「指輪物語」J.R.R.トールキン
第一回に取り上げる作品は、このあまりにも巨大な物語です。
物語のあらすじは、その長さに関わらず、実はとても単純で、たまたま手に入れてしまった「一つの指輪」を、滅びの山に捨てに行く、というだけのストーリーです。
でも、その過程で読者は、あまりにも精巧で、長大な、誰にも真似できないような独特の世界を体験することになります。そして、読み進めるうちに、指輪を捨てる、というだけの織物には、王権の復活、魔法の時代の終わり、という金と銀の糸が織り交ぜられていることに気付きます。
トールキンが作ったのは、中つ国の世界そのものでした。言語、歴史、風習、種族……。彼は文献学者で、神話に造詣が深く、物語のすべてを知っていました。
その影響力は、あまりにも大きすぎて、今、いったいどこまでが彼の影響で、そうでないのか、簡単に区別できないくらいになっています。
エルフが長命で、深い知恵を持っているとか、ドワーフと言えば鍛冶、オーク、ゴブリンと言えば悪い奴、みたいな日本の「Web小説」でも流通している一般的なイメージは、「指輪物語」以前からそうだったわけじゃなくて、「指輪物語」によって決定づけられたものなのです。
だからもし、そういうイメージを変えたい、もっと世界に奥行きのある、つまり自分の考える最高の「ハイファンタジー小説」を書きたいと思った場合、そこには必然的にこのトールキンの「指輪物語」が立ちはだかることになります。
トールキンの「指輪物語」は結果的に後続の作家たちに、ハイファンタジーを作る際に、想像上の言語を作ったり、歴史、その世界を彼よりも説得力のあるやり方で描き出すことを求めることになりました。
そしてこのハードルがあまりにも高すぎるため、その方向性に進むのを避けるか、それでもそうした作品を作りたい力のない作家たちは、彼の傘下に入り、大人しく彼の作った、エルフやドワーフ、オーク、ホビットのイメージに準拠することになるわけです。
私がこの作品に出会ったのは、映画からで、まだ子供の頃でした。その頃、ちょうど三部作の映画がやっていて、レンタルビデオ店で借りたそれを、まだ我が家にあったビデオデッキで見ました。
映画それ自体は、素晴らしい出来だと思います。今もたまに見返しますが、いつもその音楽、演技、美術、物語に感動します(個人的には、悪の追手から逃げ続ける「旅の仲間」が一番好きです)。
でもやっぱり原作とは違っていて、たとえば、メリーやピピンの性格、ガンダルフも印象が違うし、サムとフロドの関係も微妙に違います。戦闘シーンも、あんなに派手で勇ましく描かれていません。原作の「指輪物語」はもっと静かで、地味で、粛々と使命を果たしていくような物語なのです(その意味で退屈だと感じる人もいるようです)。
それと、原作を読んでいると、映画では見過ごしがちだった、中つ国の自然の風景が目に浮かぶのです。ヒース野が広がっていて、うねうねと、丘陵地帯が遠くまで伸びている。そういうありふれたイギリスの原風景というか、トールキンが見て、愛した景色というのが、物語の途中で何度も挿し込まれていて、ひしひしと伝わってくるのです。
トールキンがなぜ、一般にあるような一人の普通の人間が力をつけ、英雄になっていくような物語でなくて、「一つの指輪」という、力そのものを捨てる物語を書いたのか不勉強な私はなにも知りません。
長引く戦争にうんざりしていたせいかもしれないですが、それだけだとはどうしても思えない。かと言って他の理由はなにもわかりません(そもそも物語はどこからやってくるのだろう? という疑問もあるけれど)。
でも、「指輪物語」がこの世に出てからもう七十年ほど経つけれど、相変わらず人間たちは「一つの指輪」を求めているように思えます。それは今では「能力」といっていいのかもしれません。
私には、「Web小説」に溢れる「チートスキル」で、異世界を満喫する物語は、そうした「能力」とその場所さえあれば、人生を幸せに生きられると言いたいかのように見えます。
そして、私が「なろう系」などの異世界転生ものなどを、あまり好きになれないのもこの点にあります。
個々の物語が実際にそういう意図がなくても、なんだか、それは読む前から、まるでそのような突出した「能力」がないと、「何者」かでないと生きる価値がないと言っているように見えてしまうからです。
私は、「能力」とはもっと曖昧なものだと思います。そして、その優劣は初めから決まっているのではなくて、誰かが決めたものです。
「有能」な人間もまた、「無能力」の人間の「能力」に支えられながら生きています。
この物語で「一つの指輪」を捨てる、という中つ国の誰にとっても困難なことを成し遂げたのは、偉大な魔法使いであるガンダルフでも、智慧を携えたガラドリエルなどのエルフでも、ドワーフでも、その時代がやってくる人間でもなくて、何の力もないとみなされていた小さなホビットでした。
でもそうやって物語で、指輪は捨てられてなくなったのに、残念ながら今の社会では変わらず、「一つの指輪」が求められているように見えます。
あまりにも多くの人がそう思うから、そのような「能力」がなければ、生きている意味がないと本気で思い込んでしまう人もいるように感じます。
「指輪物語」の最後、フロドは結局一人では「一つの指輪」を捨てることはできませんでした。それはゴラムがいなければ成し遂げられなかったのです。
私はこのどこか肩透かしのようなラストを思うたび、なぜトールキンがこの結末を選んだのか考え込むと同時に、驚嘆します。
それは指輪の誘惑の強さもさることながら、単純に善悪を分けたり、何が必要でそうでないかを人間が判断することがいかに難しいか、それがいかに愚かなことなのか、というのを思い起こさせるからです。
私たちは結局、「指輪」を捨てることなんかできないのかもしれません。どんなに立派に生きようとしても、最後まで力に固執してしまうのかもしれない。
でも、そうしたところで、思ってもいないことが起きて、それを捨てることになるかもしれないのです。
それは「死」かもしれないし、誰かとの争いによってかもしれない。
人が「一つの指輪」という力を求める限り、「指輪物語」はこれまでも、これからも影響力を持ち続けると思います。その意味でも、もちろん個人的にも、けっして忘れることのできない物語です。
最後に、私が最も好きな言葉の一つである、一つの指輪の銘をここに記してこの記事を終わろうと思います。
One Ring to rule them all, One Ring to find them, One Ring to bring them all, and in the darkness bind them.
一つの指輪は全てを統べ、
一つの指輪は全てを見つけ、
一つの指輪は全てを捕らえて、暗闇の中に繋ぎとめる。
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