第15話 説得する材料

 直樹の横で若菜が屈託のない寝息を既に立てている。互いに体を合わせた直後で、まだ直樹自身の体は汗ばんでいた。若菜も直樹と同様のはずだったが、そんなことは意に介さないようで何も身につけることなく若菜は眠りに落ちたようだった。


 ……一億円。

 直樹は頭の中でその数字を思い浮かべてみた。


 一般庶民としては否定のできない魅力ある金額ではあったが、暴力団の連中と事を構える金額ではない。所詮はたかだか一億だ。若菜にも言ったことだったが、その金額だけでこれからの一生を遊んで暮らせるような金額ではないのだ。


 若菜もそんなことは言われるまでもなく分かっているはずだった。そこまで馬鹿ではないはずだった。


 しかし、それでも若菜は暴力団の連中に追われていることが分かっていながらも、それを返すことは拒んでいる。連中に捕まればとんでもないことになることも若菜は分かっているはずなのに。


 それによって間違いなく降りかかってくる災禍。それでも若菜が返すことを拒んでいるとなれば、そこに一億という金額以外の何かがあるのか……。


 直樹はそこまで考えて、穏やかな寝息を立てている若菜に再び視線を移した。今は印象的な大きい黒色の瞳は閉じられているが、その分通った鼻筋が引き立って見えるようだった。


 持っている美貌は誰よりも優れているぐらいなのだ。その性格はともかくとしても、持って生まれた美貌だけで上手く立ち回れば、一億程度であれば楽に稼げる立場なのではと思う。


 やはり一億円以外に何かあると考えるのが妥当なのかもしれない。もっとも、それを訊いたところで若菜が正直に答えるとは思えないのだったが。


 いずれにしても既に状況は自分の手に余るところまで来ていることは間違いがない。自分が若菜と一緒に暴力団のような連中をこの状況で出し抜けるとは思えない。


 となるとやはり片山を頼るのが妥当なのだろうと直樹は思う。だが、相手は全国に根を張る広域暴力団の竹名組なのだ。日本で最大の規模を誇る暴力団……この状況は片山の手にすらも余ってしまうのかもしれない。


 直樹は軽く溜息をついた。自分の名前が表に出てこないうちに、有無をいわさずにこの場から若菜を叩き出すのがきっと正解なのだろう。それは理屈としては直樹にも十分に分かっていた。ぐずぐずしていると若菜と共に二度と浮き上がることのできない泥沼に引きずりこまれてしまうに違いない。


 しかし、若菜を見捨てることは直樹の感情がやはり許さないようだった。直樹は再び溜息をついた。若菜が自分の容姿が異性にどういう影響を与えるのか。それを十分に理解していて直樹の前で立ち回っているのは明らかだった。


 一方で直樹自身はそれを十分に分かっていなごらも若菜を見捨てられないでいる。その事実を思うと、溜息などは何度でもつきたくなってくるというものだった。


 片山に事情を話したところで、若菜を切り捨てろと言われるか、もしくは一億円を手放せと言われるだろうことは想像がついた。


 それに一億円を手放しただけでは、既に事態が収拾のつかないところまで来ているかもしれない。そもそもの話として暴力団から一億円を盗んでおいて、それを返したところで話が丸く収まるはずもない。


 詫び代としてそれ以上の何かを求められることは間違いがなかった。しかし、片山に頼ればそれ以上の何かを払わずに済む可能性は多分にある。


 やはり片山を頼って一億円を返す。これが現状では現実的な最善の対処法だった。


 後は若菜を説得するだけ。


 そう考えた直樹だったが、若菜の様子を見る限りではそんな説得に若菜が応じる可能性はゼロに近いように思えた。


 何故、若菜がこれほどまでに一億に固執しているのか。そもそも何故、若菜が一億を暴力団から奪うことになったのか。この辺りの理由が分かれば、若菜を説得する材料も増えるのだろうか。


 そんな疑問を頭の隅で泳がしながら直樹は若菜と同じく目を閉じたのだった。

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