第241話 意気消沈
息を吸えば澱んだ空気によって、肺が拒絶するかのようにむせ返る。大地から滲み出るように黒や紫色の瘴気が立ち上り、遠くに見える山の頂上では際限なく噴き出る溶岩と噴煙によって発生した火山雷の稲光と轟音が、空気を伝わり全身を震わすかのように音を叩きつける。
そして周囲を見渡せば、徘徊しているのはランク6のレッサーデーモンやグレーターデーモンにフローズンデビルなどの天魔である。
そのさまは、まさにこの世の終わりと言っても過言ではないほどの、想像を絶する光景であった。
「え? どういうことかな」
ニーナは眼前に拡がる地獄のような光景に、わかっていても尋ねられずにはいられなかった。
「どういうことかな?」
再度ニーナは無駄とわかりつつも努めて笑みを浮かべ、先ほどから無表情のユウへ視線を送りながら同じ言葉を呟いた。
「あ、あはは。はぁ……」
乾いた笑い声のあとに小さなため息をつくと、ニーナは少し前のことを思い出す。
「わわっ。レナ、あそこ見て! あ~んな大きなお肉の塊を焼いてるよ」
「……芳ばしい匂いがする」
「あちらでは木を使った装飾を売っているようです」
王都テンカッシに着いた早々にローレンス一味と騒動はあったものの、ユウたちは無事に王都へ入場することができた。
初めての王都にニーナたちは興奮が隠しきれずに、道端に構える様々な露店へ気を取られてしまう。しかし、そんなことお構いなしにユウは先へ先へと足早に進んでいく。足が止まっていたニーナたちは慌ててユウを追いかけるのであった。
「わーっ! もしかして、あそこに泊まるのかな?」
「……お城みたい」
「ご主人様のお城ほどではありませんが、この宿も素晴らしい造りです」
やっとユウが足を止めたのは、小城と言われても信じてしまいそうなほど立派な宿の前であった。
「サトウ様、お待ちしておりました」
「「「ようこそ。コンコンラッド・バリルへ」」」
支配人の男の言葉に続いて、整列する従業員が一糸乱れぬ動きでユウたちを出迎える。
「す、凄いね。でも、どうしてユウの名前を知ってるのかな?」
「ここはビクトルの紹介で予約を取った宿だからだな。王都でも五本の指に入る高級宿らしいぞ」
「それほどまでに評価していただいているとは恐縮です。
あのビクトル様からご紹介されたお客様です。私どもとしても粗相があっていけないと、内心では恐々としております」
高級な宿の接客に慣れていないニーナが動揺を隠せず、不安そうに辺りをきょろきょろと見渡す。その横ではレナが一流の宿に相応しい装飾や魔道具に興味津々で、触ろうとしてマリファに叱られていた。
「レナ、みっともない真似はよしなさい」
そう言いつつも、マリファも王都の一流職人が手がけた絵画やテーブル、椅子などの装飾をチラチラと横目で盗み見していた。
「皆様に好評のようで、支配人としては一安心です。
では、お部屋の方へご案内させていただきます」
通常は支配人自らが宿泊客を案内することなどないのだが、それほどまでにビクトルの持つ影響力が強いのだろう。
ロビーを通り抜けると、手入れが行き届いている広大な中庭が目に飛び込んでくる。
「ユウ~。どれもこれも凄すぎて、なんだか頭がくらくらしてきたよ~」
腰が引けたニーナは、ユウの袖を掴みながらの移動である。
「……あの鳥は南の方で生息しているはず」
「レナ様は博識でいらっしゃいますね。
あちらはデリム帝国でも一部の地方にしか生息しないオオオニハシでございます。ご覧の通り見た目麗しい鳥なのですが、温暖な気候でしか飼育できないので、この中庭は結界師に依頼して常時結界を張り巡らせて温度を管理しています」
「……魔道具も使ってる」
中庭にいる鳥はオオオニハシだけではなく。様々な地域の植物や色彩豊かな鳥たちが、適した温度や環境で放し飼いされていた。これだけでもどれほどの維持費がかかるのか。王都テンカッシで五本の指に入る宿というのも頷けるほどの設備であった。
