第24話 ケモ耳娘はいかにして人間嫌いになったか……。

 小さい頃からリシュア様は憧れの方だった。

 私と同じく人に近い容姿をしており、トリガーを引いた状態もそう長くは保てない。ウォルフガンドをはじめ、魔族全体の美的感覚から見ると、お世辞にも美しいとはいえない方だ。

 それでも僻まず、妬まず、まっすぐに己の為すべきことを為し、混沌の理想を追求するあの方に誰もが一目置いていた。


「人間なんて大嫌いです」

「ルーザ。あなたの気持ちは分かるけれど、嫌いだから殺していいというのは賛成できないかな」

「嫌いだから殺すんじゃありません。森を汚すから殺すんです。人間たちは勝手です。寒さを凌ぐためでもないのに木を切って燃やし。お腹が空いたわけでも着る物がないわけでもないのに獣を狩ります。無益な殺生を楽しむような者たちを生かしておく理由などありますか?」


 幼い頃の私はそう堅く信じていた。

 そもそも、私たちが服を着る意味などないのだ。たとえブリザードに襲われようと、耐え抜く毛皮と強靭な肌があるのだから。むしろ服など窮屈なだけである。

 それでも着るのは人間たちに少しでも親近感を持ってもらうための工夫だった。でも、人間はそんなウォルフガンドの想いを理解しようとはしない。

 不満たらたらの私を見てリシュア様は困ったように微笑む。


「じゃあ混沌の魔王、アグフェリアスの話を一つ」

「してくれるのですか!?」


 どんなに人間のことを考え、苛立ちを募らせていっても、リシュア様が語り聞かせてくれる、かつて存在した魔王様の話を聞けば、幼いころの私の機嫌はたちどころに直っていった。


「かつてこのシ・ヘイの地ではウォルフガンド族が代々森を守ってきた。でも時折、人間たちが木や動物たちを必要以上に奪っていくことがあった」

「今もそうです」

「そうね。度重なる乱獲と破壊。そして対話に応じない人類。ついに魔族たちはその怒りを抑えきれず、人間たちに攻撃を始めた」


 思わず握り拳を作ってしまう。

 そうだ。悪い人間なんてやっつけてしまえばいいのだ。


「自衛ではなく、攻勢に力を注ぎ始めたウォルフガンドに人間は為すすべもなく倒れてゆく。そして、最北の都市に魔族の軍勢が矛を並べた」

「そのまま、城壁の四方を囲いましょう! ねずみ一匹通さない包囲網を作り、人間たちを飢えと渇きの地獄に突き落としてやるのです! あ奴らのこと。どうせ空腹に耐えかね、二つの一家が互いの子供を交換し、くびり殺し、やせ衰えた肉で腹を満たすことでしょう」

「どこでそんなこと覚えてくるのかな? 自分で思いついているのなら、そら恐ろしいわ」


 なぜかその時の私は無性に嬉しかったのを覚えている。誉められたと勘違いしたのだ。


「とりあえず、ウォルフガンドの指揮のもと、魔族は人間の都市に攻め込むタイミングを伺っていた。しかしそんなとき、灰の空と白の大地が交わる地平線から疾駆する影が迫ってきた。それは集落に残っていたウォルフガンドたちによって引かれたそりであった」


 わくわく。

 主役のお出ましだ。


「魔王様がお越しくださった。我らの戦いを見届けてくれるのか。いや、もしかしたら自ら指揮を取ってくださるのやもしれぬ。なんて、栄誉だ。そう魔族たちは思い、至上の喜びに満ちた。しかし、者どもの目に映ったのは磔台に十字で縛られた魔王の姿であった」

「どうして⁉ 何があったのですか!?」

「魔王は戦を止めるために来たのだった。混沌を願う者たちにとって、十字架という秩序の象徴に縛り付けられることは屈辱の極み。だが、あえて魔王はその責め苦を自ら受け、その姿を見せつけるように軍の前を何度も何度も往復した」

