2024年5月28日(火)

 壁に掛かった時計を睨む。

 時間はようやく深夜1時を過ぎたところだった。

 このまま何事もなく明日の朝を迎えてほしい。

 そう願ってやまないが、同時にそれは有り得ないという確信がある。


 シャーレは既に脚から外していた。

 試しに立ってみたが、松葉杖無しでもゆっくりなら歩けそうだ。


 周囲を見渡す。

 病室は3階の狭い個室だ。

 誰かが隠れられるスペースはない。


 学校で先輩に話したことは嘘ではない。

 警察病院に侵入してまで私を殺すのは相当困難なはずだ。

 つまり、この部屋にいる限り私の安全は担保されているといえる。

 私は再び時計に目をやり…


 ガチャン!


 突然、派手な音を立てて窓ガラスが割れる。

 振り返ると白い缶詰が床に転がっていた。


 プシューッ


 突然、缶詰から炎と共に激しく白い煙が噴き上がった。


「火事だぁ!!」


 病室の外から叫び声がした。


 ガラッ


 立ち上がって廊下の扉をあける。

 廊下を何人もの人が走り回っていて、天井にはうっすら白い煙が漂っていた。


 部屋に振り返り、床に転がった缶詰を見る。

 激しく煙を吐き出しているが、火が燃え広がる様子はない。


 プシュー


 スプリンクラーが稼働し、天井から大量の水が撒かれ始めた。

 しかし床に転がった缶詰は、依然猛烈な煙を出し続けていた。


「くっ」


 ベッド脇のタオルを掴んで右手に巻くと、缶詰を拾い上げる。

 そして、勢い良く窓の外に缶詰を放り投げた。


 パリン!


 派手に窓ガラスが割れる音と共に缶詰が外に消える。


「琴音ちゃん!」


 その時、看護師さんが息を切らせて病室に入ってきた。


「すぐに病院を出るわ!ついてきて!」

「でも…」

「火事よ!すぐに脱出しないと危ないわ!」


 看護師さんの言葉に唇を噛みしめる。


「…わかりました」


 ベッド脇に置いたリュックを背負ってから、廊下に向かう。


「歩けるの!?」


 看護師さんがベッド脇に置いた松葉杖と私を交互に見た。


「はい、もう大丈夫みたいです」

「そう、なの…?まあ良いわ。ついてきて」


 廊下は悲鳴と怒号が飛び交っていた。

 看護師さんに手を引かれて水浸しの廊下を歩く。

 スプリンクラーが稼働しているようだが、煙は激しくなるばかりで病院は殆どパニック状態になっていた。


「火元は何処ですか?」

「わからないわ。突然沢山の病室から凄い煙が湧いて、正面口も燃えてるみたい」


 病院に投げ込まれた缶詰は発煙筒のように思えた。

 目的は間違いなく、私だ。


「何処に向かってるんですか?」

「地下駐車場よ。車用の出入り口なら通れるかもしれない」

「…分かりました」




 地下駐車場は明かりが灯っていて、人も疎らにしか居なかった。

 院内とはうってかわって静けさに満ちた空間を、看護師さんに引かれて早足で歩く。

 職員用スペースと地面に描かれた場所に行き、白い自動車に近寄る。


 ガチャ


「病院を出るわ。さあ乗って」


 そう言って看護師さんが車の助手席の扉を開けた。


「はい」


 私は中に入ろうとして…


「待ってください!」


 その時、遠くから高い声が私達を引き止めた。

 後ろを向くと、男性の警官さんが走り寄ってきていた。


「っくそ」


 看護師さんが悪態をつく。


「どちらに行かれるのですか?

