第295話 一度だけ

 まるでバケツに入った血でもひっくり返したかのような、真っ赤な空であった。

 鍾塔を見上げれば、巨大な鐘を狂ったように打ち鳴らす男の姿が、遠くからでも見えた。だが、鐘の音が人々の耳に届くことはない。広場に集まった群衆の怒号や罵倒の声のほうが、鳴り響く鐘の音よりも大きかったのだ。

 灼熱のような夕日によって照らされた人々の顔は、狂気の色に染まっていた。人々は口々に罵りながら、広場の中央で磔にされている者に向かって石を投げつける。

 磔にされている者の性別は顔からは判別できなかった。夕日を背に逆光――だったからではない。顔は――遠目からでもわかるほど醜く腫れ上がっていたのだ。群衆の投石によるものである。磔台の周囲にいる騎士たちは、それを止めようともせずにただ黙って見守っている。

 目を凝らしてみれば、磔にされている者の目は斬り裂かれ、喉は潰されているのがわかっただろう。視覚と声を奪われていたのだ。本来は真っ白なローブなのだろうが、投石によって血や泥まみれになっている。そして、ローブの輪郭から磔にされている者が女であるというのがわかる。なによりその特徴的な髪の色・・・が――


「どうしてっ!!」


 子供が、胸が張り裂けんばかりの声を上げる。ぼろを纏った、髪はボサボサで肌は汚れが何重にもなってこびりついている、一目でスラム街に生きる者だとわかる容姿であった。


「おーねえちゃん、どうしてみんなサクラ・・・にひどいことをするのっ?」


 別の子供が赤毛・・の少女に問いかける。


「サ、サクラねえちゃんが、あのままじゃしんじゃうよ~……っ」

「みんなひどいやっ」

「うわ~ん、サクラねえちゃんにひどいことしないでぇ~!」


 泣き叫ぶ子供たちの声は、群衆の怒号によってあっという間にかき消された。


「あ……ああ…………っ」


 赤毛の少女は、磔にされているサクラを見ながら、嗚咽する声を漏らす。


「サクラぁ…………。あ、ああっ……だから、わたしは言ったのに…………あなたは優しすぎるから……あっ……あんだけ、ダメだって言ったのに…………あ、ああ……どうして、こんなことに……」


 赤毛の少女は、どこかでガラスにヒビが入るような音が聞こえた。遅れて赤毛の少女たちの周囲から怒号が消え去る。群衆の目が、磔台から赤毛の少女たちへと注がれていた。昏く濁った瞳であった。そのくせギラギラと狂気を帯びた眼で、赤毛の少女たちを見つめている。


「行くよ」

「どうして? サクラは?」

「いいからっ!」

「ぼくやだよっ!!」

「わたしの言うことを聞いて!!」

「やだやだっ!!」

「早くっ!!」


 赤毛の少女は、地面に座り込む子供たちを無理やり立たせると、そのまま引きずっていく。一刻も早くこの場から――いや、この国・・・から逃げなければいけないと、危険だと判断したのだ。

 後ろから大きな歓声が聞こえてきた。赤毛の少女が振り返ると、そこには炎に包まれた磔台が目に映った。その光景を見ながら、群衆は狂ったように嗤い声を上げているのだ。またどこかで、なにかにヒビが入る音を赤毛の少女は聞いた。


