第294話 慟哭

 ル・ラランジュ。

 都市カマーでもっとも格式高い高級レストランである。利用客は貴族や大商人と呼ばれる者たちがほとんどで、一見の客では利用することはできない。


「ほ、本当に食っていいんだな? 言っとくが、あとで金を請求されてもそんな金はねえぞ?」


 ル・ラランジュの一室で、アンスガーはテーブルに並べられた数々の高級料理に、口から涎が垂れそうになるのを慌てて手の甲で拭う。それも仕方がないことであった。なぜなら聖国ジャーダルクの諜報機関ブロソムの執拗な追跡から逃れ続けるために、アンスガーはまともな食事や休憩を取ることもできなかったからである。


「しっかし、ここって一見はお断りの超がつくほどの高級店だろ? それも個室って大丈夫なのか?」

「お前が飯を食いたいって言ったんだろうが。それにここは何度も使ったことのある店で、俺がいくつかの食材を卸している関係である程度の融通が利く店だから問題ない」

「へいへい。むぐむぐっ、くっそう。このパン、うめえな。うぐぐっ、それにしても、お前ってなんだよ! 俺はこう見えても年上だぞっ!」

「なにがこう見えてだ。どっから見てもおっさんじゃないか」


 一度にたくさんのパンを食べ、喉に詰まったパンを慌ててスープで胃に流し込みながら、アンスガーがユウに文句を言う。本来であれば、前菜、スープ、魚料理などの順番で料理は運ばれてくるのだが、アンスガーがとにかく早く食べたいとワガママを言うので、ユウは店に無理を言って一度に料理を運ばせていた。


「かーっ! 口の悪いガキだな。俺は敵じゃないって言っただろうが。少しは信じろよ」

「黙れ。お前が敵かどうかは俺が決める」

「言っとくけどな。お前がカマーに来たばかりの頃に、誰が見守っていたと思ってんだ。それに新人ルーキー狩りの情報をそれとなく冒険者ギルドへ伝えていたのは俺なんだぞ。まあいいや、それより見てたぞ」


 ウードン魔牛のステーキを切り分けながら、アンスガーはフォークでユウを指す。


「なにをだよ」

「冒険者ギルドでロイ・ブオムと揉めてただろ? しかもお前が一方的にケンカ腰でな」

「そんなことどうでもいいだろうが。それよりも――」

「俺はステラに頼まれて・・・・、お前のことを見守っていた。ジャーダルクが、お前を魔王に仕立て上げようと暗躍していたことや、お前の境遇だって――うおっ! この芳醇な香りに舌の上で広がる豊かな味、こりゃとんでもなく上等なワインだなっ」


 グラスのワインを一気に飲み干すと、アンスガーは顎でユウに話すように促す。その表情がなんとも憎たらしく、ユウを苛立たせる。


「ジャーダルクの計画を知っているのなら、言わなくてもわかるだろうが。俺は各勇者の動向には注意を払っている。ロイ・ブオムはジャーダルクやハーメルンを中心に活動していた。その勇者がウードン王国に、それもわざわざ俺に会いに来たんだぞ? これで警戒しないなら、そいつはよっぽどの間抜けだな」

「まあ、確かにそうだな」


 難しい顔をしながらアンスガーは頷く。


「それなのにあの野郎はヘラヘラしたツラで、俺に向かって勇者にならないか? だぞ。俺は怒りを通り越して呆れ果てたな」

「くははっ。まあ、そう怒るなよ。だが、そう考えると■眼にかかったままでよかったのかもな」

「は?」

「お前は気づいていないようだが、いや気づかれないのが勇者の特性みたいなもんだな」

「なにが言いたい。ハッキリ言えよ」

「お前は――勇者に、ロイ・ブオムにわずかだが惹かれていた」


 なにか言おうと口を開きかけたユウに向かって、またアンスガーはフォークで指す。


「現にお前はロイ・ブオムを殺さなかった。俺の知っているユウ・サトウなら殺していたはずだ。それともしばらく見ないうちに甘くなったのか?」


 ユウは口を閉じたまま反論をしない。アンスガーの言うことも一理あるのだ。その証拠に、ユウはロイが冒険者ギルドを出ていったあとの足取りを把握していない。つい先ほど、アンスガーに勇者の動向に注意を払っていると言っていたにもかかわらずである。