「患者を避難させます」


 私の体を隠すように看護師さんが前に出た。


「そこに居るのは藤宮さんですね。病院が落ち着くまでは署で保護します」


 警官さんは近くまで来ると、私を見ながら言った。


「しかし…」


 尚も言い募ろうとする看護師さんを、警官さんが手で制した。


「貴女はここの職員でしょう。院内の患者の避難誘導をするべきでは?」

「それは、そうですが…」


 私は、看護師さんの手を握りしめる。


「大丈夫です」

「でも、琴音ちゃん…」

「大丈夫、です」


 看護師さんの目を見てはっきりと言う。


「…分かったわ。ごめんなさい…」


 看護師さんはそう言うと、私をギュッと抱きしめる。

 そして、名残惜しそうに私を何度も見ながら階段の方に駆けていった。


「では、こちらへ」


 男性にしては妙に高い声について私は歩き出す。

 辺りにはお香のような重い甘い匂いが漂っていた。




 パトカーの後部座席に乗った私は、ミラー越しに警官さんの顔を見る。


「今日は、マスクをつけていないんですね」

「はい、もう必要ないので」


 警官さんの唇は真っ赤で、そして肌は異様なほどに白かった。


「昔から、そんなお綺麗な顔なんですか?」

「半分は、ですかね。喉や顎はかなり削りました」

「とても、可愛らしいと思います」

「ありがとうございます」


 パトカーがサイレンを鳴らして深夜の中野通りを駆けていく。

 隣に視線を向けると、後部座席の下には巨大な鞄が置いてあった。


「藤宮さん、トロッコ問題は知ってますか?」

「…はい」


 突然の問いに戸惑いながらも頷く。

 見過ごして5人を殺すか、分岐を変えて1人を殺すかという有名な課題だ。


「貴女はどちらの選択を取りますか」

「見過ごします」


 すぐに答える。


「何故ですか?」

「施設管理者の許可なく分岐を変えるのは法に反するからです」


 警官さんが苦笑している。


「では、如何なる法にも反しないとしたらどうです?」

「見過ごします」


 予想していたので、すぐに答えた。

 パトカーが4車線の巨大な都道、青梅街道を左折した。


「それは何故?」

「何の罪も無い人が、私の選択で死んでしまうという責任を負えないからです」

「なるほど…。では、善良な市民が5人と罪人が1人だった場合はどうですか?」

「…だとしても、見過ごします」


 迷ってから、そう答える。

 バックミラーを見ると警官さんは楽しそうに笑顔を浮かべていた。


「どうしてですか?」

「私が自己中心的だからです。5人を助けるリターンより1人を殺すリスクの方が大きいと考えます」


 パトカーは巨大なビル群に到着した。ここからは東京の副都心である新宿だ。

 ヒルトンとオークタワーが副都心を南北に貫く公園通りの起点となっている。


「いつ頃、気付かれました?」

「…最初に会った時から」


 ほう、と警官さんが感嘆の息を吐く。

 公園通りに入り、新宿中央公園を横目に複雑な立体交差を幾つも抜けていく。


「それはまた、どうして」

「管轄が別のはずなのに、貴方は私の顔を知っていました」


 警官さんが押し黙っている。


「それに、病院にいらした時、裾が椅子の脚に引っかかっていました」

「…え?」

「足首を隠すために相当長いパンツを履かれていますよね」


 パトカーが首都高速新宿線に入っていく。


「貴方の身長は、警官の要件を満たしていないのでは無いですか?」


 警官さんが高らかに笑った。


「凄いですね。殺すのがますます惜しくなってきました」

「私のリストは明日に外れるのでしょう。殺す必要は無いのでは?」


 そう言うと警官さんが少し黙ってから話し始める。


「なるほど、おかしいと思いました。同業者が居るようですね」


