第126話 貸し切り
『腐界のエンリオ』六十層、ラリットが蟻と交戦を繰り広げた場所から数百メートル離れた大地が真っ白な煙で覆われていた。舞い上がる砂煙は鏃型に拡がり、砂煙を生み出しているのは数千に膨れ上がった蟻の群れであった。進行を妨げる者は例外なく蟻たちに踏み潰され、呑み込まれていく。
「くそっ! なんて速さで移動してやがる」
ラリットは悪態をつきながらも速度を落とさずに蟻の行進について行く。ラリット一人で六十層の魔物に遭遇すれば場合によっては死ぬだろう。しかし今は蟻たちの行進を恐れてか、ほとんどの魔物が鳴りを潜めていたのはラリットにとっては好都合であった。
「はぁはぁっ……なんだありゃ?」
一時間ほど蟻の最後尾を追いかけていたラリットだが、次第に離されていく。焦るラリットだったが、視線の先には天井に穴が空いているドームが見えてくる。その形状から自然に出来た物ではなく人工的な物だと判断できる。蟻の群れは吸い込まれるようにドームの中へと入って行った。
遅れてラリットがドームの中へ入ると、内部は悍ましい光景であった。数千の蟻がドームの中心に群がり、人間ピラミッドならぬ蟻のピラミッドを形成していたのだ。
「間違いねぇ、あそこにいるのはユウだ」
蟻が造りあげたピラミッドの頂点よりさらに十メートルほど高くに、どのようにしてかユウは空中に浮かんでいた。蟻たちは女王蟻候補の幼虫を略奪者から奪い返さんとばかりに顎を打ち鳴らし、威嚇音がドームの中に響き渡る。ラリットが周囲を見渡すと、ユウから少し離れた場所に浮かんでいる人物が目に入る。
「て、天輪……天魔族、それに天魔族が抱きかかえているのは魔人族の子供か?」
魔人族の子――ナマリを抱えている女の背中には美しい翼が生えており、ラリットが女を天魔族だと判断した一番の理由は、女の頭部に浮かぶ天輪であった。見た目は絶世の美女に見えるが相手は天魔族、強力な魔法に再生力を兼ね揃えた化物である。
ラリットが周囲を警戒していると、自分が入って来た入口とは別の場所から数千の蟻たちが新たに入って来る。
蟻の群れの先頭を誘導するかのように漂っているのはローブ姿の人物、所々ローブから見え隠れする手や顔は、皮や肉が削ぎ落とされた剥き出しの骨であった。
「今度はエルダーリッチだとっ!? どうなってやがんだ……あのエルダーリッチが握り締めているのも女王蟻候補の幼虫か?」
二つの蟻の群れが合流し、その数は万に届くのではないかと思われるほどに膨れ上がる。ラリットには聞こえなかったが、エルダーリッチはユウに一言二言声をかけるような仕草をする。ユウは面倒臭そうに手を振るとエルダーリッチは頭を下げ、ユウの後方に待機した。
ラリットはこれからなにが起こるのかと固唾を呑んで見守っていると、突如ドーム内が明るくなる。ドーム内を爛々と照らしたのはユウの右手に展開された巨大な火球、ユウは無造作に右腕を地面に向かって振るうと、大きさ数十メートルの巨大な火球は蟻を押し潰しながら地面に衝突し、炎の海が蟻の群れを覆い尽くす。離れた場所で見ていたラリットの頬を熱風が撫で回し、急激に頬から水分が奪われていく。髪からは焦げたかのような臭いが鼻腔に届く。
『腐界のエンリオ』六十~六十三層の絶対的な支配者である蟻たちが、次々と為す術もなく骸と化す。爆炎は蟻を守る強固な甲殻諸共焼き尽くし、地面に残ったモノは消し炭と化した蟻だったと思える黒い燃えカスのみであった。
「何者だ?」
(いつの間にっ!?)