「いい? このまま歩いていくの、道沿いはダメだからね。できるだけ草むらや森の中を通って歩くの」


 普段は出ることを禁じている町の外壁の外に、スラム街の子供たちを集めて、赤毛の少女が指示を出す。


「どこまでいくの?」


 赤毛の少女の言葉に、まだ幼い子供が尋ねる。


「どこまでもよ」

「そんなのむりだよ~」


 別の子供が泣きながら無理だと言う。


「無理でも行くの」

「おーねえちゃんが、いつもおそとにいっちゃダメっていってるのに」

「今日は、ううん。今日からはお外に出なくちゃいけないの」

「わたしたちだけじゃ、しんじゃうよ…………」

「それでも行くのっ!」

「どうちて?」

「お願いだから、わたしの言うことを聞いてっ!!」

「ふえっ……。おーねえちゃん、おこらないで~。わたち、いいこにするから~」


 赤毛の少女が怒っていると勘違いした幼女が、泣きながら謝る。


「サクラねーたんは?」

「あとで…………あとで来るから」

「おーねえちゃんは?」

「わたしもあとで追いかけるから。さあ、早くっ! 時間がないのっ!!」


 駄々をこねる子供たちを、赤毛の少女は半ば無理やり送り出す。子供たちの姿が見えなくなるまで、赤毛の少女はずっと見送った。


「元気でね。絶対に死んじゃダメだよ」


 子供たちの姿が見えなくると、赤毛の少女は独り呟く。あとは自分が時間を稼ぐだけだと。

 どれだけの時間が経ったのだろうか。やがて赤毛の少女が予想していたとおりに、馬に跨った騎士たちが姿を現した。ただし――町の中からではなく外からであった。


「逃げられると思ったかっ!」


 胸騒ぎがする赤毛の少女へ、騎士の一人が槍の穂先を突きつけながら叫ぶ。


「受け取るがいい!」


 騎士たちが、赤毛の少女に向かって一斉になに・・かを放り投げる。それ・・は地面で小さく跳ねて、そのまま転がっていく。その一つが赤毛の少女の足に当たって止まった。


誰一人・・・として逃すものかっ! 黒の聖女を崇拝する異端者共めっ!!」


 赤毛の少女は、よく見知ったそれを胸に抱きかかえる。


「あ……ああっ…………あああああああああっ!!」


 今度はハッキリと聞こえた。

 赤毛の少女の――心が砕ける音が。




「ふあ~。よく寝た」


 いつもの夢から目覚めたニーナは、大きな欠伸をしながら背筋を伸ばす。


「う~ん、今日もいい天――あれれ? 今日は曇りかぁ」


 窓から外を見ると、雨は降りそうにないものの、雲が太陽を覆い隠していた。


「おはよ~!」


 居間に降りると、ニーナは元気に皆へ挨拶をする。


「おう。ニーナ、ひでえ寝癖だな」

「え、うそ!? あわわっ」


 ジョゼフに寝癖を指摘されて、ニーナは慌てて髪を押さえる。


「わははっ。見ろ、ユウ! いっちょ前に気にしてやがるぞ」


 居間のソファーでふんぞり返っているジョゼフが、ニーナを指差しながら笑う。


「お前が言うな」


 ニーナ以上に寝癖をつけて、さらに手入れもされていない無精ひげを曝け出しているジョゼフへ、ユウは冷たい目を向ける。


「アガフォンたちはまだ『ようち園の迷宮』から戻ってねえのか。せっかく、俺が直々に鍛えてやろうと思っていたのによ」


 ジョゼフの言葉に、ティンたちがピクリと反応する。マリファの訓練とはまた違った意味で地獄なのだろう。


「『妖樹園の迷宮』な」

「ふっ……。そうとも呼ぶみてえだな」

「それ以外の名称はないからな」

「朝からやいやい言うなよ。それより今日の朝飯はなんだ? まだ決まってないなら、俺はてんぷーらを食いてえな」

「てんぷーらじゃなくて、天ぷらだ」

「呼び名なんてどうでもいいじゃねえか。じゃあ、そのてんぷらを食わせてくれよ」

「嫌だ」

「なんでだ?」

「朝からそんな面倒なモンを作ってられるか。あと、お前の顔がうざいからだ」


 「ぐぎっ」と情けない声を漏らすジョゼフを見て、ティンが口元を手で覆い隠す。


「冗談だよな?」

「ああ、半分冗談だ」

「半分は本当なのかよっ!」


 とうとう堪えきれずにレナやティンが吹き出す。当のジョゼフはなにやらそわそわする。こんなゴリラ面をしておいて、この男はユウから良く思われたいのだ。チラチラとティンたちのほうへ、ジョゼフは視線を送る。察しのいい魔人族のネポラは小さく頷くと。


「ご主人様、ジョゼフさまから頂いた物があるのですが」

「ジョゼフから?」


 「ふふんっ」と偉そうにジョゼフはふんぞり返ると、手をクイクイッと動かし、ネポラへ続けたまえとでもいうように合図を送る。


「はい、こちらをご覧ください。ランク6の鎧鱗鰐や水針獅子、中にはランク7の五百年百足の素材まであります。鎧鱗鰐は素材も貴重ですが、その肉は珍味で酒の肴になると、重宝されているほどです」