「少しは理解したようだな。だがその邪■も、もう必要ない。俺の目的の一つはお前の邪■を解除するためだ。ステラとの約束は果たしたから、もうお役御免なんだがな。どうにも、あれだ……放っておけないっていうか」


 口をまごまごさせて、アンスガーはハッキリと言わない。


「余計なことをするな」

「余計なことってなんだ。俺はお前のためにだな」

「それが余計なことだって言ってるんだ」

「あーあーそうですかっ。

 言っとくけどな。お前はステラのク■ババ■にどんだけ恩義を感じているのか知らないけどな。俺からすれば――」

「ステラの?」

「クソババアって言ったんだよ」

「繋げて言うと、禁止文言に抵触するようだな」


 「クソっ」と呟いて、アンスガーはステーキのつけ合わせのニンジンを口の中に放り込む。


「ほら見ろっ。■眼を解除しないと、満足に話もできないじゃねえか」

「いいからそのまま話せ」


 言うことを聞かないユウに、アンスガーは目に見えて苛立つ表情を浮かべるのだが、何を言おうとユウが素直に聞くはずもないと諦めて話し始める。


「後悔するなよ。繰り返しになるが、ステラはお前にとっては良い婆さんだったかもしれねえが。俺からすれば鬼婆みたいな――いや、鬼より恐ろしい女だった。俺はもともと孤児でステラに拾われたんだが、その日から恐ろしい日々の始まりだったんだぞ。飯は不味いわ、訓練は死んでもおかしくないくらいきついのに、ステラは一切の手を抜かないしな。

 知ってるか? あの婆の異名は『邪■の魔■』や『氷のス■ラ』に『凍てつく■女』だ。まあ、言い過ぎじゃないってのが笑えるところだよな。それにジャーダルクの領土は、ほとんどが痩せ衰えた大地だから満足な食材が手に入らないんだが、それを加味してもステラの■る飯は不■いなんてもんじゃねえ! ありゃ毒だな。毒耐性を持つポイズンハウンドだって食わねえぞっ」


 アンスガーの言葉をすべて理解することができないユウであったが、それでも語られるその内容に驚きを隠せずにいた。あまりにも自分の知っているステラの印象からかけ離れていたのだ。


「ん? へっへー、驚いたか? ステラはお前と暮らすのが決まってから料理や裁縫を練習し始めたんだ。それまでは料理の味になんて興味のない、必要な栄養さえ取れればいいって考えの女だったからな。

 とにかく今後のことを考えれば、■眼は解いたほうがいい。その状態だと、お前は『異界の魔眼』でフォッド姓を持つ者のステータスを確認できない。相手のステータスをさして苦労もせずに見ることができるのが、お前の強みの一つだろう? このままだといずれジャーダルクとお前は本格的に争うことになる。そうなれば――」

「『双聖の聖者』か?」

「そうだ。お前が信じられないくらい強くなったのは、俺だって知っている。だが『双聖の聖者』が一人、ド■ル・フ■ッ■は正真正銘の化け物だ。なにしろ……あの野郎は神を使役・・・・するんだからな」