ラリットの背中を冷たい汗が流れ落ちる。斥候職である自分が近づく者に気づくどころか、背後を取られたことにすら全く気づけなかったからだ。ダマスカスダガーの刃で後ろを確認すると刃に映る姿から、先ほどのエルダーリッチということだけがわかった。
「何者だと聞いている。答えずに死ぬか、答えて死ぬか選べ」
逃げなければ待っているのは確実な死。そう思わせるほどの殺気がラリットの背中に叩きつけられる。
「黙して死ぬか。いいだろう望みどおり――」
「止めろ。そいつは俺の知り合いだ」
ラリットに向けられていた殺気が嘘のように霧散した。安堵感からラリットは思わず大きな溜息をつく。
「ラリット、こんな所でなにしてんだ? 言っておくけど、この層は俺が使ってるから狩りをするなら別の層に行けよ」
ユウがなにを言っているのかラリットには理解できなかった。良い狩場をパーティーが、ときにはクランが独占するという話はよくあることだ。だが、一層丸々独占するなど聞いたことがない。
「なにしてんだは俺のセリフだ。ユウ、お前こそこんな所でなにをしてんだ」
「見てわかるだろうが、レベリングだ」
簡単に言ってのけるユウだったが、万に及ぼうかという蟻の大群を相手にしてのレベリングなど、誰に言っても信じてはもらえないだろう。
「ほら、この幼虫は女王蟻候補なんだけどさ、こいつ抱えて走り回るだけで簡単に蟻を集められるんだよ」
ユウは腕の中できーきー鳴いている女王蟻候補の幼虫たちを地面に置くと、逃げるようにお尻を何度か突く。幼虫たちは始めは動く様子を見せなかったが、お尻を何度か突かれて促されると、やっと動き出す。
「こうすれば外にいる蟻が勝手に蟻塚に戻してくれるんだよな。あとは蟻が増えたタイミングでまた幼虫を拐うだけだ」
「俺が聞きたいのはそんなことじゃない!」
ラリットはユウの胸倉を掴もうとするが、その腕を横から伸びた手が掴んで阻止する。
「なんの真似だ? マスターに危害を加えるつもりか?」
ラリットは自分の腕を掴むエルダーリッチの手の冷たさに驚く。掴まれた部分が青白くなり、冷たいから痛いに知覚が変化していく。
「だから止めろ「あっ~! お前、オドノ様になにするんだ!!」って……煩いな」
ナマリが左右の手にそれぞれ原型を留めている蟻の甲殻を持って、ユウのもとまで走って来る。
「お前、敵か! オドノ様になにかしたら俺が許さないぞ! シュッ、シュッ、俺は強いんだぞ!」
ナマリは蟻の甲殻を地面に置くと、男なら誰しも子供のときによくする風切音を口で鳴らしてパンチを放つ素振りをする。
「ナマリ、敵じゃない。それにお前また火傷してるじゃないか。しばらくは熱を帯びているから触るなって言っただろうが。ほら、治してやるから手を出せ」
「へへ。オドノ様、ありがと」
ナマリは叱られているにもかかわらず、嬉しそうに火傷した手をユウに差し出す。
「ラス、いい加減に手を放せ」
ラスと呼ばれたエルダーリッチはラリットの腕を解放するが、ユウの横に佇みながら、ラリットがこれ以上なにかすれば許さないとばかりに睨みを利かしていた。
「ラリット……まさかここのことをニーナたちに言ってないだろうな?」
「言えるわけないだろうが……それにニーナちゃんが、今どういう状態かわかって言っているのか?」
「ニーナ? この前も元気にハイオークの巣を討伐したって聞いたけど、なにかあったのか?」
ユウの言葉に、ラリットの顔からは感情が抜け落ちたかのように無表情になる。
「う……嘘?」
「ほんと」
「マジで?」
「マジで」
その後、五分ほどラリットは四つん這いになって落ち込んだ。
ニーナのために死に物狂いでやっとユウを見つけたと思ったら、当のニーナはとっくに元気になって冒険者を再開していたのである。ラリットが落ち込むのは無理はなかった。
「まぁ……元気出せよ。あとこれやるから俺の居場所はニーナたちに言うなよ。仮に言ったとしても、そろそろこの迷宮でのレベル上げもきつくなってきたから、場所を変えるつもりだけどな」
ユウはナマリが持って来た、爆炎の中でも燃えずに残った蟻の甲殻とランク6の完全な魔玉をラリットに渡すが、ラリットから反応はなかった。
「なんかよくわかんないけど、
ナマリはラリットの頭を何度かポンポンと叩くが、ラリットは石像にでもなったかの如く動くことはなかった。
「じゃぁ、俺たちはもう行くからな。ラリットもいつまでもこんな所にいるんじゃないぞ」
誰もいないドームに放置されたラリットは徐ろに立ち上がると。
「誰が……おっちゃんだ……ちくしょう……うぅ」
「あれ見ろよ。ネームレスのニーナたちだ」
「もう帰ってきたのか。この前ザンリック村近くにできたハイオークの巣をたった三人で潰して、今回ははぐれワイバーンの討伐クエストを受けたばかりだってのに」
「さすが俺のレナちゃんだ」
「誰がお前のレナちゃんだ。お前が見たらレナちゃんが妊娠するから消えろ。いや、むしろ死んで詫びろ」
「俺が見るとレナちゃんが妊娠するだと……!? 処女受胎……やはりレナちゃんは聖女だったか」
無事に帰ってきたニーナたちと仲の良い冒険者たちが、いつものように戯れ合う。この戯れ合いもやり過ぎると謎の組織にお仕置きされるのは、都市カマー冒険者たちの間では暗黙の了解であった。
ひよっこだったニーナたちは、今や少数で構成されるクランの中では頭一つ抜き出た存在にまでなっていた。
「今回も疲れたね~。そうだレナとマリちゃんに相談があるんだけど二階でいいかな?」
「……問題ない」
「丁度良かったです。私も話があります」
カウンターでクエスト完了報告を済ませるとニーナたちは二階へと上がっていく。階段を上がっていく三人の後ろ姿、正確には尻を眺めていた他所の街から来た何名かの冒険者が下品な言葉で揶揄するが、いつの間にかその者たちの姿は消え去り、冒険者ギルド近くの路地裏で無残な姿となっているのが見つかったとかいないとか。
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