本編 ①
三十分ほどウトウトして、蒸し殺されるのではないかという暑さで目が覚めた。
いくらトリスを呷ったからと言って、昨日からの花冷えでこんなことはあり得ない。まるでエアコンのタイマーが切れて三十分が経った真夏の夜じゃないか。
いや。夜ではない。もう明けている。
そういえば、中学では野球部と空手道場を梯子からの早朝新聞配達だったので、寝て三秒で朝になるという経験は人生のかなり早い時期にしているし、そういう時の重たい失望感は忘れようにも忘れられないものだ。
悪夢と引き換えの憂鬱。
どう足掻いても幸せにはなれないというわけか。
上等だ。こうなったら、半端な悲劇では許さないぞ。
などと構えていると、ここは恥ずるべき底辺の巣窟ではないことに気づく。醤油を煮詰めたようなもう何か月も洗われていないシーツに枕。建付けの悪いパイプベッド、洗面所とトイレどころかテレビや冷蔵庫や机もない殺風景な部屋は色褪せた空色で統一されている。天井の扇風機は生暖かい風を回している。
まさか?そんなはずはない!
それに、コンクリートの壁の落書きの文字が老眼鏡をかけなくても見える。不思議に思う暇もなく、それは俺の字であることがわかる。
「苑田竜二参上!」はいいにしても、「ミポリンと××××(自主規制)」とは何事だ?盛りのついた中坊じゃあるまいし、過去の俺が書いたにしても情けないを通り越して、腹が立ってくる。極めつけは「一瞬の夏、厳寒の老後」。まるで今現在、場合によっては死を迎えるその日まで続く未来を言い当てていたような短いフレーズにこんなにも暑い場所にいるのに、手足が凍っていく感覚だ。
そもそも、ここはなぜこんなにも暑いのか?
俺はその「そんなはずはないまさか」を受け入れた。
あの頃のチェリーゲストハウスだ!
日時の詳細はオバチャンか向かいのフレンドリーゲストハウスの連中に訊けばわかることだが、どうして俺はここにいるのだろう?底意地の悪い運命と自分さえよければそれでいいという隙も笑顔も見せられない連中に虐めぬかれている俺を憐れんで誰かが逃避させてくれたのか?だいたい、そんなことが可能なのだろうか?
わからない。
わからないが、ここは何かに怯えたり耐え忍んだり、何物にも忖度しなくてもいい自由の地。目覚ましをかけて寝る必要もないし、睡眠不足にも苦しまなくてもいい。朝からビールなど呷っても誰にも怒られない。空席さえあれば、今日にでもチェンマイやコサムイにも行ける。三十分歩けば、ヤワラーでフカヒレを啜ることもできる。五分歩けば、ワッタナーさんの十バーツバミー(ラーメン)屋台がある。それとも、セブンイレブン前のジョッグ(おかゆ)か。
そう考えると、もう考えることそのものが面倒くさくなってくる。
懐かしい感覚だ。自由を束縛していたのは、生活でも仕事でもなく、俺自身なのかもしれない。報われない理由を考えるからツラくなるのだ。この怠惰と幸福の分子が濃く含まれたカオサンの空気を吸えば、あらゆる不幸も長い夢の中での出来事と笑えるだろうか?
そう。俺は長い悪夢を見ていたのだ。
最上階の壁にピンクのタイルを貼ったコンクリートむき出しのトイレ兼シャワールームで水シャワーを浴びながら歯を磨き、髭を剃り、すっきりしてバスタオルを腰に巻き、鏡を見ると十年前に転倒した時にできた眉間の傷と白髪が全くないことに気づく。スタイルは現在のほうが痩せているくらいだが、そんなことよりもシルエットが若い。それと、瞼が垂れてなくくっきり二重なのと肌が水を弾くのに軽く感動した。島田紳助の語録に「一億円あっても若さを買うことはできへんのや」というのがあるが、俺はあれだけ夢を叶えまくった、現世利益の申し子のようなあの人さえも成し遂げられなかったことを金と労力なしで取り戻したのだ。
どこか誇らしげでどこか騙されているような気がするが、流刑地六本木での苦行を想うと、それだけの対価は払ったつもりだ。悲しみだけ訪れるはずないし、たった一夜の楽しい夢を見ることすら許されないはずもない。
水シャワーを浴びても五分もすると汗が噴き出す。
そんな懐かしい体感も今の俺には有難いことだった。
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