 嫌悪感を露にしてアンスガーは言葉にする。


「そんなことより、俺を召喚したことについて知っているか?」

「そんなことって、お前な……。ああ、知っている」

「俺のを召喚するのに、どれだけの生贄を捧げたか教えろ」

「魂……なんのことだ? 俺が知っているのは――」

「惚けるな」


 ユウは声を荒らげたわけではないにもかかわらず、ユウの発する圧力によって部屋が――いや、ル・ラランジュ全体が震える。


「待てっ! 少し落ち着けよ。もしかすると、俺がステラから聞いている情報と、お前が知っている情報とで齟齬があるのかもしれない」


 アンスガーの言葉に、ユウから放たれている圧力が消え去り、逆立っていた髪ももとに戻る。


「たくっ。俺は敵じゃねえって言ってんのに、どんだけ圧力をかけてくんだよ。見ろ、お前のせいで手汗がびっしょりだ」


 アンスガーは「ふー」と大きなため息をつくと、ナプキンで手汗を拭う。


「いいか? 今から話すのは俺がステラから聞いた話で、ステラ自身も実際に見たことはないそうだ。そこを踏まえて聞いてくれ。

 聖暦よりもずっと昔、カンムリダ王国って国があった。もうその国は滅んじまってないそうだが、その国には召喚に長けたある男がいたんだ。ある日、カンムリダ王の命令で優秀な人材を集めるよう家臣たちに王命が下された。多くの家臣たちがカンムリダ王の望む人材を集めることができないなか、召喚士の男はある術を編み出す。そう、お前の言っていた生贄を捧げることで『異界』より自分たちにとって都合のいい人材を呼び寄せる召喚――『異世界召喚』だ。この召喚の特徴は、通常の召喚と違って相手の意思を無視して、さらに条件をつけ加えることができることだ。例えば黒髪・・黒い眼・・・の少年とかな」

 ユウは黙ってアンスガーの話に耳を傾ける。


「それに……この『異世界召喚』の恐ろしいところは、捧げる生贄にあった。その生贄の数に応じて、召喚された者には強力なスキルが付与される。お前なら『異界の魔眼』と…………」

「言い難いのなら俺が言ってやる。『強奪』だろ」

「生贄が必要とはいえ、強大な力を持つ人材を手に入れることができることから、カンムリダ王国以外の国が『異世界召喚』に手を染めるのに、そう時間はかからなかった。ジャーダルクもそうだ。各国の思惑は様々だった。勇者を、英雄を、時には自分たちに都合のいい悪役を求めて『異世界召喚』を続けた。それはカンムリダ王国が滅んだあとも、廃れることはなかった」


 アンスガーは喉が異常に乾くのか、先ほどから何度もワインで喉を潤していた。


「そんなことは知ってる。俺の召喚にどれだけの生贄を捧げたのかを聞いているんだ」

「約二十万だ。ステラが調べた範囲で……わかっているだけでな」


 目を閉じてユウはしばし考え込む。普段の隙のない姿からは考えられないほど、無防備な姿であった。


「ヒルフェ収容所の最大収容人数は約十万のはずだ。他にも複数の施設があるのか?」

「俺も詳しくは知らないが、ある方法で生贄の魂を保存しているそうだ」

「聖神薬と同じ製法か?」


 ユウの口から聖神薬の名前が出たことに、アンスガーは驚いた素振りを見せる。


「そこまでは……わからない。ただ、ステラの残した日記には、聖杯の力を応用したものじゃないかと推測する記述があった」

「お前らは本当にどうしようもない屑だな」

「俺はジャーダルク人だが『異世界召喚』には関わっていない。それにジャーダルクの中にも『異世界召喚』に反対する者たちはいた。ステラもその一人だ。それに聖女派の―」

「黙れ」


 この部屋から、ユウの目の前から、即刻にも逃げ出したいという気持ちを無理やり抑え込み、アンスガーはただ黙ってユウを見つめる。


「二十万……だと?」

「生贄の多くは罪人だ」

「罪人? そいつらが、どんな罪を犯したのか言ってみろよ。俺がこの・・世界に来る前、もとの世界で意識を失う前に見た光景を教えてやろうか? 子供、女、男、老人、老若男女の死体の山だ。その死屍累々は人族だけじゃない。その多くは獣人、エルフ、ダークエルフ、ドワーフ――お前らが亜人と差別する種族だ。その中には赤子の姿もあったぞ。こいつらは生贄になった連中じゃないのか? それなら俺が見た連中が、俺を呪い殺すような眼で見ていたのも納得できるしなっ」


 それ以上アンスガーはなにも言うことはなかった。いや、なにも言えなかったのだ。

 これ以上は話す必要はないと、ユウは席を立つ。


「待て、話は終わっていない。せめて■眼を解除させろ。お前はステラとの繋がりとでも思っているようだが、その■眼のせいで能力や考えを制限されている。例えばお前は装飾をほとんど身に着けていないはずだ! それは装飾の中には魅■や誘■などを解除する物があるから――」


