第8話 大阪

 直樹なおきが背後を振り返ると、追われていた彼女はこの一連の出来事を唖然とした顔で見ていた。助けてと直樹に言ったものの、こうも鮮やかに自分が助けられるとは思っていなかったのだろう。


「おい、逃げるぞ。仲間や警察がくるかもしれない」


 その言葉に彼女は何故か嬉しそうな顔を浮かべる。


「随分と強いのね」


 直樹は彼女の言葉に少しだけ首を傾げてみせた。そして口を開く。


「別に強くはない。相手が素人なだけだ」


 彼女はその言葉を聞くと俺に向かって片手を伸ばした。それを見て訝しげな顔をする直樹に彼女は苦笑する。


 改めて彼女の顔立ちを見ると大きな目が印象的な目鼻立ちの整った女だった。肩まで届く髪の毛は明るい茶色に染められているが、決して下品な感じではなかった。道を歩いていれば、振り返る男を見つけるのも難しくはないだろう。

 

 綺麗な顔は苦笑を浮かべても美しいらしい。そんなことを思いながら顔を見ていた直樹に彼女は口を開く。


「ちょっと、早く手を取りなさいよね。女の扱いを知らないんだから」


 そう言われて直樹は慌てて彼女の伸ばされた手を握る。次の瞬間、彼女は満面の笑顔を浮かべる。


若菜わかなよ。井上若菜。ありがとう。助かったわ」


 彼女はそう言うと直樹の手を取って走り出したのだった。





 二人で走り出したものの、行くところがないと言う若菜。関わってしまった以上はそのまま放り出すわけにもいかず結局、タクシーを六本木通りで拾って直樹と若菜は三軒茶屋にある直樹の自宅に向かった。


「お邪魔します……ワンルームなのね」


 直樹の部屋に入った若菜が口にした最初の言葉がそれだった。深夜に見ず知らずの男の部屋に入ることには何の躊躇いもないようだった。


 事情は知らないが、見るからにまともではないような連中に追われていたのだ。深夜、よく知らない男の部屋に入るぐらいで臆することはないのかもしれない。


 それにしてもと直樹は思う。若菜が身につけているものといえば小型の手提げ鞄だけだ。帰るところもなく寝床を転々としているようには見えなかった。それとも、大きな荷物はどこかに預けているのだろうか。


 そもそも何故、若菜はあの連中に追われていたのか。直樹の中で次々と疑問が湧き上がってくる。


 そんな直樹の質問を封じるように若菜は直樹に向かって笑顔を浮かべた。


「結構、綺麗にしているのね」


 確かに汚いわけでもないが、特に綺麗でもない。自分以外に訪れる者もいない三十歳を超えた独身男の部屋など、大抵はこんなものだろうと直樹は思う。


「彼女はいないの?」


 若菜の言葉に直樹は無言で頷いた。


「ふうん……」


 若菜は意味深に頷いた後、笑顔を浮かべる。妙な気を起こしたくなるとは言わないが、そうなってしまっても無理はないなと思わせる魅力的な笑顔だった。その魅力に逆らうようにして直樹は別のことを口にする。


「どうして、追われていた。あいつら、普通の奴らじゃないだろう?」


「ふうん、そういうこと分かる人なんだ。直樹は何をしている人なのかな。あんな時間に歩いているんだから、夜の商売なのかな? そのスーツとか鞄は会社員っぽいけど」


 自分にされた質問には答えないままでの質問だな。直樹は心の中で呟いた。


「ただの会社員だよ。普通のな。それで何で追われていた?」


 直樹は同じ質問を繰り返す。


「んー少し大阪でトラブル……に巻き込まれてね。それで追われている……のかな」


 若菜は言葉を選ぶかのようにゆっくりと言った。曖昧ではあったが、その大筋の話に嘘はないように思えた。ただ、そのトラブルの内容を具体的に細かく話すつもりが若菜にはないようにも感じられる。


 直樹はもう一つの疑問を口にした。


「大阪? 奴ら、関西人には見えなかったな」


「そうね。大阪の連中に頼まれて……って感じじゃないかしら」


 大阪にいながらでも東京で人を動かせるような連中に追われているということなのかと直樹は思う。一体、大阪で若菜は何のトラブルに巻き込まれたのか。


 そう重ねて訊きたいところだったが、訊いたところで若菜が素直にそれを口にするとは思えなかった。下手をすれば、適当な嘘をつかれて終わりだろう。


 ……まあいいさと直樹は思う。結局、瞬間的に巻き込まれただけで自分には関係のない話なのだ。

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