第29話 惨めさを抱えて

 その肢体を明瞭に浮かび上がらせる浅葱色の上衣には、脇から大きく開かれたスリットがある。そして、そのスリットの上部では白い肌がちらリズム。シルエットの大きめな黒のパンツは足首ですぼまっている。チャイナカラーの立襟は無駄な装飾を排しており、その形だけで艶やかさと清廉さを表していた。


『アオザイですと?』

「アオザイですか?」

『あっ、いや……なんでも、ないです……』


 どっからどうみてもベトナムの民族衣装にしか見えないそれは、どうやらこっちの世界では呼び方が異なるようだ。

 指を通せば、どこかで引っかかることなく流れゆきそうな濡れ羽色の髪。とがった顎と鼻先。玉のように白い肌。

 そう人間の……美女です!

 異世界に来て出会った人間の女は、これまでマッドでサイケなシスターだけだったからなぁ。

 堅気の美人さんに出会えてもうすごい。緊張する。人間と喋るのすごい緊張するんですけど!?

 お偉いさんたち二人は今後のことを話したいらしく、案内役を買って出てくれたサリーさんと一緒に村を散策中。でも、それどころじゃない。


「ラフワムート族のみなさんがこちらに見返りを求めることはないのですよ。私たちは彼らから適宜、老いて次代に引き継ぐ使命を帯びた命を教えていただき、それらを獲るようにしております。山の幸も、海の幸もです。彼らが私たちに求めるのは必要以上に自然の恵みを享受しないことだけ。そうすることで私たちは代々、飢えることも過度に病に冒されることもなく、こうして血を紡いで来られました」

『そうなのですね~』


 先進的かつ、ほのかにディストピア感もする話だが、まぁよいだろう。だってサリーさんが可愛いから問題なし!

 聞きたい……。好みのタイプが聞きたい。

 あの~、液体が好きですか?

 それとも気体?

 ラスボスの形態は第一と第二のどちら派ですか?


