「そして誰もいなくなった」アガサ・クリスティー
互いに面識のない様々な職業、年齢、の男女十名が孤島に招かれる。その夕食の席で、彼らの過去の罪を糾弾する謎の声が響いて、それからは童謡の歌詞通りに一人ずつ殺されていく、という小説。1939年発表。
クリスティーの作品では、おそらく一番有名な作品なのではないかと思われる一品。
発表から八十五年経った今でも類似した設定(デスゲーム)を受け継いだ作品が生まれ続けている、影響力の極めて高い作品だ。
でも、クリスティーをこの作品だけで大きく語るのは、間違っている。もちろん、この作品も「クリスティーらしさ」は健在だけど、他の作品を読んでから、これを読み返すと、かなり異色な作品だとわかる。
個人的には「クリスティーらしさ」全開の作品とは、「ナイルに死す」だと思っているが、あまりこちらは語られない(また別のところで取り上げたいと思う)。
私がこの作品を初めて読んだのは、十歳の頃だった。確か、「名探偵コナン」
でその存在を知ったのだ。その時、これと、「ABC殺人事件」を読んだ気がする。
だが十歳には少々早すぎたのか、それとも元々合わなかったのか知らないが、当時「そして誰もいなくなった」の面白さはあまりわからなかった。
登場人物十人が誰が誰で、どんな過去があるのか、この単語はどんな意味なのか、ストーリーはどうか、そういうことに一生懸命に追うだけで終わってしまったのだ。
そして最近になって読み返してみると、ものすごく読みやすいのだが、登場人物の多さとか、視点の切り替わりの多さなどから、やはり十歳には難しいなと思う(早熟な人なら読めるかもしれないが)。
それから改めて思ったのは、十人も人が死ぬのに、あまり残虐表現というものがないことだ。
それはクリスティーの他の作品でもそうなのだ。
「そして誰もいなくなった」では、後続作品がどうにかして人間の尊厳を破壊して、それがただの物体に過ぎないと主張するのに躍起になっているのに対して、この作品では最低限の描写に留まっている。
というか、彼女の関心はそこにはないのだろう。かわりに、その正義観というのか、それが伝わってくるのだ。
クリスティー作品をいくつか読んだことのある人が知っている通り、彼女は死刑制度に賛成していた。冤罪が恐ろしいことで、避けられないものだと知っておいて(さらにはそれを暴く探偵小説を書きながら)、そうだったのだ。
それは探偵小説が必ず真実を明らかにしてくれる、探偵が暴けない真実など存在しない世界観に成り立っているからなのかもしれない。
当時、イギリスでの死刑制度の賛成割合は七割強くらいだったらしいが、それでも、冤罪が避けられないとして、イギリスでは1969年に死刑制度は廃止された。
ポワロは絶対に間違えないが、現実の人間は間違いを犯してしまうものだ。
日本では今でも死刑制度は存続されている。死刑制度に賛成する人の割合は、同じく八割程度だ。
「そして誰もいなくなった」でも、人の懲罰感情、処罰感情というものが、一つのテーマになっている。法律で裁けない悪を裁きたいという欲求だ。
残念ながらそれは現代でも続いている。いや、むしろ、頻繁に目にするようになってしまった。人はSNSなどで、「けしからん」「不快な」相手を探し出して、その人間を叩くことで安心を得るという行為を飽きることなく行っている。
その結果、叩かれた人の中には、まったく心当たりのないことを言われて、耐え切れずに命を落としてしまう人もいる。そして、そのような憶測には、実際にその人物がどういう人物なのか、何をしたのか、という検証はまったくされないのだ。
好き勝手に叩いたら、それで終わり。また別の「けしからん」相手を叩きに行くだけだ。その人がどうなろうが知ったこっちゃないのだ。
私は、このような人間の習性は愚かしく、恐ろしいと思うが、しかしある種の防衛本能なのだろうなとも思える。
つまり、なくならないのだ。
いや、なくならないのかどうかはわからないが、私はなくならないんじゃないかと思っている。
クリスティー作品ではよく、「人はみんな似たり寄ったりだ」というような言葉が散見される。
それで言うならば、私たちもそうだ。クリスティーがこの作品で書いたように、クリスティーがそうだったように、私たちは「悪」を裁いて安心したい。それで世界がよくなったという物語を信じたいのだ。
「そして誰もいなくなった」
この、恐ろしい舞台装置や、殺人にばかりに目がいきがちな、このクリスティーの暗部とも言うべき作品は、認めたくないが、実は私たち自身の姿を現した作品なのだ。
だからこそ、百年近く経ったいまもまだ名作として読み継がれているのだろう。
(前回と文体を変えました)
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