「だいくとおにろく」松居直(再話)/ 赤羽末吉(画)

 流れのはやい大きな川が、なんど橋をかけてもその橋を流してしまうため、その辺りで一番名高い大工がその川に橋をかけようとして、鬼と出会って、厄介ごとに巻き込まれる話。


 とても有名な絵本であり、私の大好きな絵本のうちの一つでもあるこの作品。


 大人になったいま、手元にあるこの本をめくると、子供の頃の印象よりもずっと短く、全体で二十七ページしかない。


 それでもどのページの絵も大きくて、魅力的だし、お話は、基本的に鬼と大工が問答をしているだけなのに、そのやり取り、それから表情やしぐさのどれもが面白くて飽きさせない。


 大人になって改めて開いてみてもまったく退屈しない、素晴らしい絵本だ。


 ただ今回私が、この作品について書こうと思ったのは、すでに十分魅力が知られているこの絵本について、また一つ賛辞を加えるためだけではなくて、このお話でさりげなく提示されている、ある重要な概念について述べたかったからだ。


 それは作品の結末、というかオチになるのだろうけど、鬼の名前を言って、鬼を消す、という一連の流れのことだ。


 残念ながら私は、小さいころ、この絵本を初めて読んだ時、どうして鬼の名前を当てると、鬼が消えるのか、と疑問を抱いたかどうかすら覚えていない。


 けれど薄っすらと、子供ながらにこのお話はどこか変な気がしたのは覚えている。


 作中では一応、鬼の方が「おれのなまえをあてればゆるしてやってもええぞ」と言っている。

 

 だから名前を当てられて約束通り鬼は消えたのだ。という説明はある。


 けれどよく考えてみると、どうして名前を当てられたからって消えなくちゃいけないのだろうか。


 そもそも、鬼はわざわざ橋までかけてから、大工に目玉をよこせと言っているのだ。


 だから鬼にとってはおそらく、大工の目玉は橋をかけることと同等の価値があるはずだ。


 だけどそのような労苦にも関わらず(まあ鬼にとってはたいしたことじゃないのかもしれないが)大工に名前を当てられただけで(しかもそれは盗み聞きで得た情報だ!)、鬼は律義にも消えてくれるのである。


 これでは鬼は大工にいいように利用されただけではないか(改めて読むと、子供の時には面白く思っていた大工のずる賢さに嫌気がして、ちょっと鬼の肩を持ちたくなる)。


 この謎が、大人になるまでずっとわからなかった。

 

 でも大人になって色々な作品を知っていくうちに、実はこの短い絵本が、とてつもなく重要なことを伝えているのだとわかるようになった。


 別に私は名探偵でもないし、もったいぶる必要もないので、さっさとその謎を解明すると、要するにこれは、「未知の物に対する人間の認識の変化」を描いているのだ。


 なにを言っているのかわかりづらい気がする。


 もう少し詳しく書くと、


 まず鬼は、この世のものではない。それは異界に住むものだ。だから我々人間には鬼がどんな生き物なのかよくわからない。


 橋が、その荒れ狂った川に鬼の手によって、あっという間にかけられてしまったこと、鬼が泡の中から現れたことは、それを端的に示している。


 鬼の力がどんなものなのか、本当のところ人間にはわからないのだ。


 人間は、わからないものに対して恐怖を抱く。街灯のない真っ暗な夜道に幽霊が出やすいのはそのせいだ。未知の宇宙人に、ウイルスに、サイコパスに恐怖を覚えるのはそのせいだ。


 ただその未知のものに対して、人間ができることが一つある。


 それが「名づけ」で、この場合、鬼の名前なのだ。


 恐怖の対象に名前がつくと、その泡立つような感情は急激にしぼむ。


 それは「鬼」=「得体の知れない恐怖の対象」から「おにろく」になってしまう。だからこそ、鬼は消えなくてはならなかったのだ。


 なんだそんなこと、と言う人もいるかもしれない。


 だけどよく考えると、このことは、おにろく以外のことにも当てはまる。


 たとえば私たちはよく、理由もわからずにイライラすることがある。


 その理由は実のところ、ただ寝不足だったり、お腹が空いているだけだったりすることがほとんどであるのだけど、そういった理由がわからなければ、ずっとイライラしたまま過ごすことになるし、それを解消するためにどう行動したらいいのかもわからなくなってしまう。


 そしてこれはなにも、個人的なことだけでなく、もっと大きくて、曖昧で複雑なことにも当てはまる。


 たとえば、


 どうして自分は他の人と同じようにできないのか、どうして自分はこんなことをしてしまうのか。

 

 こういった類の問いは、複数の要因が絡まり合って、容易には答えられないものであることが多い。


 だけど、その理由がすこしでもわかれば(たとえば遺伝子が、社会通念が、性差別が、とか、過去のトラウマがなどだ)、鬼が名前を当てられて消えたように、苦しみも軽くなるかもしれないのだ。


 だからこのお話は、苦しみや恐怖をどうにかしたいなら、その対象をしっかりと認識しないといけない、と言っているのではないだろうか。


 でもこんなことは当然、それを読んだ子供たちにはわからないはずだ。


 だけどこの絵本がすごいのは、それでも物語としてそれを私たちにしっかりと届けていることだ。


 そして恐ろしくもあるのは、それは私たちの中で、いつか紐解かれるのをじっと待っていることだ。


 その時は、私たちが大人になって、私たちの子供と一緒にこの絵本を読むときかもしれない。

 あるいは、もしかしたらその時は永遠に来ないかもしれない。


 けれどもそれは、きっと何十年も経とうが、私たちの中にある。そのようなメッセージの在り方は、とても優しく、とても厳しい。


 それが、私がこの絵本を大好きな理由の一つだ。


 


 


 


 

 


 


 

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