「魔王様!? そちらは傾斜が厳しいですよ!」

『へ?』


 視界が回り、重力から自由になった。

 私……飛んでる……。


『あがっ』


 耳障りな金属音と全身に鈍い痛みが広がる。

 雑草が茂る、ほぼ崖な傾斜の下で俺は文化的オブジェのような格好で止まった。


「変なこと考えてるからよ」

「お怪我はありませんか?」

『サリーさんだけが俺を心配してくれる……』

「心配されたかったら、やることちゃんとやることね。あ、つかぬことを伺いますが、サリーさん」

「なんでしょう?」


 ノイルがこれ以上ないくらい意地悪な笑みを浮かべた。

 なんか嫌な予感する。


「旦那さんはどういった方なのでしょう?」

『へ?』


 ノイルの質問にサリーさんは恥じらうように口元を手で軽く押さえて微笑んだ。

 そして、彼女の口から紡がれたのは惚気とも捉えることが十分に可能な、パートナーのざっくりとした人となりと、相手に関する淡い愚痴であった。


『既婚者……だと』

「黒いパンツを穿いているのは既婚女性よ。これは奇跡的にあなたの世界のアオザイでも一緒よ。覚えておきなさい」

『なんで俺よりも地球の文化に詳しいんだよぉ……』

「もっとも、昨今ではそういった制約は取り払われつつあるそうね」


 案内を終えたサリーさんは集落の仕事に戻っていった。

 俺たちは村の外れで、こうして暇を持て余している。ノイルさんの地球豆知識も火を噴くぜ。


『そっと教えてくれればいいじゃん……。何で、「旦那さんはどういった方ですか?」なんて嫌らしく俺の前で聞くのぉ……。サリーさんの惚気話なんて聞きとうなかった……』

「このままじゃ勇者が来たとき、あんたが精彩を欠きそうだったからね。先手を打たせてもらったわ」

『決戦前に全身複雑怪奇骨折だよ。僕が好きだったのに! 僕が先に好きだったのに‼』

「なにBSSしてるのよ。世の中に確実なことは少ないけど、あんたより旦那さんの方が先にサリーさんのことを好きになっていたことは確実ね」

『前世から好きだったんじゃ……』

「そう。じゃあ、奪ってきなさいよ。そんな度胸ないでしょうけど」

『~~~ノイルさんがい~じ~め~る~! 嫌い!』


 くそう。くそう。

 こうしてまた俺は童貞記録を更新していくのか。


「そんなに人間がいいものかしら」

『人間がいいの~。ノイルは人間の男に魅力感じないの?』

「全然。想像するだけで反吐が出る」

『いや、言い過ぎじゃない?』


 普段の彼女らしくない発言に思わず「うっ」としてしまう。

 自分が非難されるよりもなお、その発言に胸が窮屈になった。


「嫌いよ……人間なんて」


 遠い風には、もう潮の香りは含まれていない。紫のきめ細かい髪を山風が無遠慮に撫でてゆき、ノイルはそれを手で抑える。


『何かあったの?』

「何かなくちゃ人間のこと嫌っちゃいけない? 人間は何もなくても魔族のことを忌み嫌うのに」

『それは……』

「あんたはどうなのよ? 魔族があんたに何かした?」

『……』


 そうだった。

 俺が彼女の故郷でしたこと。そして、しなかったこと。

 彼女の仲間を前に、俺は失礼にも拒絶するように逃げ出したのだ。

 ノイルの立場になってみたらどうだ?


「まぁ、あんたの心は人間だもんね。それも、私によって勝手に魔族にされた、ね」


 ごめんなさい。

 そう一言残して彼女は離れていく。

 風が止み、森は空気を読むようにさざめくのをやめた。

 謝って済むことではない。でも、謝らないことには何も始まらない。つくづく自分が嫌になって仕方ない。


『あぁ……人と関わるのって難しい』


 失言とか失礼とかって、なんで後になって気付くんだろうね。

 で、気付いたときには時間的にも距離的にも、相手に謝るのにかなりの勇気がいる状況になってしまっている。それで勇気が出なければそのままフェードアウト。二度とその人と関わることはない。

 人間がその姿を見ただけで恐れる大魔王は、絶賛、女の子と仲直りできずに打ちひしがれてしまっております。

 喧嘩した女子にSNSでフレンド申請して、その承認をF5連打して待ち続けるマーク・ザッカーバーグよりも情けない。


「ぁ……まおっ……さ、ま」

『ん?』


 村の外れで一人無為に過ごしていると、やけにか細く、高く、それでいて、電波の悪いラジオのように途切れがちな声が足元から聞こえた。

 ぺんぺん草よりも低く、くるぶしより少し高いくらいの背丈。

 子供が適当にノートの隅っこに書いた落書きのような、単調な姿をした小さな生き物がそこにはいた。


「まおう……さま」


 頭テッカテカの丸い頭と、空洞のようにぽっかりと黒く空いた二つの目と口。本当に子供が数秒で書いたようなシンプルな顔。ガッツリ二頭身で、細長い円錐形のような胴体からは、つまようじみたいに細い手足が伸びている。

 簡略化された妖精みたいだ。

 ただ、その姿よりも気になることが一点あった。


『……ヨダレ、拭いたら?』


 表情があるんだか無いんだか分からない呆け顔だが、なぜか口の端からヨダレのように黒い汁を垂らしている。愛嬌はあるが、同時に悲壮感も覚える。そんな見てくれだ。


「ひぇ!? しゃべった!?」

『喋っちゃいけないんかい』

「まおうさま、の、ぷろてくたー……ある。かっこいぃ。なかみある……ふいうち」

『語彙力がピーキーだな。てか、ただの鎧がここに置いてあると思ったのかよ』


 一体、これは何だ? 魔族なのか?

 恐る恐る摘まむと普通に捕まえられた。


「……ひえー」

『驚いている割りには反応にラグがあるし、テンションも低いな』


 いや、もしかしたらこれが最大級のビビり具合なのかもしれない。下ろしてあげると露骨に胸を撫でおろして安堵している。


『魔族なのか?』

「そう、です。こんとん、の、たみ。まぞく、ばんざい。にんげん、こわぃ」

『それ共通認識なのね』


 なんだかなぁ。

 向こうの世界にいた頃から人間なんてろくでもないと思っていたけど、こっちに来てからそれが顕著だ。

 現代人からしたら中世の人間なんて理性のない獣にしか見えない。戦争、植民地支配、封建制にえせ宗教。いや、21世紀の人類もそう変わりないか。22世紀の人類からしたら、教科書に載っている俺たちは頭の足りない蛮族に見えるだろう。

