だれも、いない

千田美咲

壁面をライトが撫でる

 掲示板で噂になっていた廃ホテルにやってきた。時間は真夜中。雲によどんだ満月が、わたしの頭上にうかんでいた。

 懐中電灯でホテルの外壁を照らすと、掲示板に貼られていた画像どおり、一面に真赤なスプレーが塗りたくられていた。

 ゲートのまえまで来ると、わたしは大学の友人に電話をかけた。通じてすぐに友人のゲップが耳に入った。

「おう」

「なにしてた」

「ゲーム」

 だいぶ酒に酔っているようだった。話しているうちに、眠ってしまうかもしれない。

「おまえはどこにいんの。なんか風の音が聞こえてくるんだけど」

「昨日言ったじゃん。ホテルに行くって」

 友人はおおきくアクビをした。

「ああ、そうだったか。ないと思うけど、おもしろいモノが撮れたら、明日にでも見せてくれよ。おれはもう寝る」

「でも、明日は帰れないかも」

「画像を送ればいいじゃない。じゃあまたな」

 そう言うと友人はむりやり電話を切ってしまった。

 わたしはスマホをポケットにしまうと、さっそくホテルのなかに足を踏み入れた。

 ホテルの内壁には、自分とおなじような連中によるラクガキがたくさんあった。つまんなかったやら、もっとおもしろいかと思ってたやら、文句を垂れ流すものばかりである。

 ほそい廊下をすすんでいくにつれ、洋室と和室がこちゃまぜになっていることに気がついた。ほとんどのドアは乱暴な連中によって破壊されていた。

 どこまで行っても期待していたようなものは、ひとつとして見つからなかった。ただ、ひろさだけは並のホテルよりもあったから、行き先がわかりきっている暗闇をひたすらに歩いているような感じだけがあった。

 ある和室を見まわしているうちに、わたしは畳の段差につまずいて、転んでしまった。木柱に真正面から衝突した。起きあがって服についたホコリをはらうと、親指につよい痛みを感じた。

 見てみると、ほそい木片が小指に突き刺さっているのであった。懐中電灯で木柱を下から照らしてみると、無数のささくれが、わたしに向かって牙を向いているのが見えた。

 さらに上に明かりを向けると、先に輪っかをつくったロープが、だらりと吊り下がっていた。

 期待していたものだったのにもかかわらず、わたしはカメラを向けることができなかった。やぶれた障子の向こうにあるガラス窓が、わたしの姿をうつしていた。

 わたしはホテルをあとにした。ささくれはまだ指に刺さったままである。

 そのままにしておいた方がいいような気さえした。

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だれも、いない 千田美咲 @SendasendA

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