 ネポラはそう言うと、メイド服に縫いつけられているアイテムポーチから、次々に魔物の素材を取り出し、テーブルの上へ並べていく。銀色の毛皮や重厚で大きな牙、赤黒い甲殻にどのようにして手に入れたのか金色に輝く糸の束まである。さらに肉の塊をネポラが並べると、ユウに撫でられていたコロたちが鼻をひくひくさせながら、そわそわしだす。そしてジョゼフは「ん、んんっ」と咳払いしながら、さらにふんぞり返る。


「酒の肴? それってジョゼフが食べたかっただけじゃないのか?」


 ネポラはユウに向かって微笑むと、そっと視線を逸らした。


「それにジョゼフはしょっちゅううちで飲み食いしてんだから、ちょっと高価な素材くらい貰ってもよくてトントンってところだろ」

 先ほどまで調子に乗っていたジョゼフは、気づけば意気消沈ゴリラである。そして居間では、ユウたちとは離れた場所でいがみ合っている者たちがいた。


「腐臭がすると思えば貴様かっ」

「干物がなにか言ったか?」


 ラスとクロである。互いに一定の距離を保ったまま睨み合っているのだ。


「干物とはまさか我のことではないだろうな?」

「お主以外に誰がいる」

「そもそもなぜ貴様がここにいるのだ。マスターのことは我がお護りしているのだ。さっさと国に戻って獣人共と遊ぶがよい」

「某がなぜお主に説明せねばならん。お主こそ国へ戻るがいい。主は某が護ろう」

「ほう……。ゴブリン風情が、どうやってマスターをお護りするつもりなのか、我は興味が湧いたぞ」

「その干からびた身体で試してみるか?」


 魔力や瘴気をぶつけ合って威嚇する二人に、ナマリとモモはため息をつく。


「二人とも、仲良くしないとダメなんだぞ!」


 見兼ねたナマリとモモが二人を叱るのだが、二人は互いにそっぽを向いて視線を合わせようとしない。クロとラスがいがみ合うのはいつものことなので、今ではケンカを止めるのはナマリとモモくらいである。

 居間で騒々しいラスとクロに、無表情であるが全身から冷気を思わせる空気を漂わせるのはマリファである。危険を察知したティンが「そうだ、ティンはお手伝いするところでした。やんなっちゃう」と台所で朝食の準備をしているヴァナモたちのところへ、そそくさと逃げていく。


「夜ならいいぞ」

「あん?」


 朝食のホットサンドを頬張りながら、ジョゼフはユウを見る。


「さっき天ぷらを食べたいって言ってただろ」


 わずかにジョゼフは目を見開くと、ニヤリと笑う。


「なにをニヤニヤ笑ってんだよ。気持ち悪い奴だな」

「素直じゃないガキだな」

「口元にパンカスつけてる奴に、ガキ呼ばわりされたくないな」


 ナマリとモモがジョゼフを指差して笑う。するとマリファが「あなたたちもですよ」と叱る。二人は慌てて口元を拭っておとなしく食事を再開する。


「ユウ、なにか悩んでいるな?」

「わかるか?」


 数日前にも同じようなやり取りがあったことを、ニーナたちは思い出していた。


「俺くらいになるとな、ひと目でわかっちまうもんなんだ。ほれ、言ってみな。悩みがあるんだろ?」


 マリファは内心で「よせばいいのに」と呟く。


「そうか。まずジョゼフ、お前が洗面所を使ったあとはいつも床が水でべちゃべちゃだ。それに風呂へ入るのは構わないが、脱いだパンツを廊下に脱ぎ散らかすな。まだあるぞ。お前が脱いだ靴が異様に臭いし――」


 ユウの小言に、ジョゼフはどこか遠くを見つめるようにあらぬ方向へ視線を向けながら、おもむろに椅子から立ち上がる。ネポラが「残念です」とでも言いたげに左右へ首を振り、ジョゼフへワインの入ったグラスを手渡す。ジョゼフは片足を上げて「ぶっ」と屁をかまし、ささやかな抵抗をしたあと、そのまま居間から別室へ逃げるように去っていく。