 てか、ここはミストの範囲じゃないのに魔族が普通にいるんだな。


『ん?』


 遠くで囁き声が聞こえた。

 屈んで茂みの奥を除くと、そこには別の妖精たちがいた。

 車座になって話している。なんだか審議中って言葉が頭上に浮いてそうな雰囲気だ。


『お前はみんなと一緒にいないのか?』

「むらはちぶ、いわれた…………」

『おぅ……』


 ひとまず、魔族にもいじめがあるんだな。

 まったく、どいつもこいつも。

 気まぐれに墨汁じみたヨダレもどきを指先で拭ってやった。


「はわっ⁉」


 途端に出来損ないの妖精みたいな魔族は、つまようじほどの両手を口に当てて驚いた。


『みっともないだろ、そのまんまじゃ。それとも拭っちゃまずかったか?』

「……かく、めい、おこる」

『は?』

「せんりつ、の……かくめい、だー」


 恐ろしいほどの棒読みに、か細い声だ。戦慄やら革命やら大それた言葉を使っても、まったく響いてこない。

 小さな魔族は身体を震わせてあわあわと右往左往している。


『いや拭って良かったの? 悪かったの? それだけ、とりあえず教えてくんない?』

「ぼくたち、コヨマツぞく。よだれ、たれたままなの、はずかしい」

『じゃあ拭けよ。てか、やっぱりその黒い汁はヨダレなのか』

「でも、じぶんでふくの、まなーいはん。かみさま、おこる。だから、かぜでとぶの、まつ」

『改宗しちまえ』


 なんてアホな魔族だ。


「でも、だれかに、ふいてもらう。かみさま、おこらない。かくしんてき。ぱらだいむしふとの、ときが、くる」

『じゃあ、これからあそこでお前をハブにしている奴らのヨダレ拭いてみろよ。多分バカウケして人気者だぞ』

「ありがと……まおう、さま。かいてん、の、こころざし……いざ、ゆかん」


 ヘロヘロの足取りでコヨマツ族とやらのターゲット君は、みんなのもとへ向かった。

 屈んでその様子を探ってみる。

 一体のヨダレを拭いてやるとあら不思議、途端にちっこい奴らは大興奮。小さなパイオニアの胴上げが始まった。まったく腕力が足りてないから、よってたかって下からぐいぐい押しているだけだが。


\まおーさまー!/


 ひとしきりはしゃぎ終えたコヨマツ族がこちらのつま先に押し寄せる。


「じだい、の、ちょうじ」

「いんてり、だいまおう」

「たぶん、きょうはおやつが、おいしい、ひ」

「よあけ、とっても、あかるい」

「もう、よだれ、たれっぱなし、ちがう」


 口々にこちらを囃し立てながら、小さな魔族たちはもう拭いきったはずの互いの口元を拭き合う。楽しそうだな、おい。


\だいまおーさまー‼/

『おう。くるしゅうない。もっと崇めろ。決して、枕詞に童貞は付けずにな』

「どう、てい?」


 妖精たちが再び車座になる。

 おい、何を審議するつもりだ?


「ちからづよぃ、ひびき」

「だいまおーさま、だけじゃ、じたらず。つまらねぇです」

「ものたりなさのすきま、それで、ぱんぱん、なる」

「くうきょだった、すうはいのことば、これで、かんせいす」

『おい、待てよ……』


 審議が終わり、その黒くぽつんとした目が一斉にこちらを向く。興奮したのか、放心したのか、そいつらの口の端からオイルのようにヨダレが一筋垂れた。


「どうてい!」

\どうてい‼/

「だいまおー!」

\だいまおー‼/


 異世界に来ても、なんでこうなるの?

 全然、郷愁の念になんて駆られねぇからな。


『お前ら、黙ってろおおおおおお!』

\ひゃあ~⁉/


 蜘蛛の子散らすように、コヨマツ族は茂みの中へと消えていった。


『もういじめとか、ダサい真似すんじゃねぇぞ! たくっ』


 あー。でも、須藤は元気かな~なんて、思わなくも……いや、やっぱり思わねえわ。

 懐かしい人間の顔を思い浮かべていると、近くで物音がした。

 振り返ると、わずかに背後の木立が揺れていた。


『リスか何かか?』

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