自由研究もそうですが、口では「自由に」だの「好きなように」だの、さも子供の意志を尊重するようなことを言っておきながら、教師や世間(本作の場合は母親)が求める形式・水準のものでなければ「課題を終わらせた」ことにならず、書き直しをさせられたり減点されたりするのですから、つらいですよね。
個人的には、読書感想文が嫌われる要因には、生徒の感想に教師がレスポンスを書かない(時間的に書けない)こともあると思っています。
小説でも映画でもTV番組でも、誰かに感想を言ったり、誰かの感想を聞いたりすることは楽しいはずなのに、生徒の発話に対して教師が何も返さないのですから、生徒としては、自分の感想や発話の意味を否定されたという感覚しか残らないのではないか、と。
書く経験、読んでもらう経験が楽しくなければ、自分の内面を打ち明けるような文章を書く気にはなれないでしょうし、しかも教師が求めるような模範的な感想だけを書こうとしていたのでは、原稿用紙を埋めるだけで苦労するのは当たり前です。
本作の場合も、母親は感想文を書かせておきながら子供(語り手)自身の声には興味を示しておらず、むしろ大人世界の常識的価値(だと自分が信じているもの)を押し付けています。
コミュニケーションが成立していないのですが、おそらく母親の中では成立したことになっていて、なまじ善意で「助けて」いるのですから、タチが悪いです。
このような理不尽さは、家庭でも学校でも、残念ながら珍しくないと思います。
そもそも教育(人が人を育てること)が簡単に済むはずはありませんが、1つひとつであっても問題が認識されて、解消に向かっていくことを願います。
長文失礼しました。
作者からの返信
あじさい 様
応援コメントいただきありがとうございます。
大変励みになります。
ご指摘いただいたよう、一方通行のコミュニケーションは、学校でも家庭でも、どこでも誰でも起こりうるものだと私も思います。「誰かに『自分』の気持ちを伝える」。たった十数文字の事柄ですが、令和の情報社会になろうとも、それはとても難しいことです。そんな中でいかに子どもの「声」を聞き取るか、抑圧させず発散させるか、その辺りが、作中の「私」にとっての鍵だったのでしょう。
家庭と、学校と、友人関係と。子どもにとってはそれが社会であり世界にも等しいと、私は思っています。作中では彼女(「私」)にとって読書感想文は文字通り「ささくれ」となって残っていましたが、彼女の「声」は、どこかの誰かにでも届いてくれていたら良いな、と、彼女の幸せを、そっと祈っています。
長い文になってしまい、申し訳ありません。
お読みいただき、ありがとうございました。
小狸
読書感想文、苦手な子がいまだに多いようですね。そもそもこの宿題、子どもひとりでやるのはハードルが高い気がしています。私も本作に出てくる教育ママほどではないですが、母親に添削してもらった記憶があります。
色々とテンプレートを作り、子どもの力だけで書きやすいように工夫をしている学校もあるようで、少しでも苦手意識が多い子が減るとよいのですが。
作者からの返信
水涸 木犀様
応援コメントいただき、ありがとうございます。
大変励みになります。
確かに、「物語を読み終え」「その感想を抱き」「言語化し書き留める」という過程をすらすらこなすには、かなりの訓練が想定されます。その訓練の末に得たことは、受験の小論文や文の読解、果ては相手に「私」を伝える、コミュニケーションの糧になると、私は思っています。
「国語不要論」が時折話題に上がる昨今に悲しくなる日々ですが、現場の先生方の工夫や授業づくり、またご家庭でのコミュニケーションなどから(人頼りになってしまいますが)、「国語が好き」と言ってくれる子が1人でも増えることを、切に願っています。
長い文になってしまい、申し訳ありません。
お読みいただき、ありがとうございました。
小狸
自分にも経験あります、国語の教科書など、親の前で、声を出して読んでいて、分からない漢字でつまってしまうと、大激怒でした、「モチモチの木」で・・・かなり、苦労しました。
作者からの返信
成瀬昭彦様
応援コメントいただきありがとうございます。
大変励みになります。
『モチモチの木』、懐かしいです。確かに一文が長く、読点が多く、三年生が音読するには少々ハードルが高いですよね。彼女(作中「私」)も、成瀬様の苦労にきっと共感してくれると思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
小狸