「そんな……嫌っ」

「『おぉ、魔王様、どうしてそのようなお姿に。どうかおやめください』。そう進言する魔族に対して魔王は高笑いをしてこう答えた。『私はやめないよ。君たちが人間への怒りを鎮め、元の平和を愛する者へと戻るまでは』と。魔族は人間を攻めるのをやめ、軍を引きました。『魔王様、軍を引きました。だから、そのようなことはもうおやめください』。魔族の叫びに対して魔王はなお高笑いする。『諸君! 私はな――』」


 リシュア様が語って聞かせてくれたその話。その台詞の続きは忘れてしまった。

 でも、これだけは胸に刻まれている。

 魔王様は魔族たちに人間を殺させず、平和へと導くために自ら屈辱を受けた。それは怒りに駆られ、殺人という禁忌を犯そうとした魔族たちの罪を肩代わりする、高潔な行為であった。

 その日以来、大人たちから聞かされる人間たちの蛮行を聞き、怒りでどうにかなってしまいそうになっても、魔王様の献身を思い出してどうにか冷静さを保つようにしていた。

 自分も成長したら森を守る使命を帯びるのだ。怒りにまかせて人間を殺してはいけない。対話を試み、それが難しければなるべく向こうの被害を最小限にしながら追い返さなくてはならない。

 誇り高きウォルフガンドとして、できることをしたかった。

 あの日までは――。


「リシュア様! どうして人間なんかを集落に!?」


 森で生き倒れていた人間の治療をすること自体は珍しくない。だが、集落まで連れて来て治療するというのは、これまで私が知る限りではないことだった。


「外では満足に治療ができない状態だったから。大丈夫よ。昔にも集落で人間を治療したという記録はあるから」

「ですが……」

「心配しないで、ルーザ」


 本来、家屋で暮らすということがないウォルフガンドの寝床は洞窟である。

 小さな横穴には人間が暖を取るために火が焚かれている。包帯で全身を覆われた人間は小さく胸を上下させて寝入っていた。


「魔王様は自ら十字架にかけられた」


 そう呟き、私は拳を緩めた。

 人間は意識がずっと朦朧としていたが、薬湯を飲むうちに回復していった。


「リシュア様が料理をすることありません。私にお任せください」

「大丈夫よ。これも魔王様が十字架にかけられたのと同じ。この屈辱と罪は最高の誉れよ。そもそも、ルーザはやり方が分からないでしょ? 知っているのよ。コスモ生活学の授業をまじめに受けていないそうじゃない」

「それは……」


 魔族は食事を取らない。ゆえに料理することは穢れであるとされている。

 あんな野蛮な行為は人間にこそお似合いだ。でも、この人間を人里へ帰すには栄養が必要だ。

 それは分かる。理屈では分かるのだ。

 それに、私たちの祖先も日々の糧を得て繁栄してきたのだ。私たちはその罪の螺旋のもとに存在している。

 でも、やはり嫌悪感が滲んで仕方ない。

 普段は薬を煎じるために使われる鍋には香しい匂いが立つ。人間や動物が好きそうな匂いだ。


「んっ……」

「あら、起きたかしら」


 目を開けた人間のその雰囲気から、今までのような半覚醒の状態ではなく、完全に意識を取り戻した状態だと分かった。


「驚かせないように、離れておきましょう」

「はい」


 鍋をかき混ぜていたリシュア様がゆっくりと立ち上がろうとした瞬間、人間の目がかっと見開かれた。


「化け物っ!?」


 暴れ出した人間の足が煮立つ鍋を蹴り上げた。

 ひっくり返った中身はこぼれ、リシュア様の顔にかかる。


「リシュア様!?」

「……大丈夫よ」


 悲鳴一つ上げず、顔を覆って堪え忍ぶリシュア様。しかし、その顔も腕も赤く焼け爛れてしまっていた。


「化け物……寄るな」

「あなた、リシュア様がどんな思いであなたを世話したと思って――」

「ルーザ」


 優しい声だった。

 冷たい手が私の手をそっと掴んだ。


「大丈夫だから」


 ほのかに上がった口角。

 魔王様は自ら十字架に架けられた。

 高潔な方ほど、その身に肩代わりした罪の跡を残してゆく。

 しばらくして人間はいつの間にかいなくなっていた。

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