 警官さんの言葉に息を呑む。


「まあ、良いでしょう」


 警官さんがトントンとハンドルを指で叩く。

 正面に旋回半径90、最高50km/hと書かれた看板が見えてきた。


「10年近くこの仕事をやっています。最初は殆ど眠れませんでした。苦痛と倦怠感を薬物で誤魔化しながら、100人ほど殺した頃でしょうか。見えるようになったのです」

「見える…?」


 パトカーは一切速度を落とすことなく、看板の下を走り抜ける。

 その瞬間、警官さんがハンドルを大きく左に切った。途端に物凄い横の重力が体に掛かる。


「っ!」

「噴き出す血液が薄く光ったんです。気づいた時、私はそれを夢中で飲んでいました」


 体を強くドアに押し付けられて警官さんをミラー越しに睨む。


「次の日、私は高熱を発し全身を激痛に苛まれました。叫んで呪って激怒して、最後には疲れ果てて泥のように眠りました」


 警官さんは何事もないように話し続けている。


「三日三晩私は眠り続け、目覚めたらあれだけ感じていた体の不調が無くなっていたんです。それから私は人を殺す度に光る血液を接種してきました」


 そう言って警官さんが長く息を吐いた。


「…私の血が光っていた、とでも言いたいのですか?」

「ええ、とても」

「…くだらない理由ですね」


 吐き捨てるように言う。


「おや、お気に召しませんでしたか?」

「ええ。殺すのが仕事なら、とっとと殺せば良いのに」


 パトカーが外苑ICで首都高を降りる。

 警官さんはいつの間にか警帽を外して、代わりに長いウィッグをつけていた。


「これでもかなり迷ったんだよ?殺すか、見逃すか、ね」


 警官さんの話し方が急に艶めいた少女の物になる。

 パトカーが神宮外苑と赤坂御用地の間を抜ける。


「そういえば、何処の署に向かってるんですか?」


 この前、マヤの車で通った道と全く道だった。

 皮肉交じりの問いに少女が楽しそうに笑い声を上げる。


「外国、みたいなとこ、かなぁ?」


 パトカーは六本木通りを左折し、間もなく黒い巨大な門に到着した。


「Hey,Bro!」


 サイレンを止めると、少女はパトカーの窓を開けて、警備員に何かを見せた。


「Thanks,yo」


 少女がひらひらと手を振ってパトカーがゆっくりと走り出す。


「ここは?」


 知らない振りをして、少女に尋ねる。


「米国大使館宿舎。日本人は入ってこれない場所」


 悠々と車がすれ違えるほど太い道をパトカーが進むと、やがて駐車場が見えてきた。

 駐車場の外側は、視界を遮るためか高い土手になっていて、更に何本もの木が植えられていた。


「…なんだけどなぁ」


 少女はそう呟くと、駐車場の中央でパトカーを停止させた。

 時刻は間もなく深夜2時になろうとしていたが、幾つもの街灯に照らされて何台もの高級車が存在感を放っていた。


 少女はため息を付くと、パトカーを降りて駐車場の奥に歩いていく。

 すると、一番奥に止まっている車の陰から男性が姿を見せた。


「待ってたぜ」


 それは、あの鈴木だった。


「どうしてここに居んの?」


 少女の問いに、鈴木が怪訝な表情を浮かべる。


「…お前がここに呼んだんだろ?」


 そう言って、鈴木が右手を前に伸ばす。

 その手にはUSBメモリが載っていた。


「1億分のビットコインが入ってる。約束通りあの女を寄越せ」


 鈴木がそう言って、パトカーに向けて顎をしゃくる。

 かなりの距離はあったが、鈴木と視線があうのが分かる。


「はぁん」


 少女が目を薄く細めて周囲に目配せする。

 そして、尊大な微笑みを鈴木に浮かべた。


「ことわる」


 少女が大きく飛び退るのと、プシュッという空気の漏れる音が幾つも聞こえるのは殆ど同時だった。