 アンスガーの言葉がユウの耳を素通りしていく。


「それにお前は孤独・・を恐れる。独りになることはできない。これはステラが、お前のことを考えての処置だと俺は思っている。だが、そのせいでお前は――」


 どれだけアンスガーが必死に言葉を重ねようと、扉に向かうユウの歩みは止まらない。


「俺のことは信じられなくても、ステラのことは信じろっ!」


 その言葉にユウの足が止まる。


「一つ聞きたいことがある」

「なんだ?」

「ステラばあちゃんの墓が掘り返されていたのは――」

「俺が掘り返した。ステラから、死んだあとまでジャーダルクに利用されたくないって頼まれていたからな」

「――そう、そうか……」

「待てっ! おいっ!!」


 そのまま振り返りもせずに、ユウは部屋を出ていく。残されたアンスガーは椅子に倒れるように座り込むと、毒で痛む脇腹を右手で押さえるのであった。


「話は聞いてたよな?」

「はい。すべて記憶しています」


 廊下に出たユウは、ずっと姿を消して警戒していたラスに話しかける。


「屋敷に戻ったらすぐ紙に書き起こせ。言葉は認識できなくても、文字なら認識できるのはわかっている」

「かしこまりました」




 ル・ラランジュの個室から出口へと繋がる廊下を、アンスガーは歩いていた。先頭で案内しているウェイターは白髪交じりの男性で、ウェイターのまとめ役を務める者であった。


「俺は金を払ってないんだがいいのか?」

「ご安心ください。サトウ様より、すでに頂いております」


 ユウが帰ったあとも、アンスガーは飲み食いを続けたのだ。逃亡生活で満足な飲食もできなかった分、その反動も大きかったのだろう。普段は引き締まっている腹筋も、今は少し膨らんでいる。


「またのお越しをお待ちしております」

「美味かったよ」


 恭しく礼をするウェイターにアンスガーは軽く挨拶を返すと、大通りへ向かって足を進める。ここは貴族街の一角にあるレストラン、必然的に道を行き交う者たちの身なりも平民より上等なモノで、人の数もまばらである。都市カマー内とはいえ、そこにアンスガーが混じって歩くのはあまりにも目立つのだ。


「あの野郎。人の話は最後まで聞くもんだって、ステラから教わらなかったのか」


 散々に飲み食いをしてユウに奢ってもらっておいて、アンスガーは愚痴をこぼす。

 しばらく進むと、やがて大通りが見えてくる。そこにはいつもと変わらぬ大勢の人々が道を行き交う姿が見えた。


「そこで止まれ」


 自分のほうへ向かって歩いてくる女性に向かって、アンスガーは警告するかのように言葉をかける。


「へ? 止まれってあたしに言ったのかい?」


 見るからに平民の格好をした女性は、驚いた様子で自分の顔を指差す。何人かの男性や老婆が、何事かと足を止めてアンスガーたちへ視線を向ける。道端では子供たちが遊んでいる姿が視界に入った。


「ちょっと揉め事ならよしておくれよ。あたしはただ買い物に向かう途中なんだからね!」


 怒った顔で女性はアンスガーに抗議する。


「買い物ねえ……。こっちを進んでもあるのは貴族街だ。お前みたいなド平民が行く店があると思うか? おっと、しょーもない言い訳は止めろよ。俺はここに住んでいたことがあるんだ。お前より、よっぽどカマーに詳しいんだからな」


