第7話 澱
息を切らせて走ってきた彼女は曲がり角の向こう側にいた
しかし、直樹の姿を見て彼女は自分が思っていたような人物ではないことが分かったのだろう。息を切らせながら必死な様子で口を開いた。
「お願い、助けて!」
……助けて。
普通に生活していてそうそう頻繁に耳にする言葉ではない。言われた言葉を状況と共に直樹が上手く整理できない中で、彼女の背後から怒声が聞こえてきた。
「待て、こらっ!」
追いかけられている最中に待てと言われて待った奴などいるのだろうか。
そんな場違いなどうでもいいような考えが直樹の頭の中をよぎった。
助けて。
その言葉の返事もできないままで、彼女が直樹の背後に回るのと十字路の角から二人の男が姿を見せたのは同時だった。
二人ともまだ若い。二十代前半だろうか。金色の長髪と黒髪の短髪の男たちだった。その醸し出している雰囲気から二人ともまともな感じには見えない。
「あ? てめえは何なんだ?」
彼女を背後に庇うような直樹の姿を見て金色の長髪が吠える。確かにこの状況で、自分の存在は何なんだと言いたくなるだろうなと直樹も思う。
「お願い、助けて。追われてるの!」
背後で彼女がもう一度言う。助けるも何も、どう見てもこの男たちはまともな職業についているような感じではなかった。それらを相手にして自分に助けを求められても……というのが直樹の正直なところだったかもしれない。
取り敢えず警察を……。
そう思って携帯を取り出そうとした直樹だったが、男たちが直樹との距離を一気に詰めてきた。
どうやらこの追いかけっこは尋常なものではないようだった。言葉の威嚇よりも有無を言わさず暴力でということらしい。
常の直樹であれば、ほぼ無抵抗でやり過ごすところなのだがこの日は違った。彼女を助けようということではない。正直この時、そんな気持ちはまるでなかったのかもしれない。
今夜、自分の身に起こった一連の出来事。クライアントの接待から始まった鴨田の自分に対する対応。その時の小川の態度。それらに端を発した店内での騒動。そして、片山との数年ぶりになる再開。最後には、出会い頭の事故であるかのようなこのよく分からない状況。
それら全てが直樹の中で少しずつ澱のように溜まっていき、その澱は怒り以外に昇華する術がないものとなっていたようだった。
何事かを喚き散らしながら、長髪の男が直樹に向かって片手を伸ばしてくる。見開いた目は血走っていて、直樹の言葉を受け付けるような様子は皆無に思えた。
直樹は自分に伸ばされた片手を右手で払い次の瞬間、長髪の男の膝下を蹴る。空手でいうところの下段回し蹴りだ。
服の上からであっにもかかわらず、鋭く乾いた音が周囲に響き渡る。長髪の男はこの瞬間、自分に何が起こったかも分からなかったかもしれない。
蹴られた片足を折るようにして長髪の男が前かがみとなる。丁度、頭の位置が直樹の胸の前あたりにまで崩れるように下がってくる。手加減をするつもりはなかった。下手に加減をすると不用意な反撃を受ける可能性がある。
直樹は彼の長髪を両手で掴むとそのまま顔面に膝蹴りを叩き込む。奇妙とも思えるような呻き声をあげて、長髪の男が前のめりにアスファルトの上に倒れた。
膝の感触からいって鼻が折れたことは間違いないだろうと思う。もしかすると前歯も折ってしまったかもしれない。
それを見て黒髪の短髪の男が懐から伸縮式の特殊警棒を出した。揉め事に慣れていると直樹は思う。ここで冷静に男は特殊警棒を持ち出せるのだ。
だが、余計な猶予を与えるつもりはなかった。直樹は一気に距離を詰めると、男の鳩尾を目掛けて前蹴りを放った。これも一切の手加減はしていない。
靴の裏が特殊警棒を振り上げている男の腹部にめり込む。くの字になって下がってきた頭に、先程の男と同じように髪の毛を掴んでその顔面に直樹は膝蹴りを叩き込んだ。
いくら揉め事に慣れていたとしても、格闘技経験者と素人では話にならない。余計な時間さえ相手に与えなければ、遅れをとるようなことはなかった。
直樹が十代後半まで学んできた一撃必殺を標榜しているフルコンタクト空手。素人が相手であれば、相手がどんなに荒事に慣れていたとしても素手で相対すればこのような結果になる。
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