「こちらがお部屋にございます」
支配人に案内された部屋の広さは、宿ということを忘れそうなほどのものであった。風呂だけでも三つも備わっており、それぞれが違う景色や機能を備えていた。
興奮したレナが支配人へ気になる物を片っ端から質問攻めしている姿に、ニーナが苦笑する。
宿のルールを一通り説明し終えた支配人が退出すると、ニーナたちの肩から力が抜ける。緊張して余計な力が入りっぱなしであったのだ。
「ぬふふっ」
ニーナが気味の悪い笑みを浮かべる。ベッドに腰掛けるレナの旋毛のアホ毛も興奮しっぱなしなのを表すかのように、くるくると回転している。いつもと変わらぬ様子でユウの傍に控えるマリファも、目を凝らしてみれば、耳が小刻みに動いているのがわかるだろう。
「なんだよ。気持ち悪いな」
「だって今から王都観光なんだよ! 楽しみすぎて変な笑いもでるよ~」
「……ニーナ、子供みたい」
「レナだって楽しみなくせに~」
「小さな子どもじゃないんですから、もう少し落ち着きをもってください」
「……素直じゃない妹」
姦しいニーナたちから距離を取るコロとランがユウのもとへ近づくと、ちょうど時空魔法で扉を創っているところであった。
「あれ? ユウ、どっか行くの?」
「黙ってついてこい」
ニーナの女の勘が告げていた。
嫌な予感がすると――
横にいるレナを見れば、同意するように頷いていた。
「ニーナさんもレナもなにをしているのです。行きますよ」
後ろからマリファとコロたちにせっつかされて、門を潜った先は――
「どういうことかな?」
ニーナは三度目の言葉を繰り返した。
「ここは『悪魔の牢獄』の中層だ。
難易度的には『腐界のエンリオ』の下層と同じくらいで。さらに二、三層も潜れば最下層と変わらないだろうな。そっから先はAランク迷宮と呼ばれるに相応しい魔物がゴロゴロ出てくる」
「……『悪魔の牢獄』、Aランク迷宮」
ただならぬ瘴気にレナのアホ毛がビンビンに反応する。
「そうだ。ウードン王国でも数少ないAランク迷宮だ」
「ご主人様、わかりました。私たちに――」
ユウの意図を察したマリファが言葉を紡ごうとするのだが――
「だめ~っ!!」
ニーナの待ったがかかる。
「なんですかニーナさん。いきなり大きな声を出さないでください」
人族より聴力の高いマリファが、耳を手で塞ぎながらニーナに抗議する。
「だって……。だってせっかくユウと一緒の王都なのに……。そ、それに! ほら、レナとマリちゃんの装備はいくつか壊れてるんだよ」
「私は大丈夫です」
マリファに呼応してコロとランが勇ましく吠える。そんな姿を見せられては、自称天才魔術師を名乗るレナも黙ってはいられない。
「……私も問題ない。なぜなら天才魔術師だから」
「そんなのダメダメのダメー!
えっと、こほん。まともな装備も身につけずに、迷宮に挑むような舐めた奴は死ぬぞ」
「……ぷぷっ」
ニーナのモノマネに、レナが堪えきれずに吹き出す。
「それって、まさか俺の真似じゃないだろうな」
「い、いひゃいよ~」
ユウに両頬を抓られてニーナが涙目になる。
「公にはなっていないが、俺はAランクが内定している」
「うっそ!?」
「さすがはご主人様です」
驚きの表情を浮かべるニーナと尊敬の眼差しを向けるマリファ、レナは悔しそうに歯を噛み締めている。
「嘘じゃない。
『悪魔の牢獄』の
そんな俺でもSランク迷宮は単独で攻略しようとは思わない」
「Sランク迷宮って『天死山脈』『グリム城』『大獄炎界』のこと?」
ニーナが誰もが知っている迷宮の名を出す。
「そりゃ三大魔王の住処だろうが。冒険者ギルドや人族の国は迷宮扱いしているが、あれを迷宮って呼んでいいのかと俺は思うぞ」
「門番ってなにを守ってたの?」
さらにニーナがなんとか話を変えようと質問を続ける。
「なにって封印だよ。まあ、封印されてたのはガリガリの痩せ細った辛気臭い魔王なんだがこれがまた異様に強く――ニーナ、話をそらすな。