 先ほどまで怒っていた女の顔から感情が抜け落ちた。周りで様子を見ていた老婆や男性たちも無感情な表情を浮かべ、いつの間にかアンスガーを囲むように移動していた。


「シスターステラの遺体をどこにやった?」


 同一人物とは思えないほど冷たい声で、女がアンスガーに問い質す。


「さてねー、どこにやったかな」

あれ・・は聖国ジャーダルクの物だ。こちらに渡してもらおうか」

「義理とはいえ、あんなのでも俺の母親だ。お前らクソみたいな連中に渡すとでも思ったか?」


 包囲されているにもかかわらず、アンスガーは馬鹿にするように返答する。


「裏切者め」

「いつ俺がお前らの仲間になったんだよ。ここじゃ邪魔が入る。場所を変えようや」


 道端で遊ぶ子供たちを見ながら、アンスガーが提案するのだが。


「それがどうした?」

「てめえら……」

「イリガミット教を崇拝しない者たちが、いくら死のうが我らの知ったことではない。むしろ異端者が減って喜ばしいことではないか」


 アンスガーを囲む包囲が狭まっていく。


「最後のチャンスだ。遺体のありかを教えろ。そうすれば、苦しまずに殺してやる」

「――てた」

「よく聞こえないな」

「だから捨てたって言ったんだよ。お前らクソ共が、ステラの遺体を弄りまわせないように、灰になるまで燃やして海に捨ててやった」

「き、貴様っ! 自分がなにをしたのか理解しているのか? 『双聖の聖者』ドール・フォッドの血を引く者の遺体を捨てただとっ!?」

「なーにが『双聖の聖者』ドール・フォッドだよ。種だけばら撒くクソ野郎じゃねえか。帰ったら言っとけ、そのままジャーダルクに引き篭もってろってな!」


 ブロソムに属する諜報員たちが、アンスガーへ一斉に攻撃を仕掛けようとしたそのとき――


「あ~、付与士のおじさんだ~」


 能天気な声で現れたのはニーナであった。


「ニ……ニーナっ」


 気配もなく現れたニーナに、諜報員たちは警戒する。それはアンスガーも同様であった。むしろ諜報員たちに対するよりも強い警戒感を露にして、ニーナに向かって杖を構えていた。


「久しぶりだよね。こ~んなところでなにしてるのかな? あれ~、あれれ? ここって、なにか臭わない?」


 鼻を押さえたニーナが、周囲を一瞥する素振りをする。その瞬間、一瞬にしてニーナの姿が消え、アンスガーと向かい合っていた女の後ろに現れる。そのままニーナは女の肩に自分の顔を乗せると。


「くんくん。あ~、あなたってジャーダルク人でしょ?」


 笑顔のまま話しかけるニーナであったが、次の瞬間――


「道理で臭いと思った」


 女が右手の中に隠していた懐剣で、ニーナの脇腹を突こうとするのだが、その動きが突如止まると崩れ落ちるように地面に横たわる。そのまま女が再び動くことはなかった。ニーナが女になにをしたのかを、誰も理解することはできなかった。


「女から片付けろ」


 アンスガーを包囲する諜報員のリーダー格の男が、指示を飛ばす。その声に老婆がダガーを投擲する。しかし、投擲の先にいたのはニーナではなく、道端で遊ぶ子供たちであった。動揺すればその隙を、子供たちを庇うためにニーナが動けば、残る者たちがとどめを刺すつもりであったのだが。


「がっ……はぁ……お、おま……え……子供を…………っ」


 老婆が胸を押さえながら跪く。胸部は掌の形に陥没していた。老婆はニーナの放った心の臓に衝撃を与え絶命させる暗殺技『狭掌心打きょうしょうしんだ』を受けたのだ。恐ろしいことに、老婆が投擲を放った瞬間、ニーナは子供たちへ向かうダガーに見向きもせずに、攻撃を優先したのだ。

 その子供たちはアンスガーの結界で、間一髪で死を免れていた。荒い呼吸を繰り返すアンスガーを、子供たちが不思議そうに見つめる。


「ここは一旦――かはぁっ……」


 リーダー格の男の胸部に、ニーナの右肘がめり込む。そのままニーナは男の右手首を左手で掴むと、投げ技へ移行する。暗殺技『肘投殺ちゅうとうさつ』である。受け身も取れずに頭部を地面に叩きつけられた男が最期に見た光景は、自分の仲間たちがすでに息絶えて地面に横たわっている姿であった。