 タンッタンッタンッ


 少女は大きく3回後ろにステップを踏んで、パトカーの中に体を滑り込ませた。


「ただいま!」


 少女が強くドアを閉じた瞬間、カンカンという音がしてパトカーが小刻みに揺れる。


「一応防弾だけど、頭引っ込めてた方が良いよー」


 少女はそう言いながら後部座席に手を伸ばし、巨大なリュックを掴み取る。

 窓の外を見ると、異変に気づいたのか2人の警備員が遠くから走り寄ってきていた。


「あちゃぁ…」


 少女が呟くと同時に、警備員が全身から血を噴き出して倒れる。


「平和ボケしちゃって」


 少女を見ると、全身を黒のボディアーマーに固めて、更にシールドまで構えていた。

 最後に、腰のベルトにマガジンを複数差し込むと、ハンドガンを片手に私を見る。


 少女は幸せそうな笑みを浮かべていた。

 そう、これほど楽しい事はあるだろうか?そう言いたげな程に。


「じゃ、行ってきまぁす!」


 興奮し躍動した声で言うと、少女はパトカーの扉を蹴り飛ばして飛び出していった。

 乾いた銃撃音が幾つも鳴り、少女の周りの砂利が激しく宙を舞う。

 しかし、少女は意に介す事なく銃とシールドを構えながら、駐車場の外側に生えた木々に飛び込んだ。


「うわぁ!」


 男性の叫び声が夜闇に響き渡る。

 その声に我に返る。自由に動ける時間は今しかない。


 肩に背負ったリュックを降ろすと、中身を後部座席に広げていく。

 開け放たれた扉の外からは激しい銃撃音と叫び声が聞こえる。

 その中には複数人の英語も混じっていた。


 バァン!


 強烈な銃声がパトカーの正面からした。

 反射的に顔を上げると、上下二つの長い砲身がこちらを向いていた。


 バァン!


 鈴木が顔の横に構えた無骨な銃が揺れる。

 背後から警備員から叫び声が幾つも聞こえる。

 駐車場の入口近くの自動車には、放射状に小さな穴が無数に空いていた。


「その女を早く殺れ!」


 鈴木の怒号が夜の駐車場に轟く。

 それと共に銃撃音と悲鳴がより激しくなる。

 カン、カンという音と共に、パトカーが小刻みに揺れる。

 私は頭を下げてシートの後ろに隠れる事しか出来なかった。


「死ね!」


 鈴木が大声で叫び、ライターを空高く放る。


 ゴウン!


 轟音と共に辺りが一気に明るくなった。

 駐車場の入口近くに止まっていた車が真っ赤な炎をあげている。

 警備員が倒れている人を引っ張ってさがっていく。


「うわぁ、派手だねぇ!」


 楽しそうな声と共に、木々の陰を少女が駆ける。


 パン!パン!


 乾いた銃声が鳴り、鈴木がもんどり打って後ろに倒れた。


「くそっ!」


 悪態をつきながら鈴木が長い砲身を少女に向けた。


 バァン!


 シールドを持った少女の腕が大きく後ろに跳ねた。

 …しかし、それだけだ。

 少女は何事も無かったように、木々の間を駆け抜けていく。


「ちぃっ!」


 悪態をついて鈴木が車の後ろにしゃがみ込む。

 そして、背負った鞄から弾を2つ取り出した。

 長い砲身をずらすと、その砲弾を一つずつ込めていく。


「クソあまぁ!」


 鈴木が叫びながら腕を出して少女に狙いを定める。


「ざぁんねん」


 パン!


 短い破裂音がして鈴木の腕が上に跳ねた。

 うめき声をあげて長銃を取り落とした鈴木に、少女が一直線に近づく。


「下手だねぇ」


 鈴木がナイフを取り出す。


「死ね!」


 そのままナイフを振りかぶって少女に投擲した。

 しかし、少女は軸をずらしてナイフを避ける。

 そして…


「おーしまい!」


 パン!パン!


 胸と顔から血が吹き出し、鈴木が地に倒れ伏した。


 …今しかない!


