終章-2

「こんにちは」


 そう言って雲野正和の病室に入る。


「いらっしゃい、マヤちゃん」


 美しかった京香の顔は、頬の肉が削げ落ちまるで骸骨のようだった。


「ご飯は?」

「何も、喉が通らなくて…」


 あれから一週間が経った。

 雲野正和に繋がった心電図モニターはいよいよ微弱になっている。

 もうすぐ一つの命が消える。

 それを強く感じさせられた。


「そうだ。これ、持っててほしいの」


 京香が3台のスマホを私に差し出した。


「円香と正和と、あと亜莉沙ちゃんの」


 スマホを受け取ってから京香の顔を見る。


「亜莉沙ちゃんのスマホは、正和が持ってたみたいなの。出来たら琴音ちゃんに渡してあげてくれる?」


 コクリと頷いて、鞄の中に3台のスマホをしまう。

 そして、京香の顔を再び見つめる。


「…私は、もう琴音ちゃんをまっすぐ見れない気がするから」

「…分かった」


 そう言って、病室の入口まで歩く。

 人の死は見慣れている。

 項垂れる京香の手には、錆びついた2つ折りの携帯電話が握られていた。




 琴音の病室に入る。

 カーテンが開かれ、日光が差していた。

 窓際に置かれた花瓶の花はどれも輝いている。

 あの看護師が来たばかりなのだろう。


 ベッド脇に座り、琴音の端正な顔を横から見つめる。

 額から鼻、そして唇、顎へと続く滑らかな曲線、何度見ても神が造形したような美しさだった。

 実在するどの国の芸能人、美術史の尤も美しい彫像と比べても、琴音のほうが一層美しいと思える。


 琴音は昔から美しかった。

 しかし事件後の琴音は、もはや別人だった。

 内面の力強さが溢れ出て、光り輝いているように私には見えた。


 現代のカーミラ、人の血を吸う事で永遠の若さと美貌を手に入れたバケモノ。

 電子空間上の彼女は、世界中の人にそう呼ばれている。

 それほどに亡骸を抱いて、全身を血に染めた彼女の姿は衝撃的だった。


 琴音の柔らかく閉じた瞼、その長いまつ毛に恐る恐る手を伸ばす。


「っ」


 慌てて手を戻す。

 仏菩薩の如く清浄で、純潔、そしてそれ故に近寄り難い。


 不浄な私にとっては、琴音は余りにも眩すぎる。

 これ以上近づくと私は焼け死んでしまうだろう。


「ふう」


 ベッドに3台のスマホを並べる。

 ピンクのキャラクター、飾り気のない黒無地、そしてMのイニシャル。

 琴音に魂を捧げた、三者三様の墓標だ。


 再度、琴音の仏ように綺麗で穏やかな顔を見る。


 ごめんなさい。

 でも、貴方が逃げることは許されない。


 ピンクのスマホに電源をいれる。

 ロックが設定されていないのか、直接にトップ画面が開き、そこには音声ファイルが3つ置いてあった。

 ファイル名はそれぞれ、警察の方へ、お兄さんへ、琴音ちゃんへ、だった。

 少し躊躇ってから、琴音の名前がついたファイルに指を置く。


「こんにちは、琴音ちゃん。亜莉沙だよ。へへ、何かこういうの残すの照れちゃうね」


 ピッ


 スマホから流れる音声を止めた。

 間違いなく、私が聞いて良いものでは無い。


 しかし…


 琴音の顔を見る。

 あれだけ穏やかだった表情が、僅かに曇っているがした。


「羽月さん、ごめんなさい」


 そう謝ってから、音声を再生させて琴音の耳元にスマホを置いた。


「この音声を琴音ちゃんが聞いている時には、私はもう死んでいるでしょう。…あはは、ふざけてごめん。ちょっと言ってみたかったの!」


 スマホの向こうにいる羽月亜莉沙は、まるで三文芝居の演者のようだった。

 生身の人間はそこには存在せず、理性的に話し方を考えて、器用に感情をコントロールして話している。


「えっとね、琴音ちゃんとお話したい事たくさんある…あったの!でも、ちょっと今…亜莉沙、頭ぐちゃぐちゃになってて…」


 話し続ける彼女の言葉から、少しずつ感情が漏れ出していく。


「あの、あのね!凄い嬉しかったんだ。琴音ちゃんが勉強教えてくれて、お話してくれて、友達になってくれて…凄い嬉しかったの!」


 彼女の言葉に嘘は無いのだろう。

 しかし、僅かな間や息遣い、何より漏れ出る魂の鼓動で分かってしまう。

 無理に明るく話す彼女の言葉の根底には、タールのように黒い感情がこびりついている。


「…ごめん、なさい。困るよね、突然こんな事言われても…。でも、亜莉沙の人生は今日でおわりだから…。だから、琴音ちゃんと友達になれて本当に嬉しかったって伝えたかったんだ!」


