第38話 定石

 股間に肘を叩き込まれて悶絶する男を尻目にして直樹なおきは立ち上がる。背後を見ると若菜わかなが丁度、階段を駆け降りてきたところだった。


 直樹は再び、若菜に片手を伸ばす。


「逃げるぞ」


 短いその言葉と差し出された片手に、若菜は場違いとも思えるような嬉しそうな顔をする。


 裏口だ。

 逃げたぞ。


 そんな言葉が聞こえてくる。片山かたやまは大丈夫だろうか。いくら荒事に馴れているとはいっても所詮、暴力なんてものは数でしかない。それを覆すのであれば、武器ということになる。


 さっき、銃声のような破裂音を聞いたことは間違いがなかった。大事になっていなければよいのだが。


 そこまで考えたところで、再び聞こえてきた怒声が直樹を現実に引き戻した。


 若菜の片手を引いて直樹は駆け出した。背後を見ると、二人の男がこちらを指差しながら何事かを叫んでいる。


 そう言えば若菜の弟、たけしもこの襲撃に加わっているのだろうか。そんな疑問が頭に浮かんだが、片山と同様に今はそれを気にかけている場合ではなかった。


 逃げるのであれば大通りに向かった方がタクシーを捕まえやすいだろう。直樹はそう判断して六本木通りへ向かう。もちろん、片手で若菜の手をしっかりと握りながら。


 もっとも走り出したところで若菜がいる以上、追ってくる狂走会の連中に追いつかれることは目に見えていた。時間はまだ昼にも届かない時間帯だ。夜ならばいざ知らず、人混みに紛れるような真似もまだできないだろう。


 となれば、どこかで奴らを迎え撃つ他にない。不意をつけば金属バットを持っているとはいえ、二、三人ならば対処できるかもしれない。ただこちらは若菜を連れているのだ。彼女を庇いながらそんな真似が可能なのか。


 だが、やるしかない。定石はそれ以外にない。

 直樹は腹を括る。六本木通りまではもうすぐ。その手前の角で直樹は足を止めた。


 血相を変えて走って来た男女を通りすがりのビジネスマンが不思議そうな顔で見ていた。何かと物騒な新宿歌舞伎町のど真ん中ならともかくとして、真昼間の六本木で直樹たちが金属バットを手にした半グレ連中に追われているなどとは想像もつかないのだろう。


 もっともこんな真昼間に乱闘となれば、警察を呼ばれるのも時間の問題だった。そして直樹たちにとっては、警察が来た方が状況は好転するかもしれない。


 色々と探られたくない腹を探られるかもしれないが、少なくとも警察であれば身の危険だけはない。となると、騒ぎをできるだけ大きくした方がいいのかもしれなかった。


 今まで手を引っ張られていた若菜が急に足を止めた直樹に不満そうな顔を向ける。


「少し離れていろ。ここで追ってくる奴らを何とかする」


 直樹が何をしようとしているのかが分かったのだろう。若菜が無言で頷く。こういうところは勘がよくて、いつも助かると直樹は思う。


 その自分本位でしかないような考え方や性格には難があって時には足を引っ張られるが、頭の回転は速くていつも助かるというのが、若菜に対する直樹の率直な感想だった。


 直樹は乱れようとする息を整えながら、壁沿いに体を張りつかせた。ここ数年、空手の鍛錬をおざなりにしていたことを心の底から後悔していた。こうして少し体を動かすと、簡単に息が切れてしまうようだった。


 いくつかの足音が迫ってくるのが聞こえる。同時に聞こえてくる息づかいもかなり荒いようだった。


 直角に曲がる角のすぐ近くで壁に張りついた直樹は、気持ちを落ち着かせるために長く息を吐き出した。肺の中の空気が空になった瞬間だった。


 壁に張りついている直樹の眼前を黒い影が通り過ぎた。直樹は短く息を吸い込んで再び肺に空気を入れると、先頭を走る影が自分の前を通り過ぎる瞬間、その足元を目がけて自分の片足を伸ばす。


 軽い悲鳴のような声をあげて若い男がアスファルトの上を転がった。その勢いで男の手を離れた金属バットが、アスファルトの上を転がって耳障りな甲高い金属音を立てる。


 続けて現れた影に今度は横腹を目掛けて直樹は前蹴りを繰り出した。それと同時に自分の踵が相手の肉に深く食い込む感触がある。

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