「なんだあいつ? 逃げるなんて男らしくないな」

「ジョゼフさんも反省してると思うよ~」


 ニーナがジョゼフのフォローを入れるのだが。


「いいや! あいつがこれくらいで反省なんかするかよ。お前らが甘やかすから、あんな風にワガママでだらしない大人になるんだぞ」


 とばっちりである。ニーナは「うへぇ」と困った顔でレナやマリファに助けを求めるのだが、二人共そっと視線をニーナから逸らす。


「二人共、ズルいよ~」

「ニーナ、俺の話はまだ終わってないぞ」

「だって~」

「まあいい。今日は迷宮に行く予定もないから、たまには食材の買い出しにつき合え。マリファ、今日の買い出し当番は誰だ?」

「ご主人様、わた――ふぐっ!?」

「私です」


 ヴァナモが返事をしようとしたそのとき、横からマリファがその口を押さえて返事する。


「じゃあ、俺とニーナも手伝うから、あと――」

「……私はダメ。今日はナマリたちと孤児院に行く予定。そこで子供たちに究極の魔法を見せる約束をしている」

「い、家の手伝いと宿題をしてから行くんだぞ!」


 ユウがナマリとモモを見ると、慌ててナマリが説明する。


「それならクッキーを焼くから一緒に持っていけ。あと暗くなる前には帰ってこいよ」

「うん、わかった!」


 満面の笑みを浮かべたナマリが元気に返事する。




「ニーナさん、なにをもたもたしているんですかっ。さあ、次はあそこの店に行きますよ!」


 都市カマーの大通りを、マリファがニーナの手を引きながら走る。


「ちょ、ちょっと待ってよ~」


 マリファを知っている者がこの場にいれば、さぞ驚いたことだろう。氷のような女と形容されることも多いマリファが、楽しそうに買い物をしているのだ。


「マリちゃん、そんなに急がなくても大丈夫だよ~」

「いいえ、ご主人様をお待たせするわけにはいきません」


 人込みの間をすり抜け、その先で待っているユウを見つけると、マリファは思わず笑みを浮かべる。


「ご主人様、お待たせしました」


 効率よく買い物をするために、ユウの提案で別れていたマリファは少しでも早くユウのもとへ戻ろうと、急いで買い物を済ませたのだ。


「いや、そんなに待ってない。急がずに戻ってくればよかったのに」

「ご安心ください。私は少しも急いでいません」


 マリファの後ろで、ニーナが「マリちゃんのウソつき~」と言う声が聞こえてくるのだが、マリファの耳には届いていなかった。


「そうか」

「はい」


 ユウに見つめられるだけで、マリファは自分の身体の体温が上昇しているのを自覚する。変な顔をしていないだろうか。見苦しい姿でユウに不快感を与えていないだろうかと。先ほどから喜んだり、不安になったり、マリファの心情は目まぐるしく変わり、大忙しである。

 先日、ロイ・ブオムが冒険者ギルドに来たときは、勇者と名乗られてもマリファは一切の興味を示すことはなかった。だが、ロイがユウの耳元で囁いた「もとの場所へ帰りたくないか?」という言葉は見逃すことはできなかった。ロイがユウに渡した封筒の中身を確認することは叶わなかったが、その日は不安でマリファは寝ることができなかったのだ。だが、それから数日経ってもユウに変化はない。それどころか今日は一緒に買い物に出かけているのだ。自分の心配は杞憂であったと、マリファの記憶からはすでにロイの名前や顔すら消え去りつつあった。


「ご主人様、なにか気になることでも?」


 マリファがユウの視線の先を追った先には、人だかりができていた。どうやら大通りの商店と商店の間にある狭い路地を利用して、露店を展開しているようであった。マリファが目を凝らすと、人だかりの隙間から商人の男が細長い棒で伸びるアイスクリームを器用に操っているのが見えた。