 圧力鍋を両手で抱えて前の席に移動する。

 そして、それをドアの外に転がした。


 パタン


 パトカーの扉を静かに閉める。


 少女がこちらに手を振っている。

 あれだけ鳴り響いていた銃声はすっかり止んでいた。


「おまたせ!」


 少女は愉快そうに笑顔を浮かべてパトカーに近づいてくる。


 …今だ!


 スマホの発信履歴を開きリダイヤルボタンを押した。


 バゴオオオオン!


 その瞬間、物凄い衝撃が走る。


「っつう!」


 パトカーが横に激しく回転し、全身が叩きつけられる。

 エアバッグが視界を埋め、割れた窓ガラスが全身に降り掛かった。


「かはっ!」


 咳と共に血液がこみ上げる。


 ただの圧力鍋なのに、恐ろしい威力だった。

 しかし、これだけの爆発なら…


 エアバックの隙間から、風通しの良くなったフロントガラスの向こうを見る。


 少女は、地面を血溜まりに染めて倒れ伏していた。

 その傍には五寸釘が突き刺さり、粉々に割れたシールドが転がっている。


 …終わった。


 ふうぅ、と深くため息を付く。


「っしょ…」


 逆さまになったパトカーの中で体をゆっくり伸ばしていく。

 全身に激痛が走った。内臓の損傷だけでなく、骨にヒビが入っているかもしれない。


 見上げてみるが、エアバッグと座席に体を挟まれて前方のドアまでは手が届きそうにない。

 足元の扉を押してみるが、こちらも開く気配はなかった。


 じっとしているしかない、か…。


 そう考えて周囲に視線を巡らすと、信じられない物が視界に映った。

 血溜まりに沈んでいた少女が膝立ちになっていたのだ。


「やる、ねぇ…!」


 傍の車に手をかけて少女がゆっくりと立ち上がる。


 っ…!


 慌てて足元の扉を蹴りつけるが、やはり開く気配はない。

 少女は手に持った銃をちらりと見て投げ捨てると、腰に巻いたベルトから大型のナイフを抜き出した。


「もう良いや。殺す」


 そう言って少女は左脚を引きずりながら、ゆっくりとこちらに歩いてくる。

 体は車の中で挟まれて動かしようがない。

 粉々に割れたフロントガラスの奥で、私は少女を睨みつけることしか出来なかった。


 ブロロロ!


 突然鋭いエンジン音が鳴り響き、強烈な明かりが少女を照らした。


 パン!パン!


 銃声が鳴り少女の体から血飛沫が飛ぶ。


「っくぅ!」


 うめき声を挙げながら、少女が前に飛び込んだ。


 ブロロロ!


「っな!」


 地に伏せて驚愕の表情を浮かべる少女。

 そこに横倒しになった大型バイクが襲いかかった。


「っつぅ!」


 少女は更に前方に跳ねた。

 しかし勢いが足りずに脚を車輪に巻き込まれてしまう。


「があああ!」


 そのまま少女はバイクに引きずられて地面を滑っていき…


 ガゴン!


 赤いスポーツカーに衝突した。


 私は呆然と少女の行方を見ていた。


 っ!


 しかし、余りに衝撃的な光景に目をそらす。

 バイクの下から大量の血が流れ出していた。


 大型バイクと車に挟まれたのだ。

 少女はもはや原型すら留めていないだろう。


「…わりい、遅れた」


 その時、後方から低い声が聞こえた。

 振り向くと、擦り傷だらけの先輩がこちらの歩いてきていた。


「…いえ、最高のタイミングでしたよ」


 先輩の後ろには、傷だらけのマヤも居た。

 その手にはハンドガンが握られていた。


 大きくため息をつく。

 今度こそ、ようやくこの長い夜も終わりのようだ。


 この後がどうなるかは分からないが、皆の命があるだけでもこれ以上の事はない。


 遠くから警備員がゆっくりと近づいてくる。

 拳銃を地面に捨てたマヤが彼らに話しかけていた。


「おい、出れるか?」


 気づくと正面のドアが開いて先輩が手を伸ばしていた。

 私は頷いてその手を握る。


「ったぁ!」


 胸に激痛が走る。


「こりゃ駄目だな。先に救急車を呼ぼう」


 手を離すと先輩がスマホを操作しだした。

 先輩が電話口で住所を繰り返している。いたずらだと思われているのかもしれない。


「ふふっ」


 しかめっ面の先輩を見て思わず笑ってしまった。

 先輩が怖い目で睨んでくる。しかし、今ではそんな姿すら可愛く見えてしまう。


 ガン!