Sランク迷宮の中には、レベルが高いほど凶悪な弱体化の魔法を受ける階層や手当たり次第に転移する階層、運が悪けりゃ空気もない場所に飛ばされて一発で終わりだ。魔物だって階層のボスでもないくせに単体で高位天魔や巨人に匹敵する強さの魔物がわんさかいやがる。
Sランク迷宮はそんなところだ。俺だって一人で攻略するのは難しい」
誰もがどれだけ金を積まれても、行くのを拒否するよう場所の話をしているのに、レナは興奮して旋毛のアホ毛がビンビンに逆立っていた。
「なのに、お前らはムッスの食客なんかに負けただろ。相手は格上、それでも俺は勝つと思ってたのに」
他の者が聞けば笑い飛ばすような話である。
ムッスが抱える食客は、百を超える高位冒険者や傭兵のなかから選び抜いた最精鋭である。レベルも経験もすべてがレナたちの遥か格上の相手、その食客を相手にユウはニーナたちが勝つと思っていたのだ。
いずれ挑むSランク迷宮にパーティーとして連れていくつもりが、その前のそのまた前の試験段階で転けたとユウが受け取るのも仕方がないだろう。
「私は勝ったよ」
「……私も勝った」
「ご主人様、私も途中で邪魔が入ったので勝敗は決していません」
「えっ」
ニーナたちの予想外の返答に、思わずユウの口から間抜けな声が漏れる。
「ニーナは見てないけど、レナとマリファは負けただろうが」
「本当だよ。ジョゼフさんに聞いてくれれば、私がジョズさんに勝ったのを証明してくれるから」
両手をグルグル回しながらニーナが主張する。
「……私は絶対に負けてない」
「ご主人様にお仕えする私が負けるはずがありません」
レナがミスリルの箒を振り回しながら負けていないと主張し、マリファも同様に負けていないと、声を荒らげないものの強く主張する。
「ほんとなんだよ~。レナとマリちゃんは負けたんだけど、私は勝ったんだって~。
そうだ! レナたちはこのまま迷宮で特訓して、私とユウは二人で~、ぬふふっ。デートを――あいだっ!? レナ、なにするの? やめてよ~」
レナがニーナの脇腹に頭突きをかます。そのたびに「……私は負けていない」と呟く。
「主、少しよろしいでしょうか?」
「ん? なんだよクロ」
今まで黙ってユウたちの話を聞いていたクロが声を上げる。
『悪魔の牢獄』というAランク迷宮の中層で魔物が襲ってこず、呑気に長々とお喋りができるのも、クロの全身から放たれる悍ましい瘴気が原因であった。
屈強な天魔たちが徘徊する中層であっても、クロの放つ瘴気、魔力、圧力は、天魔たちが警戒して距離を置くほどのものであった。
「ちょっ。クロちゃん、動くと瘴気がっ」
「……ニーナ、落ち着いて」
木龍との戦いで砕け散ったクロの装備であるが、ユウから新しい装備を授けられていた。どれだけの返り血を浴びればそこまで赤黒くなるのか。クロの身に纏う堕ちた英雄の兜と鎧からは、その色と同じ赤黒い瘴気が垂れ流されていた。
その瘴気をレナが結界で受け流し、散らしていく。
「これはニーナ殿、失礼しました。まだ上手く抑えきれないようで、ご容赦を」
「ニーナのことはいいから話せよ」
レナの頭を撫でていたニーナが「ひどっ」と叫ぶのだが、ユウは無視してクロを見据える。
「はっ。某の役目はニーナ殿たちと一緒に、迷宮探索でよろしいので?」
「そうだ」
「え~。ユウは来ないのっ!?」
「うるさいな。俺は少し用があるから、クロにお前らのお守りを任せるんだろうが。ほら、予備の装備も渡すから、これで文句ないだろ」
ユウから装備の入ったアイテムポーチを渡されたニーナは、頬を風船のように膨らませる。
「あるっ! あるよ~!」
マリファが「お静かに」と、騒ぐニーナの口を手で塞ぐ。
「クロ、聞きたいことはそれだけか?」
「いえ、某が見事ニーナ殿たちを深層まで連れていった暁には、主がSランク迷宮へ挑む際に某を――某も同行する許可をいただきたい!!」
「深層って……」
「無論、主が古龍を倒したその先の最下層です」
