家康。
武田家と結託して遠江へ侵攻し、今川家滅亡のトドメを刺した張本人である。
氏真にとって仇も同然の相手であるだけに、周囲はざわついた。それでも、徳川家から書状が届いたと北条家の者から伝えられた際、氏真は感情を
中を
目を通し終わった氏真は静かに書状を畳むと、周囲の者に落ち着いた口調で告げた。
「我等、徳川の招きに応じて浜松へ移る」
徳川家が用意した船で小田原から浜松最寄りの港まで海路を移動。港から浜松まで陸路を進むのだが、妻の早川殿や今川家旧臣など少ない人数にも関わらず警護の兵がかなり多かったのが氏真は印象に残った。
天正元年八月。浜松に到着した氏真は家康が本拠を構える城へ案内された。大広間で面会の手筈が整えられていたが、氏真が通されたのは当然ながら下座。その扱いを氏真は不思議なくらい自然に受け入れられた。
そして……廊下から足音が近付いてきた。氏真はスッと頭を下げる。
「お待たせ致し、申し訳ない」
開口一番に待たせた事を詫びる相手。相手の着座を確認し、ゆっくりと頭を上げる氏真。
「こうして顔を合わせるのは
「永禄三年に駿府でお会いして以来でしょうから……かれこれ十三年になりましょうか」
訊ねられた氏真は穏やかな口調で答える。
顔を上げた先に座っていたのは、家康。十三年前は常に緊張し
ただ、
一向一揆で家中を二分する内乱を鎮圧した末に三河統一を成し遂げ、武田家と結託して遠江の大部分を手中に収めたまでは良かった。しかし、武田家は事前の取り決めに反して境界線を越えるなど隙あらば掠め取らん勢いに徳川家は将来的な衝突は避けられないものと想定した。そして……元亀三年〈一五七二年〉十月、足利義昭の要請に応じる大義名分を掲げ、武田信玄は大軍を率いて上洛戦を開始。美濃や奥三河へ別動隊を派遣しながら信玄率いる本隊は遠江へと侵攻してきた。武田家の強さを知る遠江・奥三河の国人達は次々と降伏。同盟を結ぶ織田家へ救援を求めるもその織田家も四方を敵に囲まれ援軍を出せる余裕が無く、三千を送るに留まった。
武田勢が本拠・浜松城へ迫り、危機感を募らせる家康。だが、武田勢は浜松城を素通りする構えを見せられ「舐められてる!」と激昂した家康は出撃し決戦に臨む事を決定した。斯くして始まった徳川・織田連合軍と武田軍の戦いは――惨敗。多くの将兵を失い、家康は
後に“三方ヶ原の戦い”と呼ばれる戦で徳川家は甚大な損失を受け、滅亡間近……徳川本貫の地である三河も武田家に侵食され、岡崎城も目前に迫られ絶体絶命の状況で、誰もが驚く出来事が起きる。年が明けた元亀四年〈一五七三年、同年八月に“天正”へ改元〉一月、信玄率いる武田本隊は突如進路を北へ変え、甲斐へ帰る動きを見せたのだ。少し後に分かった事だが、この時信玄は重い病を患っていて甲斐へ戻る途上で死去したという。存亡の瀬戸際まで追い詰められた徳川家は危地から脱し、武田の手に落ちた領地の奪還に動き出した。信玄死去後の混乱に乗じて三河全土と遠江の大部分を取り返し、駿河へも侵攻。逆境を乗り越えて一回り成長した家康は戦国大名として自他認める存在になっていた。
「……正直、恨み言の一つや二つ言われるかと覚悟しておりました」
氏真の表情を確認し、ホッとしたように打ち明ける家康。嘗ての主君筋に当たる人物を迎え入れるのは相当神経を使っているのだと伝わってくる。
「いえ。
家康の言葉に氏康は首を振って否定する。その様は
主君だった立場の者が過去家臣だった者と立場が逆転する例は、戦国の世において少なからず存在する。摂津の池田
掛川城を明け渡し今川家が滅亡した四年前の氏真だったら、
家康が氏康を浜松へ迎え入れた狙いは分かっている。今後駿府へ勢力を伸ばしていく徳川家にとって、旧主・氏真を味方にしている事はとても重要だった。徳川家から内応を持ちかけても門前払いする国人であっても、氏真が駿河にある今川家旧臣へ「徳川に味方しなさい」と促せば応じる者が少なからず存在する。それくらい氏真には利用価値があったのだ。
氏真の方も、「利用したければお好きにどうぞ」という姿勢だった。掛川城明け渡しの折に交わした『駿河返還』の約束が履行されるとは思っていないが、家康が旧主に対して好意的な態度を見せている以上は氏真の方も応えなければならないと考えていた。
「暫く、こちらの方でお世話になります。よろしくお願い致します」
そう言い、深々と頭を下げる氏真。徹底した臣下の態度を示す氏真に、家康は逆に恐縮しきりであった。
浜松に与えられた氏真の屋敷は、なかなかに立派なものだった。質素倹約を家風に掲げる家康には珍しく、京から庭師を招いて凝った造りにするなど配慮が至る所で感じられた。
晩秋の澄んだ青空を眺めながら、歌を詠みたい気分になる氏真。小田原に居た頃からの習慣で頭の中で
モヤモヤした気分にはなるものの、ささくれ立つ事は無かった。人生思うが儘にいかないものだ、寧ろ思い通りの人生など逆に退屈だ。達観した境地に氏真は辿り着いていた。
これから自分は、どういう道を歩むのだろうか。
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