廬舎那仏の右手が逆剥けたときから
清水らくは
廬舎那仏の右手が逆剥けたときから
奈良以外の世界が滅びて5年が過ぎようとしている。
度重なる天変地異、疫病の流行から隕石落下までが、ことごとく奈良市中心部だけを避けたのであった。世界の中ぽつんと取り残された奈良の町。なんとか逃げ延びてきた人々は平城京跡や奈良公園に住み着いた。奈良だけが安全だった理由は解明されず、生粋の奈良市民たちの中には「大仏様のおかげだ」と言う者も多かった。
奈良以外の世界は荒廃していた。不毛の大地となり、とても人は暮らせない。何も育たない。しかし奈良の土地はまだ生きていた。米や野菜を育てることができたのである。水もきれいだ。結解に守られているように、奈良だけがかつての世界を保っていた。
生き残ったとはいえ、夢も目標も叶えられない世界になってしまった。多くの人々が生きる気力をなくしたのである。最初の頃は、奈良駅や西大寺駅に毎朝人が溢れていた。「万が一電車がやってきたら、通学・通勤ができる」と思ったのである。彼らは、通うべき大阪がもうないということを受け入れられないのだった。
日々をただ過ごすだけの人々にも、救いの手は差し伸べられた。朝と夕、僧侶たちが中心となって炊き出しをする。米と汁、それに漬物や納豆が提供された。
良くないことを考える人もいる。寺社仏閣から盗みを働こうとする者がいた。だが、その人たちがさあ実行しようとすると、決まって背後から視線を感じたのだ。振り返ると、鹿がいた。ただじっと見つめてくるのだが、見透かしてくるような視線だった。心が苦しくなって、人々は踵を返すのである。
悪いことをするのすら諦める気持ちが、奈良を覆いつくしていた。奈良の外は、荒廃したままである。奈良には海がない。湖もない。動物園もない。遊園地はなくなった。人々は「ああ、せめて残ったのが東京だったらなあ」「千葉の方がよくないか?」と話した後、それだと自らが生き残っていないだろうことに気が付いて黙ってしまうのである。
8月7日、久々にお身ぬぐいが行われることになった。大仏の清掃をするのである。毎年することだったが、4年間行われていなかった。お身ぬぐいのためには
お経が唱えられ、奈良の大仏、廬舎那仏の魂が抜かれる。そのとたんに町に大きな変化が起こることはなかった。奈良が生き残ったのはたまたまだったのか、それとも他の御仏のお力か。僧侶たちはいろいろと考えながらも、ほこりを落とす作業を始めた。
「これはどうしたことか」
大仏の頭の上にいた僧侶が、何かに気が付いた。
「何かありましたか?」
「中指にささくれが」
大仏の右手、少し前に突き出された右手の中指、爪の付け根がささくれていた。普段は裏から見ることはなく、今できたのかずっとであったのか、にわかにはわからなかった。ただ、これまで一度も聞いたことのない現象であるのは確かだった。
大仏の右手は、「恐れなくてもよいですよ」という意味を持つ形をしている。
「ああ、きっとこれは……」
僧侶は涙を流していた。そして、声が出ないことに気が付いた。いや、出た声が吸いこまれているのだ。大仏殿の中の色も、渦巻いてささくれの中へと吸い込まれていった。光がなくなる。
(世界との裂け目ができるほどに、守っていてくださったのですね)
声なのか思いなのか、僧侶自身にもわからなかった。奈良の町からも、音と色が失われる。そして人々の魂も、ささくれへと消えて行った。
廬舎那仏の右手が逆剥けたときから 清水らくは @shimizurakuha
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