本編 ⑤

 三輪君と別れた後、俺はカオサンのメインストリートに出た。

 この三百メートルほどの短い通りには大人の階段を上るシンデレラほどに思い出がいっぱいなのだ。

 今現在のカオサンと言えば、お洒落なカフェやレストランが林立し、旅人の街と言われてもイマイチ「ピン」と来ないのだが、この頃はバンコク発の格安航空券を扱う旅行代理店を中心に、バックパックや衣料と言った旅の必需品を売る店が多く、カフェと言ってもゲストハウスの一階のスペースを利用した上半身裸の小汚い身なりのヒッピーのようなファランがコーラやコーヒー一杯でいつまでも粘ってるようなしみったれた店が多く、よくてダーツやビリヤードが置いてある程度だ。あとは両替屋にタトゥ屋とネットカフェの出現で衰退した国際電話屋、それに偽学生証を売る露店が多い(ビザに使う証明写真が余っていたので東京大学の偽学生証を作ったのは内緒だ)。そういえば、この界隈でインド人のやってるテーラーはほぼ詐欺だった。

 一つ一つ思い出をたどりながら俺はバイヨンビルの一階の中ほどにある「МPツアー」を目指す。不義理にも森さんの最期を見送れなかったので、せめて元気な顔を見せておこうと思ったからだ。

 ビルに入ると、外の気温が四十℃を超えているので、効きすぎのエアコンが肌に心地よい。旅行代理店のテナントが所狭しと何軒も入った雑然とした光景。懐かしい思いで、歩を進める。

 二月三月の学生の旅行時期とゴールデンウィークの狭間の閑散期なので、いつも横に座っている奥さんのパワラさんは不在で、白いワイシャツ姿の森さんは透明なビニール袋に入った茶色く色のついた砂糖をまぶしたタイの果物ションプーを摘まみながら衛星版の読売新聞を精読していた。森さんが生きて動いているだけでも俺にとっては感動ものだし、俳優の橋爪功さんを少し強面にしたようなあのお馴染みの風貌に俺は泣きそうになったので、敢えて軽口をたたいた。

「森さんも暇そうですね」

 俺の声を聴いて、森さんは新聞から緩慢に顔を上げ、どんよりとした目で俺を見ると「なんだ。苑田君か。最近、見ないから島にでも行ったんだと思ってたよ」と気怠そうに言った。

「島に行くんだったら、森さんのとこでチケット買いますよ」

「嬉しいこと言ってくれるねぇ。どう?コサメットに行かない?安くしとくよ」

「もう少し涼しくなってから考えます」

「そうか。それなら、月末からまた忙しくなるんで、店番やってよ。カミさんだけだと『対応が悪い』って苦情が入るんだよ。苑田君は明るいし、よく気が付くし、仕事が丁寧だからね。客は適当に相手してくれたらいいからさ」

 そういえば、大学時代の俺は卒業後に旅行業に進むつもりだったので、森さんに頭を下げて一時期、仕事のイロハを教わりながら店を手伝っていた時期があったっけな。それも、内定貰った旅行代理店が卒業前に倒産して、そんな未来も露と消えたが…

 夢は露と消えて、俺は旅に出たってわけだ。

「今時、ビールとタイスキのギャラで仕事手伝ってくれるなんて、バンコク中探しても苑田君くらいしかいないんだよ」

「いつからですか?」

「月末から十日くらいだよ。新規の客、呼び込んでくれたらアドヴァンスも払うからさ」

「三日後くらいに返事します」

「期待してるよ」

 思えば、俺はあのまま森さんの下で働いていれば、コネやノウハウを身に着け、資金を貯め、独立し、今頃、シーロムのオフィスビルあたりで一国一城の主として旅行代理店を経営していたかもしれないが、果たして義理堅い俺が森さんを袖にすることができただろうか?また旅への渇望を堪えることができただろうか?と考えるとそれもまたありえなかった未来であることに気づく。

 結局、あの救いがたき底辺生活が俺の全てなのか?

