序章 ③
横浜の自宅に戻る。
もう疲れ果てていて、腹は減っていても何も作る気にはならないので、トリスの業務用ボトルをラッパ飲みする。まるで栄養失調で痩せ細った蛇が緩慢な速度で喉から腑に流れてゆく感じだ。美味いとかそういう問題ではない。俺はただ現実を忘れたいのだ。果てしなく続く、雑巾がけと賽の河原のようなこの現実を。
それならば、カオサンやアジアの片隅で居場所のようなものを見つけ、いい気になっていたあの時間と金で資格を取るなり、起業をするなりすればよかったなんて考えはない。俺は自分で言うのも何だが、頭はいいし弁も立つが、勝負弱い。いざという時に奇跡や神と縁がない。千万単位の借金を抱えて、寿の住人になっていたか、自裁していたのが関の山だろう。「それよりはまし」という程度の現実。
それに、そんな未来があったにしても、俺は同年代の堀江や前澤のような品性のかけらもない、何事も「自己責任」で冷たく斬り捨てる拝金主義のリアリストにはなれなかっただろう(尤も、俺には微妙なアイドルやAV嬢と付き合って悦に入る悪趣味はないが……)。すると、人を傷つけることを生きがいと信条としている、六本木ヒルズに住んでいるというだけであれだけ勘違いができるあの茶色コートもその類の人間か?
所詮、六本木なんかに住みたがるようなカッペどもだ。極陽の次は極陰だし、実りの秋の次は寒い冬だ。そして、極楽の後は地獄。精々、人を傷つけ、人を嘲笑い、劫を積めばいいさ。言っておくが、本当の地獄の沙汰は金なんて通用しねぇんだからな。
部屋を見てみろ。
この年齢になって、六畳一間、トイレ風呂共同のシェア。WiFiはすぐ切れる。テレビもねぇ、ラジオもねぇ、車もねぇ、貯金もねぇ、保険もねぇ、嫁も子もねぇ、夢も希望もねぇ、ブルーレイは何者だという底辺暮らしだ。しかも、夜は常識とモラルのないガキどもが徒党を組んで喧しい。こいつらは五年後十年後には疎遠になるハムのように薄っぺらい仮初の同志どもとは言え、夜毎、睡眠時間を盗むのだから、容易に許せる存在ではない。そういう時は憚りもなく悔し涙を流す。あの頃のカオサンでの日々やありもしなかった明るい未来や結ばれもしなかった女に対してではなく、現実に対して。
現実はただツラい。
仕事も生活も惨めでしかない。
それほどの生き恥を耐え忍んでまでもなぜ死なないかというと、俺はバンコクの母ユキエさんに生きて会って、あの時の御礼を言わないといけないからだ。
あの時、俺は何もかもを失くして死ぬつもりだった。八方塞で、何をやっても何を言っても誤解され、俺とは似ても似つかず、身の丈にも合わない虚像が一人歩きをはじめ、仕事を干され、物質的にも精神的にも赤貧を極め、いよいよ最後の灯りが消え、もう突きつけられた刃を抵抗なく受け入れ、異土の風雨に屍をさらさなければいけないと言うところまで追い詰められていた。
誰にも助けを求められなかったが、バンコクのような紛い物の人間と紛い物の微笑みに溢れる街で唯一、ユキエさんだけは信用でき、且、多少の甘えならば許されるという末っ子の如き打算があった。
だけど、その時の俺は、窮状を訴えることも、死を覚悟した旨も話すことができず、結局、小一時間、ユキエさんのおしゃべりをただ聴いていただけだった。聖母のような赦しと救いのある言葉があったわけではない。それでも、なぜか救われたような気持になった。きっと、長らく敵意と悪意の言葉と念の中を生きてきたから、俺を傷つけないというごく当然のことが嬉しかったのだろうと今になって思う。
そして、俺は泣きながら誓った。
「もう少しまともな人間になって、ユキエさんに会おう。そして、今日の御礼を言おう。死ぬのはそれからでもいい」
ただ、生きなければならない理由はできたものの、筆不精、出不精、電話嫌い故、ユキエさんの消息がわからなくなって久しく、御礼は言えずじまいだ。
本当の恩人は名乗り出ないのが日本人の美徳とは言え、こんな日はユキエさんにだけ繋がるスマホが欲しいと思う。
そして、言いたい。
「あの時はありがとうございました。そして今は現実を生きるのがただただつらいです」と。
四杯目のトリスが効いてきた。
眠い。
眠いが、俺は眠るのが怖い。
もう何十年も悪夢しか見たことがない。
顔が黒く塗りつぶされたヒステリックな女に身に覚えのない不義理を罵倒される夢や雲よりも高い塔から蹴落とされる夢や顔が一角獣で体が磯巾着の妖怪に追いかけ回される夢や黒いチャドル姿の中東あたりのカルト教団の団体に「死んで償え」と迫られる夢など最早、癒しとも休息とも言い難い苦しい時間が訪れ、そこから逃れ、現実に戻れば、ガキどもの乞食のようなバンクエット。
それでも死ねない。
それでも今夜も眠りが訪れる。
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