 これは、呪いの言葉だ。

 琴音の心に、羽月亜莉沙という楔を打ち刻印を残すための。

 生涯、二度と忘れないように。


「もしかしたら、"私"がこれから琴音ちゃんに酷いことをするかもしれません。本当に、ごめんなさい。…さようなら。琴音ちゃんの事…大好きでした」


 ブツリ


「うぅ…!」


 羽月亜莉沙の録音が消えると同時に、琴音からうめき声がした。

 琴音は苦しそうに眉を寄せて、その両手はシーツを強く握りしめている。


「ごめんなさい」


 そう謝ってから、飾り気のない黒のスマホを手に取り、電源をつける。

 画面には、やはり3つの録音ファイルが置いてあった。

 名前はそれぞれ、父へ、母へ、そして、藤宮へ、だ。


 一つのファイルに指を這わせてから、ピンクのスマホの代わりに琴音の耳元に置いた。


「亜莉沙のメッセージを聞いたか?もしまだなら、先にそっちを聞け」


 ぶっきらぼうな口調に小さく笑みが溢れる。

 彼は直情的で非常に分かりやすい性格だった。


「最初に謝っておく。お前宛のメッセージを聞いた。すまん」


 しかし、相変わらずに重々しく低い、不機嫌そうな声だ。

 琴音は彼の声が素敵だと言っていたが、趣味が合いそうにない。


「俺から言う事はただ一つだ。気にすんな」


 そして、羽月亜莉沙と同様に、魂に刻みつける呪いの言葉を放つ。

 こちらは演技じゃなく言っている分、尚更に質が悪い。


「俺と円香の事はすぐに忘れろ」


「やめて…」


 琴音の口からポツリと声が漏れた。


「俺達は、最善だと思ったことを、自分の我儘でやっただけだ。お前に責任はなく、当然気に病む必要も一切ない」


 雲野正和の言っている事は間違っていない。

 しかし、人はそう単純には割り切れない。

 琴音の場合は、特に。


「いいか?もし俺と円香の事で、お前を責めるクソ野郎がいたらこの録音を聞かせろ。俺達は自らの誇りと傲慢により命を散らしたんだ。誰であろうと、俺達の死に他の理由を捻り出す事は許さん。じゃあな」