「も~う、こんなところで寝てたら他の人の迷惑ですよ~」


 酔っ払いでも介抱するかのように、ニーナは肩を貸す振りをして、路地裏へ諜報員たちを運ぶと、いつものようにアイテムポーチへ死体をしまっていく。


「なんであなたがここにいるのかな? もう役目は終わったでしょ?」


 ついさっき人を殺したとは思えぬほど、平然とした顔でニーナはアンスガーに問いかける。


「どうせユウに余計なことでも伝えたんでしょ?」

「余計なことじゃない。俺は真実を教えてやっただけだ」

「知らないほうがいい真実だってあるんだよ。可哀想に、ユウは知らなくていいことを知って、今頃どこかで傷ついていると思うよ」


 後ろに手を組んで、アンスガーの顔を下から覗きながらニーナは喋る。傍から見れば微笑ましい光景にも見えただろうが、当のアンスガーは全身から噴き出す汗で濡れていた。


「お前は……なにがしたいんだ」

「あなたが知る必要があるのかな?」


 ニーナが右手に握る黒竜・爪のダガーを振るう。軌道の先にはアンスガーの首がある。黒竜・爪の刃が抵抗もなくアンスガーの首を通り抜けていく。


「ス、ステラの日記は一冊じゃなく二冊あった。そこにはお前の正体についても推測されていた」

「ふ~ん」


 ニーナの黒竜・爪が、アンスガーの左肩から右胴にかけて通り抜けていく。なぜ自分がまだ生きているのか、どうして傷もなく刃が身体を通り過ぎていくのかが、攻撃を受けているはずのアンスガー自身にも理解できなかった。


「ステラはユウを護るために、密かにレッセル村を嗅ぎまわっていた他国の諜報員たちを始末していた。その中には、明らかにステラが手を下していない遺体もあったそうだ」

「それで?」


 今度はアンスガーの右肩から左胴、逆袈裟に黒竜・爪の刃が通り抜けていく。


「お前がっ……他国の……いや、ジャーダルクも含む諜報員たちを始末していたんだっ」

「だったらどうだっていうの?」

「お前は……お前はっ…………はぁはぁっ」


 精神的な疲労でアンスガーは跪く。ニーナの振るう刃は、優に数回はアンスガーを殺していてもおかしくない。その圧力に耐えきれなくなったのだ。


「良かったね? 義理とはいえ、ステラさんの息子で。じゃなければ、ジャーダルク人なんて殺してるよ」

「舐めん――いないだとっ!?」


 顔を上げたアンスガーの前から、忽然とニーナは姿を消していた。


「くそっ。あの女はなにがしたいんだよ! それにあの能力はなんだ? 俺の身体を何度も斬り――はっ!? こ、これはどういうこった? 毒がっ、俺の身体から毒が消えている……」


 周囲を見渡しながら、アンスガーは痛みのなくなった脇腹を手で擦るのであった。




「これで全部か?」

「間違いなく」


 ユウの屋敷の自室で、ラスはユウとアンスガーの会話を文章に起こしていた。


「マスター、お待ちください。どちらへ?」


 時空魔法で創った門を潜ろうとしたユウに、ラスが声をかける。


「一人で読みたい」

「私もお傍に――」

「必要ない」

「マスター、私を信じてください」

「人を信じた結果、お前の国はどうなった?」


 ユウの前で跪くラスは顔を上げることもできずに、ただ拳を強く握り締めた。


「夜までには戻る」


 なにも言えず、ラスはユウが門を潜っていくのをただ黙って見送った。

「なんだよ、俺は死んでなかったのか」


 誰もいない人里離れた山の奥深くにユウの姿があった。斜面に身体を預けながらラスの書き起こした紙を読み、興味なさげに呟く。


「あー、それにしても笑うよな。俺を召喚するのに、何人だっけ? ああ、二十万人か」


 真っ赤な夕日が、ユウの顔を照らす。


「あー、笑うよな」


 同じ言葉をユウは呟く。


「たった一人を、俺一人を呼ぶのに普通二十万人の魂を使うか? 馬鹿なんだろうな…………。あー、本当に馬鹿ばっかりだ。あー……あー…………あぁ…………っ」


 ユウは身体を起こすと、胸を押さえる。今までに経験したことのない痛みを感じたのだ。どんな痛みにも耐えてきたユウが、その痛みに堪え兼ねて蹲る。ユウが堪えることのできない初めての痛みで――いや、初めてではなかった。ステラが亡くなったときにも、同様の痛みがあったのだ。


「ばあちゃんが…………」


 顔を上げたユウが真っ赤な夕日を見つめる。


「ばあちゃんが俺なんかに優しくするからっ…………俺、弱くなったよ」


 どれだけ人を殺そうと、どれだけ人が死のうと、敵や自分と関係のない者であれば、なにも感じることはなかった。

 ステラに出会う前のユウなら感じることのなかった痛みが、ステラの優しさが、温もりが、あの幸せな日々が、ユウを弱くしたのだ。なんの罪もない者たちが、自分を召喚するためだけに殺されたことに、ユウの心が張り裂けんばかりの痛みを感じていた。

 誰に聞かれることもなく、ユウの声にならない慟哭が山々に響く。

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