「ユウ、アイスクリームが食べたいの? それなら――」

「私にお任せください」


 そう言うや否や、マリファは露店に向かう。


「珍しいね。ユウが露店の氷菓を食べたがるなんて」

「ニーナ」

「ほえ?」

「お前って人のことを信じられるか?」


 露店に並ぶマリファを見ながら、ユウがニーナへ唐突に問いかけた。


「あははーっ! なにそれ~」


 ニーナが腹を抱えながら大笑いする。


「信じるわけないじゃない」


 どうしてそんなわかりきったことを聞くのだろうと、ニーナは不思議そうにユウを見つめながら答える。


「そっか」

「そうだよ~」

「そうだよな。あんまりにも周りの連中が信じろ信じろって言うもんだから、俺がおかしいのかと思った」

「ダメだよ~。そんな嘘に騙されちゃ」


 ニーナは人差し指を立てて、大人が子供を注意するように、ユウへ話しかける。その姿になにを思ったのか、ユウの口角がわずかに上がったかのように見えた。


「勝負しないか」

「え~! ユウ、いきなりなにを言うの? それに私じゃユウに勝てっこないよ~」

「勝負って言っても、鬼ごっこ・・・・だ。俺が鬼で、日が暮れるまでニーナが逃げきれたら勝ち」

「う~ん」


 悩むニーナを見ずに、ユウは露店に並ぶマリファの位置を確認していた。


「ニーナが勝てば、デートしてやるぞ」

「………………ホントに?」


 ユウの言葉を疑うように、ニーナが確認する。


「ああ、本当だ」

「デートって、二人だけで?」

「普通はデートって言ったら、二人だけでするものじゃないのか?」

「うん、うんっ!」

「勝負をする気になったか?」

「なった! 私、ぜ~ったいに負けないからね!! あとでやっぱりなしとかダメだよ?」

「じゃあ、今から開始だ。マリファが戻ってくると、揉めそうだしな」

「そうだね」

「ニーナの姿が見えなくなって一時間後に、俺は動くからな。精々、必死に逃げ回るんだな」

「えへへ。私は捕まらないもんね~」


 ニーナは嬉しそうに人込みの中へ、溶け込むように消えていく。少し遅れて、マリファが両手にアイスクリームを持って戻ってくる。


「ご主人様、お待たせし――ニーナさんの姿が見えませんが?」

「ニーナなら夜まで戻ってこない」


 ユウの言葉に、マリファは胸騒ぎを覚えた。言いようのない不安が押しよせ、胸の鼓動が自然と速くなっていく。


「なんだ二つだけか。自分の分は買わなかったのか?」


 ユウはマリファからアイスクリームを受け取る。


「ニーナはいないから、そっちはマリファが食べればいい」


 ユウから食べるように言われても、マリファは固まったままである。


「理由をお聞きしても……よろしいでしょうか?」

「勇者と会うのに邪魔だからな」


 マリファは自分の血の気が引いていくのがわかった。


「ど…………どう、して……でしょうか。あ、あのような者に、ご、ご主人様がっ……」


 マリファは身体が震えて、呂律が上手く回らない。


「勇者ってのは差別をしない。それが他種族だろうが、たとえ相手が罪人であろうと平等に接する。全種族の正義・・の味方、それが勇者って存在なんだろ? 俺は誰も信じていないが、一度・・だけ信じてみることにした」

「――ダメッ…………」


 信じられないことに、マリファがユウの決めたことに反対した。自分で言ったことが信じられないのだろう。マリファは自分の唇を、震える右手で触れる。左手に持っていたアイスクリームが手から落ちて、地面に染みを作っていた。


「ご主人様、私の愚考を、お……お許しください。ですがっ……私は、反対です。あの……ロイ・ブオムという者と、お会いするのは、反対ですっ」


 ユウがなにも言わずに、なにかしている気配だけが伝わってくる。マリファは怖くてユウの目を見るどころか、顔を上げることすらできなかった。


「これ預かっておいてくれよ」


 恐る恐るマリファが顔を上げると、ユウが自分のアイテムポーチを差し出していた。


「こ……こちらは…………?」

「俺の装備が入ってる」

「あ…………ああっ…………ダメ、です」

「信じるって決めた以上、武具を身に着けて向かうのはおかしいだろ」

「ご主人様っ!」


 マリファがその場で跪く。大通りを行き交う人々が何事かと見てくるのだが、マリファはそれどころではない。


「私が、私が随行することをお許しください。どうか、お願いいたします! 決して、ご主人様の邪魔をするような真似はいたしませんっ!!」


 地面に額がつくほどに頭を下げながら、マリファは心の中で「わかった」とユウが言ってくれるのを祈った。


「俺だけで向かう」

「そ…………そんなっ。わ、私になにか至らぬ点が、あ……あるのなら」

「お前はよくやってるだろ」

「では、わ、私ではなく、レナやクロさんを、いいえっ! ラスでも構いません! どうか、誰かお供をっ!」


 朝の光景をマリファは思い出す。普段はいないクロやラスが揃って屋敷にいたこと、今思えばジョゼフとのやり取りもおかしい。ナマリに暗くなる前に帰るよう伝えていたことも。