 その時、遠くから金属を叩くような音がした。


「…えっ?」


 後ろを向くと、スポーツカーにめり込んでいたバイクが小さく揺れている。


「嘘、だろ…」


 先輩が呆然と呟く。


 ガン!


 低い金属音がバイクの下から鳴り響く。


 ガン!ガン!


 バイクの振動は大きくなっていき、やがて少しずつ動き出した。


「勘弁、しろよ…」


 バイクがずず…と音を出して車から離れていく。

 そして、バイクの裏側から、煤に汚れた白い腕が突き出た。


 バン!


 白い腕がバイクの車体を抑えつけ、ゆっくりと少女が姿を見せる。

 呆然と見ていると、少女と視線が合った。


「あはは…。あはははは…!あはははははは!!!」


 血と煤でボロボロになった顔を片手で覆い、少女が哄笑を挙げる。


「Freese!」


 2人の警備員がパトカーに近寄りながら少女に銃を向けた。


「…あ?」


 少女が手を降ろし警備員を睨みつける。


「Don't move!」

「煩い!」


 その瞬間、少女が白い腕を振るった。

 強烈なバックスピンの掛かったナイフが警備員に向かう。


「Shit!」


 浮き上がるような軌道で高速で飛来したナイフが、警備員の脇腹を深く縦に切り裂く。

 警備員が臓物を撒き散らして、悲鳴を挙げながら崩れ落ちる。


 パン!パン!


「Fack!!」


 もう一人の警備員が雄叫びを挙げながら銃を乱射する。


「ふっ!」


 少女がバイクの後から大きく跳ねる。

 そして、左手を大きく振った。

 五寸釘が少女の手から打ち出される。


「Fack UPP!!」


 警備員が倒れ込むように飛び退く。

 そして、すぐに起き上がり銃口を少女に向ける。

 しかし…


「Holy,Shit!」


 警備員の腹部に、抉りこむようにナイフが突き刺さっていた。


 地面に沈む警備員の向こうに血みどろの少女が立っている。

 右手を前に伸ばした体勢で、少女は狂ったような笑顔を浮かべていた。


「化け物…」


 そう呟いたのは私と先輩、どちらだったろうか。

 少女がゆっくりとこちらを振り向いた。


 パン!パン!パン!


 銃撃音がして少女が血飛沫を挙げながら飛び退く。

 マヤが銃を構えながら走り寄ってくる。

 撃たれたはずの少女は既に車の陰に隠れていた。


「逃げて」


 先輩の隣まで来たマヤが、銃の弾倉を交換する。


「駄目だ、こいつは…」

「先輩、やってください!」


 そう言って先輩に右手を精一杯に伸ばす。

 その動きだけでも体中に激痛が走った。


 パン!パン!


 パトカーの後ろから腕を伸ばしてマヤが銃を連射する。


「早く」


 マヤが先輩を睨む。


「っち、わぁったよ!」


 逆さになったパトカーの扉に先輩が腕を差し込む。


「時間を稼ぐ」

「駄目、待って!」


 マヤがパトカーの影から飛び出していく。


「先輩、マヤを止めて!」

「それは無茶な相談だ!」


 そう言って先輩が私の手を両手で掴んだ。


 目を剥いて先輩を睨む。

 しかし、先輩も歯を噛み締めて私を睨んでいた。


「引くぞ!歯ぁ食いしばれ!」


 精一杯に腕を伸ばして、先輩の腕を強く掴む。


 …っぐぅ!


