第36話 愛

「誰に頼まれた? 海外の組織へ売るにしても、キャバ嬢にそんなパイプがあるとも思えない。盗むように誰かから持ちかけられたってとこなんだろう?」


 若菜わかなは答えない。それを見て片山は言葉を続けた。


「そして、お前をそそのかした奴。何があったのかは知らないが、そいつから何の連絡もないってところだろうな。一億はそこにたまたまあったから、ついでに盗んだってところか?」


 片山かたやまが最後の言葉を吐き出した時、薄い笑いを浮かべてみせた。それを見た若菜は血相を変える。


「はあ? 分かったようなことを言わないでくれる?」


「てめえこそ、そんなことでこっちを巻き込みやがって」


「そんなことって何なのよ? それに巻き込んだなんて言われても知らないわよ。別に頼んでないし」


 そう吐き捨てる若菜に直樹なおきは軽く溜息をついてみせた。頼んでないとはどんな言い草なのだと直樹としては思う。出会った時に助けてくれと言っていたのは一体、誰だったのだか。そう言いたくもなってくる。


「ちょっと、直樹。溜息はやめてって言ってるじゃない」


 そんな直樹の思いを察したかのように、若菜は直樹に対しても噛み付いてくる。

 そんな若菜を横目にして片山が改めて直樹に顔を向けてくる。


「前にも言ったと思いますが、もう私の範疇で収められる話ではないですね。この女が盗んだ金、そして盗んだリストデータを差し出しても、今ここで一緒にいる直樹さんにも必ず火の粉が降りかかる。私が絡んでいると分かれば、私も同様に火の粉を被ることになる。下手をすれば組と組との話にもなる。そして、そいつは私がエンコを飛ばせば済むような話でもない」


「逃げるしかないか……」


「日本を脱出するのは、今ならまだ難しくはないでしょうね。いつほとぼりが冷めるのかは分かりませんが、東南アジアか南米あたりに逃げ込めば何とかなるでしょうかね。まあ、金の問題がありますが」


 ……東南アジア。

 ……南米。

 直樹は心の中で呟く。

 このまま日本にいて捕まれば、ただで済むはずがないのは明白だった。最悪は殺されることだってあるかもしれないということなのだろう。しかし、土地勘も何もない東南アジアや南米で生活していくことなど、果たして可能なのだろうか。


 そう考えながら直樹は若菜に視線を向けた。


「駄目だな。もう日本には居場所がないらしい」


 そう言ってみた直樹の言葉に若菜は口を開こうとはしなかった。


「直樹さん、本音は力ずくでこの女を直樹さんから引き離したいところなんですよ。もしくはこんな話だと知らなかったということで、直樹さん自身がこの女を差し出す……そうすれば直樹さんだけなら、まだ逃げ切れるかもしれないですね。そういった話であれば、多少は私も口がきけるかもしれない」


 片山の言葉に嘘はないだろうと直樹は思う。実際、直樹自身も理性では若菜を見限ることが正解だと思っている。このままでは共に破滅するだけだと。


 だが、若菜を見限ってしまうことは未だに直樹の感情が許さなかった。客観的に見ても自分は馬鹿だなと直樹自身も思っている。このまま一緒にいれば、破滅への一本道を共にただ歩んでいるだけなのだ。


 何故自分はそこまで若菜に固執するのか?

 自分は若菜を愛しているのだろうか?

 直樹は自問する。


 ……愛?

 自問しながら直樹は苦笑を浮かべたくなる気持ちだった。出会ってからひと月も経っていないのだ。愛も何もないだろうと直樹は思う。


 ならば状況は自分の手に余る程に切迫しているというのに、自分が若菜を見限らない理由は何なのか。それが愛ということではないのか。それとも情だとでも言うつもりか。


 いや、その理由や呼び方が愛でも情でもいいと直樹は思う。それが何であるにせよ自分が今、若菜を見限れないのは事実なのだ。


 きっと理屈ではないのだろう。若菜を見限ることができない。見捨てることができない。きっとそれが全てなのだ。


 直樹がそう結論づけた時だった。まるで蹴破られたかのように店の扉が派手な音を立てながら突如として開け放たれた。

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