「無理だろ」
「っ!? し、しかしっ! 某も先日の木龍との戦いで、幾分かは成長しました。それに主より下賜されたこの鎧と兜もあります」
ユウにハッキリ無理と言われるとは思っていなかったクロが、動揺を隠せずに狼狽えるのだが、それでもクロは強く願う。
「いや、別にお前が弱いから無理って言ってるわけじゃないぞ。ここから四日で最下層の百八層までは、いくらなんでも……そもそも七十四層の門は俺がいないと通れないだろうし、それに七十五層からは魔物の強さもAランクどころかSランク迷宮並だしな」
「四日? 某はこの迷宮で鍛えていましたが、下層では時間制限があるのですか」
「ああ、制限っていうか。四日後に王都でオークションが、それも年に一度の大きなやつが開催されるんだ。その日にニーナたちを迎えにくるから、それまで鍛え直してほしいってだけだ」
「そのおーくしょんとやらに、ニーナ殿たちが行かなければ拙いのでしょうか?」
「いや、拙くはないんだけど楽しみにしてるから」
「楽しみ……。言葉から察するに娯楽のようですな。では、ニーナ殿たちは不参加でよろしいので――むぅっ!?」
数多の雷がクロに降り注ぐ。
放ったのはレナである。もちろん手加減――は少しだけしていたようだが、クロの全身から黒煙が立ち上る。
「レナ殿、いきなりなにをするのですか。某でなければ大事でしたぞ」
「……そんなのダメっ」
「そうだよクロちゃん! 私もレナもマリちゃんだって、楽しみにしてるんだからね!」
「クロさん、大丈夫ですか?」
旋毛のアホ毛を逆立てながら、レナがクロに余計なことを提案するなと怒る。ニーナも腰に手を当てて、クロをレナと一緒になって叱る。このなかでマリファだけがクロの容態を心配していた。
「アホなことやってないで、クロと探索を頑張るんだな。ちゃんと結果を出せば、レナとマリファには木龍の素材から作った装備を渡してやるよ」
「……ほんとっ!」
珍しくレナが目を見開きユウに詰め寄るが、額をユウに押さえつけられてそれ以上近づけない。その後ろでマリファは言葉にこそしないが、だらしない笑みを浮かべそうになるのを必死に堪えていた。
「なにそれー! ユウ、私には?」
「ニーナの装備は壊れてないだろ。
それじゃあ、もう行くからな。次は四日後に迎えにくるから、それまで死ぬなよ」
「装飾とかでもいいんだよ? ほら、耳飾りとかペンダントとか。あと、むふふ。木の指輪なんかでも嬉しいな~っとか思ったりして。あっ、待って!」
時空魔法で創った門を潜るユウの背に向かって、叫ぶニーナの声は虚しく響くのみであった。
コロが「がんばるからね」と吠え、ランが慰めるように尻尾で座り込んでいるニーナの頬を撫でた。
「俺だってニーナたちと探索したいんだけどな。時間がないってのに、なにが悲しくて屑どもの相手なんか……」
宿の部屋へ戻ったユウは、そう呟くと街へ向かうのであった。
「掃いても掃いてもなくならないから、やんなっちゃう~」
ユウの屋敷の外壁周辺に落ちている葉っぱを、歌いながらティンが軽やかに掃除していた。少し離れた場所で、ヴァナモとメラニーが同じように箒を掃いている。
「ご主人様もお姉さまもいないから~ちょっと寂しくてやんな――大の大人が、こそこそとみっともないと思いますよ」
外壁の角から隠しきれない身体がはみ出ていた。
「なんだよ。今日はやけに機嫌が悪いのな」
頭を掻きながら姿を現したのはジョゼフである。
「ジョゼフ様、私たち大変だったんですからね!」
私、怒っていますとばかりに、ティンが腰に手を当てジョゼフを見上げる。
「俺のせいじゃないだろうが」
「驚いたっ! ジョゼフ様ともあろう方が、言い訳をするなんてやんなっちゃう。
お姉さまなんて左肘から先がなくなって、ご主人様からいただいた装備をいくつも壊されて、あんな悲しそうな顔をしたお姉さまをティンは見たことなかったんですからね。レナさんだって大怪我してたそうですよ。ナマリもご主人様に叱られて、今も部屋に閉じこもって泣いてるんですからねー。