 損傷した体が無理やりに伸ばされて、激痛が走る。

 額に脂汗が大量に湧く。

 しかし、悲鳴をあげるわけにはかない。


 パン!パン!


 背後から銃声が聞こえる。

 マヤが1人であの少女と向かい合っている。


 逆さになったパトカーから徐々に引っ張り出されていく。

 覆いかぶさった座席やエアバッグ、大量のガラスの破片が私を逃がすまいと抵抗している。


「大丈夫か!」

「問題、ないです…!」


 先輩の肘を掴んで無理やり身体をパトカーから引きずり出した。


「っぐぅ!」


 膝を地面に押し付けて立ち上がる。

 一刻も早く、ここから離れなければならない。


「歩けるか!」

「行けます…!」


 私がそう答えると、先輩は私から腕を離した。

 そして、パトカーの前にゆっくりと踏み出す。


「…先輩?」


 あれだけ聞こえていた銃撃音は既に消えて、パチパチと燃える車の音だけが夜闇に残っていた。


「行け」


 そう言うと、先輩は勢い良く走っていった。


「なにを!」


 先輩が倒れ伏した警備員に近寄る。

 そしてハンドガンを掴み取り、宙に向けた。


「クソっ!」


 先輩が構えた銃の先には、煤と血でボロボロになった少女の姿があった。


「はは、健気だねぇ」


 少女が左脚を引きずりながらゆっくりと歩いてくる。

 その手にはマヤがぶら下げられていた。


「まやぁ!!」


 マヤが頭を垂れて引きずられている。

 長い金髪が、泥と血に塗れて力なく揺れている。

 その腹は警備員達と同様に縦に深く割かれて腸がはみ出ていた。


「止まれ!撃つぞ!」

「良いよ、好きに撃ちなよ」


 少女が不敵に笑ってマヤを前に掲げる。

 マヤの腹から跳ねた血が地面に散らばった。


「っつぅ!!」


 その瞬間、お腹の奥が強烈に熱を発し始めた。

 左手でお腹の下を掴む。

 何か、得体の知れないものがそこに蠢いていた。


「っちぃ!」


 パン!


 先輩があらぬ方向を向けて銃を放つ。

 しかし、少女は意に介す事なくマヤの体の後ろから先輩に銃を向ける。

 それはマヤが持っていた銃だった。


 パン!


 間一髪に飛び退いた先輩に代わり、警備員に新しい穴が空く。


 パン!パン!


 逃げ惑う先輩に、少女が次々に銃を発射する。

 先輩は車の後ろに逃げ込んだ。

 しかし、血を噴き出しながら先輩がすぐに飛び出す。

 銃弾が車をあっさりと貫通していた。


 …このままじゃ!


 周囲を確認する。


「…っ、はやく、にげろ!」


 先輩が腕と腹から大量の血を流している。

 精一杯に少女に向けた銃も、ブルブルと震えていた。


「っ!」


 反射的にパトカーの陰から飛び出して警備員の死体に取り付く。


 パン!パン!


 奪い取った銃を乱射しながら、先輩とは逆側に走る。


「っとと、危ないなぁ」


 少女が後ろに跳ねながらマヤを僅かにこちらに向ける。


「先輩!」


 私が叫ぶのと先輩がトリガーを引くのは殆ど同時だった。


 パン!


 縦横無尽に飛び跳ねる少女。更に相当の距離がある。

 しかし、血を噴き出しながら先輩が撃った弾丸は…奇跡的に少女の肩に命中した。


「っち!」


 マヤを取り押した少女が、銃を撃ちながら飛び退る。


「せんぱい!!」


 数発の銃弾を浴びて先輩が崩れ落ちる。


「このぉっ!」


 パン!パン!


