本編 ③

 ランブトリ通りに出るパクソイには右手にぶっかけ飯の屋台と左手にはグリーンハウスがあり、懐かしさに目頭が熱くなる。特にグリーンハウスはオーナーが替わって改築される以前のレセプション前に十畳ほどの板張りの気持ちのいい休憩所があり、旅人はそれぞれのスタイルで羽を休めている。レセプションにはにこやかなヌイさんやナットさんといった懐かしい顔も見える。これも過ぎ去り、二度と会えないと思っていた過去の一部分だ。愛おしく感じる。

 二度と会えないと言えば、「МPツアー」の森さんや貧乏旅行作家ジミー金村さんは当然、この頃はまだ健在なので、一目会いに行きたい気がするが、森さんはいいにしても、ジミーさんとの知遇を得たのはこの五年も後の話なので、今、俺がお寺通りのテラスゲストハウスに訪ねて行っても、「また、図々しい迷惑な読者が訪ねてきた」と苦々しく思われるだけだろう。このへんのタイムラグは一寸、ツラいものがある。

 そんなことを考えながら、今も昔もカオサンで唯一、マトモなホテルであるビエンタイホテルのロビーで涼を取って、大体三十分後にロータリーを渡ったところにあるブラスメン通りの8番らーめんを目指す。

 思えば、俺は二十七歳で仕事で初めて金沢に行くまで8番ラーメンはタイ人が創業したメイドインタイランドの日式ラーメン店だとばかり思っていた。

 つまり、俺はアナハイムのディズニーランドを知らずに東京ディズニーランドをコンセプトからキャラまで全て日本人が企画制作したテーマパークだと勘違いしていたくらいの間抜けさなのである。ビルマのラングーンの天理スタミナラーメンにも驚いたが、北陸のローカルチェーン店がタイなんかで思い切ってフランチャイズ展開をしているというのもなんだか痛快で夢のあるお話だ。

 例の黄色い看板をくぐると、三輪君はもう座ってビールを飲んでいた。まだ時間の感覚がタイ人化していないのだろう。多分、五分前には来ていたと思われる。いつ来てもBGMはなぜかエンドレスでチャゲアスが流れている不思議な店舗で、この翌年にレックさんラーメンや竹亭や短命で終わったキッチンケロケロができる以前は日本食に飢えると高頻度でここに来たものだ。

「あれ?苑田さん、早かったっすね。またファラン(白人)のお姉ちゃんでもナンパしてるのかと思ってましたよ」

 三輪君がひどく意外そうにしているので、俺もその反応が意外で「なんで俺が毛唐の女なんかをナンパするんだよ?第一、時間は守るわ」と文句を言いたくなったが、ここがあの頃のカオサンであり、俺は二十四歳の俺であることを忘れてはいけない。このへんの辻褄合わせが実に難しい。人は変わるものなのである。いいほうにも悪いほうにも。

「ダメだね。今日は雑魚しかいねぇよ」

 無理して二十四の頃の俺が言いそうなことを言ったが、どうも尻の穴がむず痒い。

「強いっすね。苑田さんは」

「三輪君もインドに行けば変わるさ」

「そんなもんですかねぇ?」

「そんなもんだよ」

 実際、「そんなもんだよ」なのだ。

 三輪君はこの後、半年間、インドやチベットを放浪したのち、揉まれ、磨かれ、見違えるように逞しくなり、帰国後大学に入り直して、在学中にその時の旅行記をまとめた本を上梓して、売れはしなかったが、アジアを旅する旅行者の間では随分と話題になった。今では故郷名古屋でやり手商社マンだ。

 そんな未来を教えてあげたい気がするが、人というのはどういうわけか、いい未来を知ると努力しなくなるものなのだ。これは半世紀近く生きた経験値からはっきりと言えることだ。勿論、三輪君がそんな尊い勤労や鍛錬や研磨を放棄するようなぐうたらではないことは知っているが、万が一を考える。

 そんな俺と三輪君の会話をわかっているのか、わかっていないのか、ぶちゃぶくれだが、目だけは高畑充希に似てキラキラしているウエイトレスのお姉ちゃんがニコニコしながら横に立っているので、俺はナチュラルスピードのタイ語でビールと餃子と8カマ(ラーメンに入っている8の文字が入ったかまぼこ)を注文した。餃子は「ギョウサー」だし、8カマもそのまま「はちかま」と発音すれば通じるのがおかしいが、三輪君は「そういや、苑田さんってタイ語喋れましたっけ?なんか今日は調子狂っちゃうんですよねぇ。何かあったんすか?」と首を傾げ、トラベルポシェットから煙草を取り出して口に咥えたが、タイではこの頃からエアコンのある飲食店では禁煙の店が増え始めていて、ここも例外ではなく「アナタノースモーキンナ!」とさっきのお姉ちゃんにやんわりと注意された。

「タイって自由のようで自由じゃないんですよねぇ」

「うん。君はインドのほうが向いてるよ。あっちはタバコどころか草吸ったって捕まらないからな」

「もう。そうやって唆さないでくださいよ」

「神に代わって道を示してるんだけどな」

「悪の道は勘弁してくださいよ」

 三輪君は苦笑してビールを呷った。

「で、何があったんすか?」

 今度は真剣な目になって俺の目を覗き込んだ。

「三輪君よ。タイが自由なようで自由ではないように、俺は俺であって俺でないんだよ」

「は?哲学ですか?」

「そうじゃない。今からかいつまんで言うから、よく聴けよ」

「はぁ…」

 この状況を説明できる自信はなかったし、三輪君が納得するとも思えない。況してや、二三杯のビールでは饒舌になれそうもないし、あまり気も進まないが異人や変人や狂人扱いされる前に話しておかなくてはなるまい。 

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