それにティンやメラニーだって石にされるし、やんなっちゃう」
「むぅ……。それで、ユウは怒ってんのか?」
「つーん」
知りませんと、ティンはそっぽを向いて掃除を再開する。
「ちっ。ガキみたいに拗ねやがって、わかったわかった。これやるから機嫌直せよ」
ジョゼフがアイテムポーチから取り出したのは、そこらの露店で売っている飴玉が詰まった袋である。
「そんな安物でティンの怒りが、うーん。いまいちかな?」
文句を言いながらもティンはジョゼフから袋を奪い取って、飴玉を口の中に放り込む。
「食ってんじゃねえか」
「本当なら、この程度の飴玉で買収されるティンじゃありませんが、仕方がありませんね。
ご主人様ならいませんよ」
「どっか出かけてるのか?」
「王都にお出かけ中です。
なんでもこの国の王様からなんとかって勲章を直々に授与されるみたいです。ティンもご同行したかったのですが、お留守番で悲しくてやんなっちゃう」
「王都だとっ。たしかムッスの野郎も朝早くから……。まさかっ!」
「あー、ちょっとジョゼフ様どうしたんですかって、行っちゃった。もーう、これだからジョゼフ様はやんなっちゃう!」
カマーに向かって走り去っていくジョゼフの後ろ姿を見つめながら、ティンは二個目の飴玉を口の中へ放り込む。
「ちょっと、ティン! どうしてあなたはそんなにお喋りなのっ!」
堕苦族のヴァナモが、ユウが王都に行ったことを喋ったティンに怒り心頭で迫る。
「敵は少ないほうがいいからね。ヴァナモみたいにツンツンしてると、周り全部が敵になってやんなっちゃう」
「なっ!? それはどういう意味ですかっ!」
「ジョゼフ様を敵に回すなんて、バカ以外の何物でもないよ」
「あんな人族、大したことありませんわ。プリリとかいう薬士だって私がいればどうとでもなったのです」
「そんなに言うなら、長に言われてるのか一族に義理たてしてるのか知らないけど、堕苦族の真骨頂である毒を解禁してほしいとティンは思うの」
「な、なぜそれを……」
「ティンが気づくんだから、お姉さまも気づいてるよ。だから、この前も薬使いの食客が相手なのに、ヴァナモは連れてってもらえなかったんだよ」
先ほどの勢いはどこへやら、ヴァナモは黙り込んでしまう。
「あんまりへこまれると、やんなっちゃう」
「私にだって事情があるんです」
うつむきながら呟くヴァナモの声は、残念ながらティンの耳には届かなかった。
「あによ。そんな慌てて」
ムッスの館の一室で読書を楽しんでいたクラウディアは、ドスドスッという擬音でも聞こえてきそうなほど乱暴な歩みで帰ってきたジョゼフに、クッキーを咥えながら声をかける。
「ムッスはどこにいる」
「いないわよ。ムッスなら王都に行くって言ってたから、戻ってくるのは早くても十日後くらいじゃないかしら」
「俺は聞いてねえぞ」
「そりゃジョゼフが悪いわよ。
ムッスは何度も言おうとしてたのに、ジョゼフったらランポゥたちの性根を叩き直すって、耳を貸そうとしないんだから」
「ぐぬぬっ。ララの姿も見えねえが、一緒に行ってんのか?」
自分が悪いとクラウディアに指摘されると、心当たりのあるジョゼフはなにも言い返せなかった。
「ララならプリリと一緒にカマー周辺を警戒してるわよ。誰かさんが食客の半数を半殺しにしたせいで、ララが尻拭いしてるのよ」
「俺は頼んでねえぞ。
それより――」
「王都に行くつもりならやめといたほうがいいわよ」
「なんでだよ!」
なにを言うかわかっていたクラウディアが、ジョゼフの言葉に被せて忠告する。
「ムッスの傍にはヌングさんとマーダリーがついてるから、護衛は十分でしょ。
どうせあのサトウって子が王都にでも行ってるんでしょうけど、その隙を財務大臣が見逃すわけないわ。恩でも売りたいのなら、あの子の屋敷でも巡回してあげなさいよ」
「お前に言われなくてもわかってる」