 そうこうしていると、往年の電波少年の懸賞生活に出ていたなすびを長髪髭面にして、日本でそんな恰好したら人が避けて通るか、怪しすぎて人を呼ばれてしまいそうな小汚いが派手な理解不能なインドファッションに身を包んだ青年がしょんぼりとした様子で「森さん。お願いです。お金を貸してください」と飛び込んできた。学生の旅行時期には「パスポートを盗まれた」乃至は「トランプ賭博詐欺に引っかかった」などと森さんに泣きついてくる日本の大学生が週あたり一人は必ずいるものだが、こんな中途半端な時期にやってくる人間なので、少し疑ってかかったほうがよさそうだ。

「どうしたの?」

 場慣れしている森さんは冷静そのものだし、広島生まれ広島育ちでキチガイ慣れしている俺も驚きもしない。

「美人局にやられました」

「もっと詳しく。事情がわかんなきゃ助けようがないよ」

 いや、本当は詳しく話す必要などない。

 大方、伊勢丹かマーブンクロンあたりで女の子に逆ナンされて、鼻の下を伸ばして着いて行き、食事し、意気投合し、ホテルに入り、ことに及ぼうとしたところで脛に傷持ついかつい彼氏が登場。「俺の女を傷ものにしやがって」と銃かナイフをチラつかされ、恫喝され、パスポートと有り金全部を巻き上げられて途方に暮れていると言ったところだろう。実際は細部は多少、違い、「安室奈美恵が二人いたんですよ」なんて戯けたことを言っているが、まるで『地球の歩き方タイ編』の現地でのトラブル一例にそのまま出てくるようなお決まりのパターンだ。

「いいかい?同胞が困っているんだ。質の悪い詐欺に遭ったんなら、今暇だし、君の金を取り戻すために僕も協力を惜しまないよ。でも、完全に自業自得じゃないか」

 森さんは心得違いの若者を諭すような口振りで諫め、ヤレヤレという顔をして煙草に火をつけた。実際、森さんはゴールド詐欺や悪質なガイドに土産物屋で法外な値段の宝石を買わされた日本人旅行者を親身になって助けたことがあるが、こういう筋の通らない連中は一切、相手にしない。

「インドで仲間が待ってるんです。そんな冷たいこと仰らずに」

「あんたも旅人の端くれだろ?だったら、金とパスポートと航空券を失くした奴は黙って落ちるのがルールなことぐらいわかるだろ。それに、他人の森さんより先ずは日本の親を頼るべきじゃないのか?」

「親になんてとっくに勘当されてますよぉ」

「まぁ、そうだろうな」と思ったが、口に出すのは流石に残酷だ。果たして、余命幾許もない人間に「運命を受け入れろ」と言えるか?たとえ同情を引こうと彼が嘘を言ってるのだとしても、言っていいことと悪いことがある。二十四の頃はそこがわからなくて、要らぬ敵を多々作ったものだ。

「旅を続けたいのも、親との関係が悪いのも君の都合だろ。悪いことは言わない。今すぐ領事館に行って帰国の為の渡航書を書いてもらうんだ。即日で書いてもらえるからさ」

「そんな。助けてくれないんですか?」

「助けるも何も小銭とチェックくらいは持っているだろ?数日はそれで凌げるだろう。それにどうせビーマンの一年オープンだろ?早めにキャンセル待ちを入れるんだな。僕からのアドヴァイスは以上だ」

「森さぁぁん」

「あんたねぇ、そのごつい男は撃つことも刺すこともできたはずだぜ。命あることに感謝しなよ。生きてりゃ旅はまたいつでもできるだろうがよ」

 若者の甘え切った態度が妙に癪に触ってしまったので、いつになく偉そうににお説教してしまったが、「命あることに感謝しなよ」はどこか現実世界の俺自身に言っているような気もした。

 若者は結局、それ以上の窮状を訴えることなく、項垂れて踵を返したが、不本意な旅の終わりを気の毒に思わなかったと言えば嘘になるし、彼はこれが最後の旅になるのかもしれない。というのも彼の体臭が腐った腸詰めの匂いがしたので、間違いなくマリファナをやっているだろう。この匂いは風呂に入ってないとか服を洗濯していないとは関係ない独特の匂いなのでわかる人にはすぐにわかる。多分、バックパックに隠し持っていて、運が悪けりゃ空港の税関で御用だ。それならば、人生最後の旅の思い出としていくらか金を貸しても罰は当たらなかっただろう。

 俺の心の動きを読んだのか、森さんは「苑田君はクールでシャープだ。花田のおっさんだったら、同情して金貸してるよ。同胞を狙った詐欺かもしれないのにな」と俺の対応を褒めた。

 因みに、森さんの言う「花田のおっさん」というのは、作家の花田一彦氏のことで、俺と同様、繁忙期に店番をすることがある。花田氏は翌年、フレンドリーゲストハウスの右斜め前に居心地のいい日本レストラン「キッチンケロケロ」をオープンするが、タイ人のパートナーが不愛想な上に働かないので、二年ほどで潰れた。

 二度と会えぬ人に会い、嬉しいような一寸、切ない熱帯の午後だった。

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