 ハンドガンを少女に乱射しながら車の間を駆け抜ける。

 そして、弾切れになったハンドガンを放り捨て、鈴木の死体に取り付いた。


 左足と左腕が潰れた少女が、私に銃を向ける。


「お前はもう死ね!」


 少女がそう叫んだ瞬間、世界から色が消えた。

 少女が構えた銃口とトリガーに構えた指がはっきりと見える。


「ふぅ!」


 鈴木の死体から長銃と弾を掴み取って大きく跳ねる。

 そのまま少女に長銃を向けた。


 バァン!


 肩口に構えた銃が跳ねて、重い衝撃と共に大量の鉛の弾が発射される。

 しかし、血みどろの少女は右脚一本で大きく跳ねて避けると、私にハンドガンを向ける。


 パン!パン!


 逆方向に飛び退りながら再度銃口を向ける。


 バァン!


 構えた長銃の銃口が火を吹く。

 しかし、少女は再び大きく横に跳ねて全ての鉛玉を避けた。


 …このままじゃ駄目だ。


 車のエンジン部の後ろに飛び込んで長銃に弾を込めていく。


 パン!パン!


「っつ!」


 少女の撃った弾が車を貫通し、左脚にめり込んだ。


 その瞬間、全身がマグマのように熱を帯びる。

 脳細胞が活性化し全神経のシナプスが情報を収集する。


 …弾丸が木に到達まで0.2秒。秒速400m/s。弾丸の長さは7cmで6mmの穴が放射状に20。


 バァン!バァン!


 車の陰から長銃を放つ。


「見えてるんだよ!」


 しかし、少女は右脚だけで拡散する鉛玉をあっさりと避ける。


 更に2つの弾を長銃に込める。


 …太い弾丸の前方に複数の鉛玉、後ろに火薬。集弾分布は楕円球。長径は約1m。


 剣道の正眼のように長銃を構えて、車から飛び出す。

 左手で砲身を支え、右手でグリップを握り、銃先を少女の胸に向ける。


「馬鹿じゃない!」


 少女が私に銃口を向ける。


 パン!パン!


 肩と胸を銃弾が貫く。

 しかし、私は仁王立ちのまま少女に銃先を合わせた。

 下腹部でグリップを固定し、トリガーに触れる。


 その瞬間、少女が大きく横に跳ねた。


 トリガーを押し込むのと同時に、腰を捻り銃口を真横まで回転させる。


 バァン!


 強烈なスイングと共に爆発した火薬は、前方一帯を薙ぎ払うように鉛玉を吐き出した。


「っなにぃ!」


 全周囲にばら撒かれた散弾を避けきれず、少女が血を噴き出しながら後ろに吹き飛ぶ。


「もう、死んで!」


 バァン!


 崩れ落ちる体を膝で支え、吹き飛んだ少女に向けてトリガーを引く。


「っざけんなぁ!!」


 少女が両腕と脚を地面に叩きつけ、宙に跳ねる。

 しかし、その勢いは明らかに足りない。

 大量の鉛玉が少女の腰から下に直撃する。


 両脚を後ろに吹き飛ばしながら、しかし、宙に飛んだ少女が私に銃口を向けた。


「僕の、勝ちだぁ!!!」


 パァン!


 少女の銃口から発射された弾丸が、私の顔に向かって飛来する。

 その瞬間、私と少女の間を何かが遮った。


「勝つのは、俺達だ…」


 頭から血を噴き出し、先輩が私の足元に倒れ伏す。


「あああああああ!!」


 絶叫を挙げて、先輩の血みどろの手を握る。


「しついこんだよ!もう死ねええええ!!」


 少女が地面に倒れ伏しながら銃口を向ける。


「おまえがあああ!!」


 血涙を零しながら、先輩の手を少女に向ける。

 そして、先輩の指を押し込んだ。


 パァン


 鳴った銃声は殆ど一つだった。

 同時に発射された2つの銃弾は、宙で行き交い、絡み合って…

 そして、私達の額を同時に撃ち抜いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る