第10話 嘘と分かる話

 浴室から戻ってきた若菜わかなは下着を着けていた。昨日まで身に着けていたものなのだろう。もっとも裸と何ら変わらず、下着姿だけでも直樹なおきにとっては十分に煽情的なのだったが。


「着替えを取りに行かないとね」


 若菜が少しだけ顔を顰めて言う。昨日の下着を着たことが気に入らないのだろうか。それとも取りに行くという行為が面倒なのか。その表情と言葉だけでは判断がつかなかった。


「着替えを取りに行くってどこへ? それに、また泊まるつもりか?」


「はあ? やり逃げでもするつもり? 行くところがないって言ったじゃない。着替えなんかが入っているスーツケースを東京駅に預けているのよ」


 ……やり逃げ。

 直樹は内心で呟いて軽く溜息をついた。


「何、その溜息は? 気に障るわね。癖なんだったら、やめた方がいいわよ」


 どうやら本当に気に障って怒っているらしい。若菜は燃えるような大きな瞳を直樹に向けている。


 直情的。そんな言葉が直樹の中で浮かぶ。


「ねえ、それより会社員って言ってたわよね。もうこんな時間だよ? 会社に行かなくてもいいの?」


 時計を見ると針は既に九時を回っていた。出社は十時だから急げば間に合うはずだが……。


 昨日の出来事を思い返すと、やはり今までのようにあの会社にいることは難しいように思えた。そもそも上司の鴨田に口止めを願うこと自体が弱味を握られてしまうようで気分が悪い。


「いや、今日はいい。後で会社には連絡するさ」


「ふうん。随分と融通がきくのね」


 若菜は皮肉のようにそう言った後、今度は急に笑顔を浮かべて顔を輝かせた。どうやら、くるくると表情が変わるようだった。よく言えば自身の感情に素直だということなのか。


「ねえ、だったら私と東京駅に行きましょうよ。スーツケース、大きいから運ぶのが大変なのよね」


 どうやら本当にスーツケースを運び込んでここで暮らすつもりらしい。


 返事をしない直樹を見て若菜が両頬を膨らました。そうすると今度は途端に子供っぽい顔になる。  


「ちょっと、彼氏でしょう? 彼氏なら彼女の手伝いぐらいはするものなんだからね」


 いつから誰が誰の彼氏になったのだ。直樹はそんな言葉を飲み込みながら頷いたのだった。





 どのくらいの期間になるかは知らないが、一緒に暮らすとなれば若菜が抱えているトラブルが気になってくる。大阪でトラブルを起こしたと言っていたが、明らかにあの時、若菜は反社と思しき連中に追われていた。


 確かに若菜が自分にとって魅力的な女性であることは認めるが、その魅力とともにトラブルに巻き込まれるのは御免だというのが直樹の本音だった。


 加えてそのトラブルに反社の連中が関わっていそうだとなれば尚更だった。

実際、東京駅に若菜の荷物を取りに行く際も、昨日のような連中に襲われる可能性もあると考えていた。


 幸い何事もなくこうして部屋に戻ることができたのだったが。


 今、若菜はベッドの上に腰かけてスマホに視線を落としていた。指の動きから見て誰かと連絡をしているといったことではなく、動画か何かを観ているだけなのだろう。


「なあ……」


 直樹が声をかけると、若菜は急に声をかけられたことが不思議だったような顔をして大きな瞳を直樹に向ける。


「一体、何があった。何であんな連中に追われている?」


 若菜はその言葉に小首を傾げてみせた。


「言ったじゃない。大阪でトラブルに巻き込まれたって」


「具体的にどんなトラブルだ?」


 若菜は口を開くのを少しだけ逡巡したように見えた。だが、次の瞬間には意を決したように口を開いた。


「大阪のキャバクラ。そこで働いていて、妙なお客につきまとわれたのよ。だから、東京に戻ってきたの。元々、こっちが地元だから」


 その表情からは何も読み取れなかったが、明らかに嘘と分かるような話だった。客と少し揉めたぐらいで、いかにも反社といった連中が動くとは考えられなかった。奴らが動くとなれば、やはり金が絡んでいるということなのだろうか。


 もしかすると自分はとてつもなく面倒なことに巻き込まれたのかもしれない。若菜には悪いが、それから逃げ出すのであれば早いほうがいい。時間が経てば経つほど、簡単には逃げられなくなってくるはずだった。

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