 ブチッ


「待って!」


 雲野正和の録音が終わった時、琴音の右手が宙に伸ばされた。

 追いすがるように開かれた手のひらは、やがてベッドの上に力無く落ちた。

 琴音の瞼からは一筋の涙が溢れていた。


 黒いスマホを持ち上げる。

 心なしか先ほどよりも軽いように感じた。

 その黒いスマホを額に当てる。


 …ごめんなさい。貴方を巻き込んだのは私です。


 最後にMのイニシャルがついた白いスマホを手に取る。

 雲野円香。琴音の親友。

 おそらく最初で最後の、琴音と対等に話せる人物。


 電源をつけると動画ファイルが1つあった。

 タイトルは上荻小学校 卒業式。

 懐かしい名前だった。

 少し躊躇してから、指を伸ばす。


 子どもたちの歓声が聞こえる。

 スマホの画面に小学校の校舎と中庭が映っていた。

 中庭には沢山の大人と子どもが集まっている。

 どうも、卒業式が終わった後を撮影してるようだ。


「ママ、早く!」


 赤いランドセルを背負った小さな少女…幼い頃の円香が、撮影者の手を引いている。


「そんな急いでどうしたの?」


 少しくぐもった京香の声がした。


「琴音が居ないの!」


 そう言って幼い円香が走り出す。


「ちょ、ちょっと待って!」


 京香が息を弾ませて、それでもカメラの視点を円香に合わせて走っている。


「多分裏門の方!」


 カメラの奥の円香が、ランドセルを大きく揺らしながら校舎横を駆け抜けていく。

 この頃の円香の髪はまだ黒一色だった。3年前というのはひどく遠い昔なのだと実感させられる。


「居た!」


 カメラが門の前にある大きな桜の木を映し出す。

 まだ初桜で、ふくらみかけのつぼみが幾つもあった。

 その隣に幼い琴音が一人で立っていた。


「ママ、ここで待ってて」


 そう言って、円香が駆けていく。

 それに気づいたのか、桜を見上げていた琴音が振り向いた。


「どうしたの。そんなに慌てて」


 カメラに映った琴音も、赤いランドセルを背負っていて顔つきも幼い。

 しかし、奥底を見透かすような冷たい眼差しだけは今と殆ど変わらなかった。


「どうしたのじゃない。先に行かないでよ!」


 荒く息を吐いて不平を表す円香を、琴音は一瞥する。

 そして再び桜を見上げた。


 円香が琴音に手を差し伸べる。


「ほら、帰ろ!」


 しかし、琴音は桜から視線を離さずに冷淡に言った。


「一人で帰って」


 円香が手を伸ばした状態で固まる。


「今日で、貴女とはお別れよ」


 琴音がゆっくりと顔を横に向ける。

 切れ長の目から放たれる冷たい視線が、円香を鋭く刺した。


「さようなら、これまで楽しかったわ」


 彫刻のように整った顔から、感情の無い冷え切った言葉が吐かれた。

 カメラを持った京香の手がぶるぶると揺れているのが分かる。


 幼い円香は、正面から琴音の苛烈な言葉を浴びた。


 しかし、円香は恐れるでも怒るでもなく、呆れたように肩をすくめるだけだった。


「なんだ、泣いてんの?」


 琴音の変化は鮮烈だった。

 あれだけ冷たく整っていた顔が一瞬で崩れ、頬が赤く染まる。


「泣いてない」


 そう言って琴音が顔を伏せる。


「馬鹿ねぇ。たかが中学が別なだけじゃない」


 円香がそう言った瞬間、琴音が顔をあげてキッと円香を睨む。


「なぁに、もしかして私が居ないと生きていけないの?」


 円香があざ笑うように琴音を見下ろす。


「そんな訳無いでしょうっ!傲慢な女!」


 琴音が握りしめた両手が、わなわなと震えている。


「そんなの今更分かったの?馬鹿ねぇ」


 琴音が歯ぎしりをして背中を向ける。


「…帰るっ!」


 そう言って琴音が早足で歩き出した。


「私は、琴音が居ないと生きていけないよ」


 琴音の足が止まる。


「…え?」


 琴音が振り向いて円香の顔を見た。


「琴音は違うんだ?哀しいわ」


 琴音は一瞬呆気に取られたような顔をして、それから円香を睨んだ。


「…卑怯者!」


 その言葉に、太陽のような嬉しそうな笑顔を円香が浮かべる。


「そんな事も、今更分かったの?」


 悔しそうに睨む琴音に、円香が近づいていく。


「また高校で一緒になれば良いだけじゃない」


 そう言って琴音の手を掴む。


「…3年は、長いわ」


 初めて、琴音が不安で震える声で言った。


「…そうね」


 琴音が円香の手を握り返す。


「私の事、忘れない?」


 円香が首を振った。


「あり得ないよ。今までも、そしてこれからも。私が一番大切なのは琴音だけ」


 そう言って円香が琴音を抱きしめた。


「瀬を早み われても末に 逢はむとぞ思ふ」


 円香が琴音の耳に口をつけるように歌いあげる。


「…まど、か…」


 円香の頬に、琴音が顔を埋めた。


「離れる事があっても、私達は必ず交わる。そうでしょ?」


「…うん」


 琴音の声が震えている。


「だから、私が傍に居なくても精一杯に生きてよ」


「…わかったわ」


 体を離した琴音が、円香に手を差し出した。


「約束よ」


「うん、約束」


 そうして、2人は小指を絡めた。




「琴音」


 ベッドに横たわる琴音に声を掛ける。


「…なに」


 途中から、琴音は両手を目に被せて、ずっとしゃくりあげていた。


「ごめんなさい」

「…どうして、マヤが謝るの」


 泣きながら琴音が言う。


「貴女を、辛い現実に引き戻してしまったから」


 そう言うと琴音は、いやいやをするように首を横に振った。


「…違う。こんな私は、違うのよ」


 琴音はそう呟いて、お腹を両手で強く掴んだ。


「…ごめんなさい、円香…」


 そう言うと、琴音はベッドから起き上がって私に強い視線を向けた。


「看護師さんを、呼んで」

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