本編 ②

 

 如何にもタイの民家風の木製の狭い階段を降り、一階に降りると、ランドリーで洗濯しているオバチャンがいる。黒髪の短髪で痩せぎすで、皺と眉間に紋のある剣のある表情で、ミルクチョコレートのような肌の色をしているので、一瞬、おっさんかと思うが、背丈が一メートル五十センチもないので、そこでやっと女だとわかる。今生きていれば八十四歳のはずなので、ここがあの頃のカオサンであることがわかる。

 俺は懐かしさにこの身を任せて、「オバチャン。サワディカップ。ローンマークナ(オバチャン。おはよ。今日も暑いね)」と挨拶をすると、オバチャンは十秒ほど不可思議な顔をして、俺を品定めするように見詰めたが、何かが腑に落ちたのか「リュウ。トゥックワントゥックワンパイティヤオ。サバイサバイニャ(リュウ、あんたは毎日、遊んでばっかで楽しそうだね)」と呆れたように笑った。

 俺は昨日もその前も流刑地で強制労働だったはずだが、確かに、あの頃の俺には飲んでるか、食っているか、寝ているか、喋っているか、歩いているか、お姉ちゃんとそういうことをして遊んでいるかの記憶しかない。本当に今と対極の世界で生きていたのだと、自分のことながら感心してしまう。そう言えば、あの頃の俺はタイ語は喋れなかったはずだ。さっきのオバチャンの十秒の沈黙はきっとそのせいだろう。四十九歳の俺の記憶と能力を持って、あの頃にいるとするなら、タイムパラドックスには大いに気を付けなければなるまい。おおらかでいい加減なタイ人はともかく、これから会う日本人には。

 俺は記憶にある俺のビーチサンダルをつっかけ、向かいのフレンドリーゲストハウスのテーブル席に知った顔を探しに行くことにした。

「リュウ。パイナイ(リュウ、どこに行くの)?」

 オバチャンの縛れた声を背中で聴き、俺は振り向いて「二ヤリ」と笑った。

 表に出ると凶器ともいえる巨大な暑期の太陽に軽いフックを喰らい、少し立ち眩みがしたが、これも忘れかけていた懐かしい体感なので、不快も不満もなかった。

 テーブル席を見ると、知った顔がいくつもある。いまだに付き合いのある三輪君を筆頭にまだ眼帯をつけていないタカさんやエジプト帰りの東一さんによく三輪君をからかっていた健さん。タイマッサージの名手パンさんやチャルーンさんなんかもいる。のちにタイ関係者の間で悪い意味で有名になるフクちゃんはまだいないようだが、まさにあの頃だ! 

 こういうのは現在の俺を幾許か知っている三輪君に色々訊くのが手っ取り早い。

 俺は「ハロータイマッサージ」の誘いをにこやかに且、丁寧に無視して、三輪君の隣に座った。この頃はまだ眼鏡をかけていて、どことなく自信がなさそうだ。のちに「インドは第二の故郷」とまで豪語するようになるあの三輪君の初期の頃は旅人のかなり小規模なワンオブゼムに過ぎなかった。

「よう。三輪君。インド行きの日取りは決まったかい?」

「苑田さん、こいつダメですよ。根性ないから。昨日もゴーゴーに連れて行ったんですけどね、女の裸見て、逃げやがったんですよ」

 健さんが三輪君を人差し指で指しながら嗤った。それに三輪君は反論できず、もじもじしている。これもあの頃によく見たシーンだ。タカさんは釣られて笑い、寡黙な東一さんはタイのタバコMOREを気持ちよさそうに燻らせている。

「しょうがねぇな。こいつは俺が指導したほうがよさそうだな。ところで、三輪君。今日は何年何月何日何曜日だっけ?ほら。長いと、曜日と日時を忘れちゃうんだよね。これから君も経験すると思うけど」

 三輪君は吊し上げから解放された安心感からか、あまり質問の意図は気にせずに「平成十一年四月十七日ですよ。曜日は僕も忘れちゃいましたけどね」と淡々と答えた。ここがあの頃であると同時に、あの地獄のソンクラン(タイ正月)明けだと知って、幾分、緊張が解けた。

「じゃぁ、去年の日本シリーズはどこが勝ったんだ?」

「横浜ベイスターズでしょ?『六月まではうちが首位だったのに、ピッチャーの駒さえ揃っていれば』って、苑田さん、こないだ酒飲んでグダ巻いてたの忘れたんですか?」

「じゃぁ、今の台湾の総統は?」

「あなたの大好きな李登輝さんでしょ?」

「東京都知事は?」

「先週、作家の石原慎太郎が当選しましたよ。苑田さんったら、小躍りしちゃって、ここで深夜まで祝杯あげましたよね?」

 嗚呼。ここはあの頃のカオサンで間違いない。

 俺は二十四になったばかり。

 三輪君に至っては十九歳だ。

 あまりにも挙動不審な質問をするものだから、日本語のわかる人は皆、異星人を見るような目で俺を見ている。非常に気まずい。確認を入れる意味だったとはいえ、もう少し質問のしようがあった。非常に気まずい。五十前にもなって底辺暮らしなのは、言いたいことが上手くまとめられず、国語力の欠如も関係していることだろう。

 俺は三輪君の黒のサマーセーターの袖を引っ張り、「大事な話がある。三十分後に8番ラーメンで待ってる」と言って、本当ならば日が暮れるまでウダウダしているはずだった心地の良いサークルを離れた。

 

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