「あいつは――ロイ・ブオムは一人で俺を待っているそうだ。なら俺も一人で向かう。そんなに心配するな。ちょっと話してくるだけだから」


 ユウは涙を流すマリファの手に自分のアイテムポーチを握らすと、雑踏の中へ向かう。そのあとをマリファは追うことができなかった。マリファにとって、ユウは絶対的な存在であった。


「ちっ……違い、ます。わ、わた、しは……ご主人様の、心配では…………なく。私は、ああ……ご主人様が、私の前からいなくなるのを、しん……心配したの…………です。ああ…………どうすれば、……私はどうすればっ」


 幽鬼のようにマリファは立ち上がると、あてもなく歩き出す。どれほどの時間を歩いただろうか。自分のいる場所もわからぬまま、マリファは歩き続ける。


「おう、どうした?」


 男の声であった。涙で歪んであまり見えぬマリファであったが、その声は聞きなれた男の声であった。


「ジョ…………ゼフさん?」

「ユウと買い出しに行ってたんじゃないのか?」

「ご主人様はっ……一人で…………私は、愚かな女です。ああ、どうすれば……どうして、連れていって…………ううっ」


 マリファが言っていることは支離滅裂である。それでもジョゼフは辛抱強く、マリファの言葉に耳を傾ける。


「ニーナはどうした? 確かニーナなら影のスキルかなんかで、ユウのもとまで行けるだろう?」


 要点を得ないマリファの言葉をなんとか理解したジョゼフが、ニーナについて質問する。


「ニ、ニーナさんは、いま…………せん。夜に、夜になるまで、ご主人様が……っ」

「わかった」


 ほとんど会話にならないマリファに向かって、ジョゼフは笑みを浮かべる。いつものふざけた笑い方ではない。大きく、それでいて安心感を与える漢の笑みであった。


「なら話は簡単だ。マリファ、お前は屋敷に戻ってティンたちにニーナを探させろ。入れ違いになると拙いから、お前は屋敷で待機しておくんだぞ」

「で、でもニーナさんは……」

「それでも探すんだ。俺は俺でユウを探すから任せろ。なーに、そんなに心配することはないだろ。ユウはちょっとロイに会って、話すだけって言ってたんだろ?」

「は……い。わかりました」


 ジョゼフは再度マリファに向かってニカッ、と笑う。取り乱していたマリファは、幾分か落ち着きを取り戻していた。


「それじゃ、俺は行くからな」

「はい。よろしくお願いします」

「ワハハッ。俺に任せておけって」


 背を向けて手を大きく振るジョゼフに、マリファは深く頭を下げる。


「ジョゼフの旦那、なにかあ――」


 なにかあったのかと、人込みの中から冒険者の男たちがジョゼフに声をかけようとしたのだが。


「ち、違っ……。お、おお、俺ら……別にっ」

「そうなん……っす。なんも、勘弁して…………くださいっ」

「マリファさんが、困ってるって……聞いて…………本当に、それだけなんですっ……」


 冒険を生業にしている者たちが、自分より強大な魔物と戦うことも珍しくない者たちが、ジョゼフとまともに目を合わせることもできずに、ただ許しを請うように震えて言い訳を口にしていた。

 そこには、まさに怒髪天を衝くといった怒りの形相になったジョゼフがいた。ジョゼフは俯いたまま震える冒険者たちを一瞥もせずに、前を通り過ぎていく。冒険者たちは安堵からか、腰を抜かしてその場に座り込んだ。


「ひっ」

「な、なんだ!?」


 大通りを行き交う人々が、本能で危険を察知してジョゼフの前を開ける。それは異様な光景であった。人でごった返す大通りが、ジョゼフの前だけ開けているのだ。大通りの角を曲がり、マリファから見えなくなると、ジョゼフはムッスの館へ向かって駆けだすのであった。

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