「ウソばっかり。私が教えてあげなかったら、今頃は馬鹿みたいに王都へ向かって走ってたくせに~」
口の周りにクッキーの粉をつけたクラウディアが、ジョゼフを指差してバカにする。
「てめえは、ほんっと小生意気なエルフだな!」
半目になったジョゼフが、クラウディアに近づく。なにを勘違いしたのか、クラウディアは目を閉じて唇を突き出す。美形揃いのエルフのなかでも、さらに美しいクラウディアであったが、口の周りにクッキーの粉をつけていては、その美貌も半減である。
「いひゃい。ひゃにすんのよ!」
鼻をつままれたクラウディアが、ジョゼフの腕を叩いて抗議する。しかし、万力のようなジョゼフの剛力でつままれておりビクともしない。
「わだちを誰だとおもってんのひょっ! エルひゅの王族なのひょっ、いだいっでば。ご、ごめんなひゃい。謝るからはなひてよ~」
「ふんっ」
解放された鼻を擦りながら「馬鹿力なんだからっ」と、クラウディアが文句を言う。
「待ちなさいよ」
「なんだよ。もう用はねえぞ」
「な、なんて失礼な奴なのかしら! 普通の男ならね。私に話しかけられれば、犬が尻尾を振るくらい喜ぶんだからね!」
「はいはい。悪かったな」
鼻をほじりながら謝るジョゼフの姿を見て、クラウディアの全身が小刻みに震える。
「だから待ちなさいっての」
「しつけえぞ」
「あの子の眼なんだけど」
「なにかわかったのか!」
さっきまでのふざけた態度が嘘かのように、ジョゼフが真剣な顔でクラウディアに詰め寄る。
「ちょ、ちょっと。そんな顔で迫らないでよ。恥ずかしぃ……でしょ」
耳まで真っ赤に染めたクラウディアが、顔を背けてジョゼフを押し退ける。
「ガジンって知ってる?」
「おじんなら、その辺にうじゃうじゃいるぞ」
「ガ・ジ・ンっ! おじさんの話なんてしてないわっ!」
「知らねえな」
「呆れた。本当に知らないの? 最強って呼ばれていた冒険者よ」
「最強は俺一人で十分だからな。その他の紛い物なんて興味ねえな」
冗談まじりではあるが、ジョゼフは自らを最強と微塵も疑っていないのだから驚く。だが、そんなジョゼフの姿をクラウディアは見惚れていた。
「ま、まあいいわ。
そのガジンなんだけど、肌の色が赤色だったらしいわよ」
「鬼人族なんだろ。珍しくもなんともねえ」
「ガジンの種族がなんだったのかは、今でもわかっていないわ。でも、最初に冒険者ギルドに訪れた際は、緑色の肌をしていたそうよ」
クラウディアが腕を組みながら自信満々に言い放つ。さあ、褒めなさいと言わんばかりである。
「それだけか?」
「それだけよ」
「なんだそりゃ! 期待して損したぜ」
「なによ~! その言い方わ。ガジンは数百年も前の冒険者なのよ。そんな大昔の記録が詳細に残ってるわけないじゃないの~! 私だから、ここまで調べられたんだからね!」
「はあ~使えねえな」
心底がっかりしたと言いたげに、ジョゼフは首を横に振りながらクラウディアの目の前で大きなため息をつく。
「でも共通点があるのよ」
「共通点だ?」
クラウディアをバカにするように、両方の鼻の穴をほじりながら復唱するジョゼフに、怒りを堪えながらクラウディアは言葉を続ける。
「そう、共通点よ。
ガジンもあのサトウって子も、冒険者になってわずか数年で目覚ましい成果をあげているわ。
あの子はもともと黒目だったのが、今は赤茶色なんでしょ? ガジンも緑色の肌が最後に確認された際は赤色よ。
でも、だからどうしたと言われれば、なにも言えないんだけどね」
クラウディアは自嘲するかのように笑う。その頭をジョゼフが軽く叩く。
「え……。ジョ、ジョゼフ?」
「またなにかわかったら教えてくれ」
「こ、この私に任せなさいよっ!」
控えめな胸を張るクラウディアを残し、ジョゼフは部屋をあとにする。
「ガジンか……。あの
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