一:早瀬に放り込まれた鯉
永禄四年〈西暦一五六一年、以下西暦省略〉四月、ささくれ立っていた氏真の元に、その
「松平が牛久保を攻めた、と?」
今川“
全てが狂ったのは、去年に起きた
永禄三年〈一五六〇年〉五月十九日。今川義元、討死。
そもそも、父の義元は“
そんな義元には、大望があった。――上洛である。
応仁の乱以降、幕府と守護大名による統治は
途方もない野望を抱いている義元にとって追い風だったのは、頭角を現しつつある隣国の武田晴信・北条氏康と(義元を含めた三者共に
今川家は駿遠三の三ヶ国で約七十万石、当時の戦国大名で十指に入る規模を誇る。加えて、駿府を始めとする東海道筋の宿場町から上がる運上金など年貢以外の収入もあり、実入りは石高の数字以上に豊かだった。当時の換算で一万石につき二百~二百五十名の兵力があるとされ、それに当て
将来的な上洛を前提に、義元は尾張へ手を伸ばしていた。好敵手・信秀亡き後の織田家へ調略を仕掛け、尾張国内に
敵の包囲で兵糧不足に陥っていた大高城へ先鋒を務める朝比奈
しかし――桶狭間(田楽狭間とも)で休止していた今川本隊を、織田信長率いる手勢が急襲! 直前に
その凶報を受けた時の氏真の心境は、悪い夢以外の何物でもなかった。今川家の家督は譲られたが実権は父が握っており、氏真もその状態が暫く続くだろうなと思っていた。絶対的君主が絶頂期に家督を譲る例は決して珍しい事ではなく、毛利家では元就が五十歳の時に嫡男・隆元へ家督を譲っており、織田家でも後年信長が四十二歳で嫡男・信忠へ家督を譲っている。まだ力のある内に隠居する事で、別の一大事業へ注力する狙いが込められていた。氏真も長期的視点に基づいて、着実に今川家を継承していく腹積もりだった。ところが……青天の
氏真が真っ先に取り掛かったのは、動揺の隠せない今川家中の引き締めである。氏真の名で
大混乱の中で今川家当主の座に就いた氏真は無我夢中で駆け抜け、空中分解の危機から脱した。しかし……ホッと一息つける頃になると、新たな頭痛の種が出てきた。未来の今川家を支える若手有望株にして三河の有力国人・松平元康の動向が怪しいのだ。
松平“
人質の身ながら、その器量を高く評価した義元は懐刀である太原雪斎を学問の師に付けるなど厚遇。弘治三年には義元の
その元康――先述した通り、尾張侵攻戦では先鋒として活躍。大高城への兵糧搬入の役目を果たして休息している間に義元討死の報を受けた。元康は松平勢を率いて三河まで
岡崎城は元々松平家の居城、それを接収するのは氏真も別に咎める気はない。
ところが……暫く月日が経過すると元康は弔い合戦について言及しなくなった。その前後から三河国内の国人に対して松平家の
疑念を抱き心中穏やかでない氏真の元へ、信じがたい情報が持ち込まれた。元康の腹臣で松平家の外交を
元康の対処をどうすべきか家中で検討を重ねていた最中に舞い込んだ、今川家臣が守る牛久保城への攻撃。元康もこの城が今川家のものと分かっていての行動だろう。それ
「もう許せん! 松平追討の兵を直ちに用意せよ!」
幸いな事に牛久保城への奇襲は失敗に終わったものの、このまま元康の振る舞いを許してしまっては隣国の遠江に影響が及ぶ可能性がある。今川家の支配は確立されつつあるが、一部の国衆の中には今川家に不満を抱いている者が居るとも聞く。代替わりしたから付け入る隙があると思われてはいけないのだ。
西三河と奥三河の一部を治める程度の版図だった松平家討伐は、氏真が思い描いていた通りに進まなかった。
三河国には松平家の支配を快く思わない国人勢力も一定数存在していたが、それ等の勢力が今川方に
それでも永禄七年〈一五六四年〉家康の失政を発端に三河国内で一向一揆が勃発、反松平勢力や浄土真宗を信仰する松平家家臣が一揆側に加わるなど家康は一時窮地に立たされるも、これを
松平家に
一事が万事……とはいかないが、氏真は向かい風に
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